もと興福寺北円堂に伝来したという四天王像の南方天である。しかし、北円堂伝来は疑わしく、本来の原所在は不詳。広目天像は興福寺の所蔵のままであるが、本像(増長天)と多聞天像は当館に、また持国天像はミホ・ミュージアムに分蔵される。右手を上げて戟を執り、左手を腰に当て、腰を左に捻り、右足で邪鬼の頭部を押さえ、左足で邪鬼の背を踏まえる形姿をあらわす。体勢の動きがやや押さえられた感じが否めないが、眉を寄せ、瞋目、開口して威嚇する表情には迫力がある。甲冑を身につけながらも、がっしりとした、太造りの体形は、肉取りの起伏が意識され、重厚な感じがあらわれている。重量感をともなった、この種の量感表現は、平安後期においてもなお奈良仏師のなかで継承されてきたと考えられ、もと内山永久寺伝来の東大寺多聞天像(1159年)および持国天像(1178)とも共通する表現である。さらにまた治承兵火(1180年)後の興福寺南円堂復興像(1189年)と推定される同寺仮金堂の四天王像にも通じるところであり、平安末期から鎌倉初期にかかる南都の四天王像の一系列を形成している。なお本像の製作年代については異説があり、他に平安中期説(11世紀)または鎌倉初期説(12世紀末)なども提示されるが、いずれも奈良仏師の作であることでは一致している。
(鈴木喜博)
甲に身をかため、右手を振り上げて戟(げき)を立てる増長天像。左手を腰にあて、右足を挙げて邪鬼(じゃき)上に立っており、太造りの体型と開口して怒号する形相は迫力満点である。興福寺に伝来し、持国天像(滋賀・MIHOMUSEUM蔵)、広目天像(興福寺蔵)、多聞天像(奈良国立博物館蔵)とともに一組の四天王像を構成していたが、境内諸堂の様子を表す興福寺曼荼羅(こうふくじまんだら)(京都国立博物館蔵)に描かれた数組の四天王像とは、形式が一致しない。等身の立派な作例だがかつての安置堂宇は謎に包まれており、造立年代についても見解が分かれている。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.108, no.140.