地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒出世までの無仏世界の救済を仏にゆだねられた菩薩で、地獄や六道をめぐり、さまざまに姿を変えて人びとを救うとされる。こうしたときの地蔵は菩薩でありながら宝珠・錫杖を持つ比丘の姿に表される。わが国では平安時代後期以後、浄土教の隆盛とともにその信仰が広まり、造像も盛んとなる。本図は地蔵菩薩の住所である、佉羅陀耶山中の岩座に安坐する様を表したもので、月輪仲の二重円光を負い、左足を垂下する姿である。肉身表現は精緻であり、寒色系を中心とした着衣には戴金の文様をこまかくほどこしている。背後には急峻な山容が立ち上がり、飛瀑がかかりそれは地蔵の足下へみちびかれる。水墨を主とした表現とするが、岩皺には銀泥もはき、聖地としての地蔵の浄土を表している。仏画中に採り入れられた水墨山水表現は、補陀落山に安坐する観音菩薩の図様にもっとも多く見られるが、本図はそうしたところから着想を得たと思われる。鎌倉時代後期の初期水墨画勃興期に制作された違例の地蔵菩薩像である。
(梶谷亮治)
聖と隠者―山水に心を澄ます人々―, 1999, p.221
地蔵菩薩は、釈迦如来の滅後、次に弥勒如来が現れるまでの無仏世界において、衆生の済度にあたる。六道、すなわち天・人・阿修羅(あしゅら)・畜生(ちくしょう)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)の六種の生き物の世界のあらゆる所に赴くとされ、その行動性を表すため、飛雲に乗った立像でよく表されたが、この様に山水景観中に坐る静的な図もある。補陀落山(ふだらくせん)の観音を表す図からの連想により構成されたかとも推量される。像容は、僧形で左手に宝珠、右手に錫杖を執り、通例と変わらない。相貌や体躯は小さく引き締まって端正にまとまる。着衣の青緑系を主とする彩色と過剰気味の細緻な截金文様、また山水描写に取り入れた素朴な水墨画的手法など、宋元画の影響も見られ、鎌倉時代後期の仏画の傾向をよく示す作品である。
(中島博)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.316, no.169.