清拙正澄(大鑑禅師、1274~1339)は元から来朝し、日本の風俗に即した禅林の規矩である『大鑑清規』を撰するなど、わが国の禅宗の発展に貢献した禅僧である。愚極智慧の法嗣。月江正印の実弟。嘉暦元年(泰定3年・1326)に53歳で招かれて来朝し、北条高時に迎えられて鎌倉・建長寺の第二十二世となった。そののち円覚寺や南禅寺を歴住し、元弘3年(1333)には後醍醐天皇の勅により京都・建仁寺第二十三世を嗣いだ。
この墨跡は、来朝した翌年の4月22日、建長寺在住中に月窓禅門に与えた法語で、徳山和尚の語を引用して悟道の要諦を説き示している。全文27行。年紀、署名、花押、印記を備えており、清拙正澄の代表的な墨跡である。
なお月窓禅門については詳らかではないが、鎌倉幕府の要人の1人かと考えられている。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.309, no.145.
清拙正澄は嘉暦元年(一三二六)に来日し、翌年二月、北条高時に迎えられて鎌倉の建長寺に住した。この墨跡は、建長寺に住して間もない時のもので、月窓禅門(不詳。鎌倉幕府の要人と推測されている。)の求めに応じて与えた法語である。時に清拙正澄は五十四歳。内容は、徳山和尚の語を引用しながら、生死悟道の大事に達するよう懇切に指導したものである。年紀・著名・花押・印記をすべて備えており、清拙正澄筆の代表的墨跡のひとつである。
(西山厚)
鎌倉仏教―高僧とその美術―, 1993, p.237