奈良時代の高僧、行基の遺骨を納めていた容器の断片。行基の墓は竹林寺(ちくりんじ)(奈良県生駒市)境内にある。鎌倉時代に発掘され、当時の記録によれば、八角の石筒や二重の銅筒に守られ銀の舎利(しゃり)容器が安置されていたという。それらは戦国時代の兵火で失われてしまったが、銅筒の破片(本品)だけが奇跡的に残された。もとは桶状の容器とみられ、外面に長文の墓誌銘が刻まれていた。発見当時に全文が写されており(「大僧正舎利瓶記」、奈良・唐招提寺蔵)、それに照らすと一行目は大僧正の位を授かった天平十七年(七四五)、二行目は僧綱(そうごう)(僧尼を管理する官職)が完備し其上に就いたと雖(いえど)も満足しなかったこと、三・四行目は天平二十一年二月に右京の菅原寺(奈良・喜光寺)で八十二歳の生涯を閉じたことなど、行基の後半生の重要な部分であることが分かる。なお、肉眼では確認できないが、表面には鍍金が施されていたことが蛍光X線分析で判明している。
(吉澤悟)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.246, no.23.
行基の骨蔵器を覆っていた外容器の一部で、外面に行基の略歴が刻まれている。行基は天平二十一年(七四九)に亡くなり、遺命により「生馬山之東陵」で火葬にされたという(『大僧上舎利瓶記』)。現在の竹林寺(奈良県生駒市有里)がその場所で、文暦二年(一二三五)に竹林寺の僧寂滅は行基からの託宣に従って発掘を行い、八角形の石櫃を見出した。発見の経緯を記した「僧寂滅注進状」(唐招提寺蔵)によれば、石櫃の中には鑰(かぎ)をかけた銅筒があり、その中に金銅製の容器、さらにその中に銀製の水瓶形舎利容器が収められていたという。本品はこの二番目の金銅製容器の一片で、当初は円筒形であったと思われるが、現在は被熱により三角形の小破片となっている。表面に刻まれた銘文は『大僧上舎利瓶記』に三〇八文字からなる全文が書き写されていたため、本品が行基の略歴のどの部分に相当するかが分かる。本品の「二月二日」は行基が亡くなった天平二十一年二月二日を記した部分である。行基の銀製の舎利瓶はその後も礼拝され続けたようで、弘長三年(一二六三)に東大寺で舎利供養が行われたことが『百練抄』に見える。しかし、竹林寺が火災に遭った時のことか、舎利瓶も銅製の容器も失われてしまい、現在、行基墓に関わる現物は本品が唯一の遺品となっている。
ところで、この行基墓が発掘された文暦二年は、忍性が一九歳、母を失って三年後のことである。忍性の伝記『性公大徳譜』によれば、この年から六年間、毎月生駒に詣でており、後の忍性二三歳の時には生駒に一四日間参寵して菩提心を祈り、文殊菩薩を念じたという。もとより文殊菩薩の供養を実践してきた忍性が、文殊菩薩の化身とされた行基その人の遺骨にまみえることは、非常に印象的なことであったに違いない。忍性はこの行基の墓所の発掘に参加していたとの推測もあるが、少なくとも本品が完形だった頃の姿を忍性は目にしていたはずであり、銘文も読んでいたことであろう。この行基との「出会い」は、忍性が救済活動に邁進するきっかけ、心の出発点になったと言えるかもしれない。
(吉澤悟)
忍性-救済に捧げた生涯-. 奈良国立博物館, 2016.7, p.233, no.36.
行基墓所は奈良県生駒市有里の竹林寺境内にある。文暦二年(一二三五)、竹林寺の僧寂滅は行基本人から託宣を受け、その墓所発掘をし八角形の石筒を発見している。「僧寂滅注進状」(唐招提寺所蔵、『大日本仏教全書』寺誌叢書3所収)によれば、その中には鑰をかけた銅筒があり、さらに金銅製の容器、そして銀製の水瓶形舎利容器が収められていたという。本品はこの銀製舎利容器を収納した一重めの金銅製舎利容器の破片である。当初は円筒形であったと思われるが、現存するのは逆三角形の残片で、火をうけたために若干の変形と黒色化を遂げている。鋳銅製で、表面は滑らかに整えられ、蛍光X線分析によって鍍金の痕が額人されている。銘文は、幅二.一センチの間隔で引かれた罫線の中に、一文字約二センチ大の漢字が力強く鏨彫りされている。文字は十二文字と残画が九文字分、計二十一文字が四行にわたって確認できる。この全銘文を書き写した「大僧上舎利瓶気」には、全部で三百八文字が認められ、本品にみえる文字配置を参考に、一行二十字、十七行にわたる配列が復元されている。本品は墓誌銘の後半部分に相当し、天平十七年に大僧正の位を得たこと(一行目)、僧網が整いその頂点に居たこと(二行目)、天平二十一年二月二日に右京菅原寺で八十二歳の生涯を閉じたこと(三.四行目)など、行基の後半世の重要な部分を含んでいる。日本古代の墓誌はわずか数行の簡易な記録が一般的であるが、多くの崇敬を集めていた行基のものだけに中国風の本格的な内容を備えており、『続日本紀』の示寂伝と併せて高い史料的価値をもつ。長文の墓誌としては、景雲四年(七〇七)銘の国宝威奈大村骨蔵器(いなのおおむらこつぞうき)に並ぶ貴重な実例である。ところで、この舎利瓶発見の知らせは広く耳目を集めたようで、翌年の嘉禎二年(一二三六)に京都で開帳され、弘長三年(一二六三)には東大寺で舎利供養が行われている(『百錬抄』)。その模作とされる室町時代の舎利瓶塔が唐招提寺に現存するが、現物は竹林寺の伽藍が兵火に遭った際に焼失したと思われ、本品はその唯一の遺品である。ちなみに、重源はこの舎利瓶発見の約三十年前に亡くなっており、直接まみえることはできなかった。
(吉澤悟)
御遠忌八百年記年大勧進 重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出―, 2006, p.235-236
行基墓所は奈良県生駒市有里の竹林寺境内にある。文暦2年(1235)、竹林寺の僧寂滅は行基本人からの託宣を受け、その墓所を発掘し八角形の石筒を発見している。「僧寂滅注進状」(唐招提寺所蔵、『大日本仏教全書』寺誌叢書3所収)によれば、その中には鑰をかけた銅筒があり、さらに金銅製の容器、そして銀製の水瓶形舎利容器(すいびょうがたしゃりようき)が収められていたという。本品はこの銀製舎利容器を収納した一重めの金銅製容器の破片である。
当初は円筒形であったと思われるが、現存するのは逆三角形の残片で、火を受けたために若干の変形と黒色化を遂げている。鋳銅製で、表面は滑らかに整えられ、蛍光X線分析によって鋳金の跡が確認されている。銘文は、幅2.1センチの間隔で引かれた罫線の中に、1字約2センチ大の漢字が力強く鏨彫りされている。文字は12文字と残画が9文字分、計21文字が4行にわたって確認できる。この全銘文を書き写した「大僧上舎利瓶記」には、全部で308文字が認められ、本品にみえる文字配置を参考に、1行20字、17行にわたる配列が復原されている。本品は墓誌銘の後半部分に相当し、天平17年に大僧正の地位を得たこと(1行目)、僧網が整いその頂点に居たこと(2行目)、天平21年2月2日に右京菅原寺で82歳の生涯を閉じたこと(3・4行目)など、行基の後半生の重要な部分を含んでいる。日本古代の墓誌はわずか数行の簡易な記録が一般的であるが、多くの崇敬を集めていた行基のものだけに中国風の本格的な内容を備えており、『続日本記』の示寂伝と併せて高い資料的価値を持つ。長文の墓誌としては、慶雲4年(707)銘の国宝威奈大村骨蔵器(いなのおおむらこつぞうき)に並ぶ貴重な実例である。
ところで、この舎利瓶発見の知らせは広く耳目を集めたようで、翌年の嘉禎2年(1236)に京都で開帳され、弘長3年(1263)には東大寺で舎利供養が行われている(『百練抄』)。その模作とされる室町時代の舎利瓶塔が唐招提寺に現存するが、現物は竹林寺の伽藍が兵火に遭った際に消失したと思われ、本品はその唯一の遺品である。ちなみに、重源はこの舎利瓶発見の約30年前に亡くなっており、直接まみえることはできなかった。
(吉澤悟)
『御遠忌800年記念特別展 大勧進 重源 東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出』奈良国立博物館, 2006, p.235-6, no.74.
奈良時代の高僧、行基の火葬墓から出土した銅鋳製の墓誌断片で、残画を含め4行21字が残る。奈良・唐招提寺に伝わる『竹林寺略記』によると、行基墓は文暦2年(1235)に発掘され、八角石筒の中に銅筒を納め、その中に「行基菩薩遺身舎利之瓶」の銀札を付した銀製舎利瓶が奉安されていたという。銀筒には20文字詰17行、309字からなる「大僧正舎利瓶記」が刻まれていた。それによると、行基は天平21年(749)に右京の菅原寺(喜光寺)で亡くなり、生駒山東麓で火葬され、竹林寺(生駒市有里)の境内に葬られるが、この墓誌の残欠はその一部と認められる。形式の整った中国風の墓誌銘の遺例として貴重である。
なお、行基墓は文暦2年に発掘されたのち、埋め戻されているので、現在の遺品はその後に再び掘り出されたものである。
(井口喜晴)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.282, no.19.

