『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第5号
奈良国立博物館研究紀要
平成15年3月31日発行


奈良国立博物館所蔵普賢十羅刹女像について

増記 隆介



  はじめに
一 普賢十羅刹女像の所依経典
二 奈良国立博物館本の図像
三 奈良国立博物館本の表現
四 羅刹女の和装化と興然『五十巻鈔』
五 奈良国立博物館本の絵画史的意義
  おわりに


 はじめに


 明治期における一大蒐集家、赤星弥之助(一八五三-一九〇四)の有を経て(1)、現在、奈良国立博物館に所蔵される「普賢十羅刹女像」(以下奈良博本と略記)(口絵1)は、合掌し騎象する普賢菩薩に九体の羅刹女、鬼子母、二菩薩、二天王をあわせ一群の雲上に描いたものである。我が国の法華経絵画の歴史において、平安時代後期から鎌倉時代にかけて数多くの普賢十羅刹女像が描かれた事は、記録の上からも知られ、その現存遺品は二〇点余を数える。最古の絹絵の遺例である十二世紀後半の京都・廬山寺本他、その多くは描かれた十羅刹女が襠衣等の唐装をなすが、一方で、十羅刹女を「女房装束」の和装姿で描くものもある。和装本の現存遺品は東京・個人蔵本(益田鈍翁旧蔵、以下、旧益田家本)(図1)を最古とし、静岡・大福寺本、東京芸術大学本が知られ、本稿で取り上げる奈良博本もその一つである。さらに兵庫・福祥寺には、奈良博本と同図様の一本が伝存する。これらの作品は、いずれも鎌倉時代以降の制作になるが、和装の羅刹女のみを一体ずつ描いたとみられるものに、仁平二年(一一五二)の制作とされる(2)「扇面法華経冊子」(四天王寺・東京国立博物館蔵)表紙絵、及び長寛二年(一一六四)頃の「平家納経」(厳島神社蔵)のうち「従地涌出品」「観普賢経」の見返絵があり、十羅刹女の「和装化」が十二世紀半ばには、既に行われていた事が知られる(3)


 本稿は、以下奈良博本についてその図像、および表現の特質を指摘する。あわせて、表現における宋画受容、十羅刹女の和装化の問題等へ考察を及ぼし、本像の絵画史上における位置付けを試みるものである(4)




 一 普賢十羅刹女像の所依経典


 奈良博本の図像を考察するに先立ち、普賢十羅刹女像造像の所依経典について一瞥しておきたい。普賢十羅刹女像に描かれる普賢菩薩、及び薬王、勇施の二菩薩、毘沙門、持国の二天王、鬼子母、十羅刹女は、それぞれ『法華経』巻第八「普賢菩薩勧発品」第二八(以下、「勧発品」)、及び「陀羅尼品」第二六に説かれる尊格である(5)。この事は、既に多くの先学によって指摘されている(6)。これらの尊は、いずれも同経中において釈迦に法華経信仰者を護持することを誓うが、普賢菩薩にこれらの眷属が伴うことについては、そのいずれにも説かれていない。さらに『法華経』には各尊の像容に関する具体的な記述はなく、各尊は個別の経軌に基づいて描かれる。よって、現存遺品においても作例ごとに図像の細部における異同が確認される。 また、奈良博本のように以上の尊の大部分を描くものや京都・廬山寺本のように普賢菩薩に十羅刹女、鬼子母のみを描くもの、また、藤田美術館本のように「勧発品」「陀羅尼品」には登場しない童子を合わせ描いたもの等(7)、全体の尊像構成にもいくつかの種類がある。但し、普賢菩薩については、おおよそ『観普賢菩薩行法経』(『大正新修大蔵経』巻八)(8)及び、円仁 (七九四-八六四)請来の「阿蘭若比丘見空中普賢影」に依拠し、我が国において広く流布した、普賢菩薩来儀図と同様の合掌騎象の姿であらわされる。また、十羅刹女については『法華十羅刹法』(大正蔵二一)に像容に関して記載される。しかし、それらのいずれにおいても普賢菩薩と十羅刹女以下の諸眷属との関わりについては記されていない。

 以上の理由から、普賢十羅刹女像の研究においては、現存する造形遺品を通じて、その図像形成の様相を復元的に考察することが求められる。これについては、「普賢十羅刹女像の成立をめぐる諸問題」と題した前稿において試み、一つの考察結果を呈示した(9)。すなわち、唐から元時代に至る中国絵画の現存遺品の中から、普賢十羅刹女像に近い図様をもつ作例を取り上げ、普賢十羅刹女像がそれらの先行例に基づき成立した可能性を指摘した。そして、我が国におけるその成立時期として、十一世紀半ば頃が一つの目安となることを示した。平安時代に遡り得るような新たな作例、もしくは史料を見出していない現時点においては、ここで以上の説を再検証することは難しい。但し、忠尋(一〇六五-一一三八)撰述とされる『法華文句要義聞書』第一(大日本仏教全書本)の以下の記述は普賢十羅刹女像の研究においてもう少し注目されてもよいだろう(10)。同書には次のようにある。



(前略)一代経十羅刹云事無之。限此経(筆者註=法華経)説之。
覚大師普賢道場勧請此神。祈行者外護。(後略)

 普賢道場、つまり法華三昧法の場において、行法の本尊である普賢菩薩と行者を護る存在としての十羅刹女が結びつくものと理解されている。それが慈覚大師・円仁によって始修されたとしている点も興味深い(11)。これに続いて、「十羅刹住處等諸経不分明。不空三蔵所訳羅刹母経少分説之。十羅刹者本住トウ利。トウ利内宮此十羅刹有之。(中略)勧発品八万四千天女迎摂行者者即是也(後略)」とある。不空訳の『羅刹母経』については、現時点では明らかにし得ないが、十羅刹女の住処がトウ利天であるとの理解から「勧発品」に「是人命終。当生トウ利天上。是時八万四千天女。作衆伎楽。而来迎之」とある八万四千の天女が十羅刹女にあたるとしており、普賢菩薩の来儀を説く「勧発品」と十羅刹女を関連づけた説として注目したい。忠尋は、第四六代天台座主(在任一一三〇-三八)を務めた天台の学匠であるが、本書の忠尋撰述については、明らかでなく、鎌倉時代以降の成立とみる説もあり(12)、その可否の判断は奈良博本の考察を目的とした本稿の範囲を超える。但し、普賢十羅刹女像として造形化された普賢菩薩と十羅刹女との結び付きに関する中世天台教学側からの貴重な発言としてここでは捉えておきたい。

 以上のように普賢十羅刹女像は、その図像を統合的に明らかにした経軌は知られず、作例ごとに、各尊の細かな所依経典、特に十羅刹女については、尊名の比定作業が必要とされる。




 二 奈良国立博物館本の図像


 本画像は、縦一一二・二、横五五・二センチメートルの一枚の絹に描かれる。画面の上下左右の枠で図様が断たれており、同図様の福祥寺本と比較しても画絹が切り詰められていることがわかる。但し、図像を考察する上で支障を来すような大きな改変は認められない。画像は、画面向って右上から左下隅へと広がる白雲上に、騎象する普賢菩薩を中心に諸眷属が斜方向に影向する様をあらわす。普賢菩薩の右方には一体の鬼子母、六体の羅刹女、左方には三体の羅刹女があり、また菩薩の後方に薬王、勇施の二菩薩、毘沙門、持国の二天王が続く。ここでは、各尊の図像が依拠するところを指摘し、奈良博本の図像上の特質について考えたい。特に羅刹女については、通常十体であらわされるところを九体としていることに注目し、各羅刹女の尊名比定を行い、以後の考察に備えたい。

 普賢菩薩は、合掌して六牙の白象に騎乗する。右腕を覆う衣の上に袈裟を着し、宝冠を戴き、頭光、及び放射光を発する。白象の頭上には、三化人があらわされる。合掌騎象の姿は、先述のように、東京国立博物館「普賢菩薩像」等、「勧発品」、及び『観普賢経』に基づいて造像される普賢菩薩来儀図の図像と等しい。あわせて、合掌形とすることについては、円仁請来の「阿蘭若比丘見空中普賢影」に我が国における典拠があることが指摘されている(13)

 普賢菩薩が袈裟を着すことは、不空訳『法華曼荼羅威儀形色法経』(大正蔵一九)に「妙冠厳★髪 紺髪垂耳側 身相浅紫色 左定蓮上剣 右恵拳押膝 大悲憐愍相 珠鬘及袈裟 天衣妙瓔珞 (下略)」とあり、法華曼荼羅中の尊容として説かれる。但し、身色、手勢ともに奈良博本とはかなりの径庭があり、本像がこれに直接依拠したとは考え難い。本稿では、菩薩が袈裟を着すことについて、より直接的には、宋画の表現形式を受容したものと考えたいが、これについては第三章で述べる。象頭の三化人は、いずれも頭光を戴き、白色の中央一体は合掌、朱肉色の左右二体は、いずれも外側の手を額前でかざし遠方を望む態である。剥落もあり、持物については判然としないが、中央一体の合掌手の先には緑青が円状に残り、また右一体の右手には金泥の輪がかろうじて認められる。『観普賢経』には三化人が金輪、摩尼珠、独鈷を執ることが説かれており、そのうちの摩尼珠、金輪に相当するかともみられる。三化人の頭光については、「諸文殊図像」(醍醐寺蔵、大正図像六)中の「普賢菩薩像」やフリーアギャラリー本に中央の一体のみ配することがあり、藤田美術館本には、三体ともに確認される。また、三化人の中央と左右二体の身色を変えることは、十二世紀末の「普賢菩薩像」(細見美術館蔵)に既に見られる。

 薬王、勇施の二菩薩は、いずれも白肉色、合掌形であらわされる。二菩薩を合掌形とする例に静岡・大福寺本(図2)がある。その当初と見られる短冊形の墨書から、指頭を組むように合掌するのが薬王菩薩、指頭を合わせるのが勇施菩薩と知られ、奈良博本では、普賢菩薩の向って右が薬王、左で袈裟を着けるのが勇施菩薩とみられる。二菩薩が合掌することについて、依拠する経軌等は管見の範囲では見出せない。但し、紺紙金字経の見返絵のいくつかには普賢菩薩の来儀に合掌形の二菩薩が従う図様を確認できる。具体的には、保延六年(一一四〇)奥書の「基衡千部一日経」のうち「観普賢経」(東京・個人蔵)、承安二年(一一七二)奥書の「観普賢経」(福岡・善導寺蔵)(図3)等がある。また、十三世紀末から十四世紀の作とみられる厳島神社「法華経并開結」壬本七巻(巻三、四、五欠)のうち「観普賢経」(図4)の見返しには、合掌二菩薩と共に二天王が描かれており、普賢十羅刹女像と経典見返絵との間に図像の享受関係があった可能性が高い。また、これらの図像の基づくところが請来図像にあることが、北宋末から南宋初期のものとみられる版画「法華経変相図」(静嘉堂文庫蔵)中の合掌二菩薩、二天部形を従えた普賢菩薩像から予想される。

 白肉色の毘沙門天は、右手で三叉戟を持ち、左手は屈臂して宝塔を捧持する。また、持国天は、朱肉色とし、右手で剣、左手で三叉戟を支え持つ。いずれも髻を高く結い宝冠を戴く。その結果、普賢菩薩を中心とした左右対称に近い図様が現出する。

 毘沙門天の形制について、まず、四天王に関する儀軌を概観すると、普賢延命法におけるいわゆる「金剛智口決」に「北方多聞天。身色黄金(中略)左手持宝塔。右手執三戟」と奈良博本と同様の手勢が説かれる(『別尊雑記』巻四七四天、大正図像三)。また、空海請来の可能性の高い「仁王経五方諸尊図」(東寺蔵)のうち北方幅には、右手で鉾、左手で宝塔を捧げる毘沙門天が描かれるが、同図中には「御身白肉色」とあり、形制、身色ともに奈良博本と一致する。毘沙門天を単独で説く儀軌類については、唐・般若斫羯訳『摩訶吠室末那野提婆喝闍陀羅尼儀軌(大毘沙門天王陀羅尼儀軌)』「画像品第一」に「其左手執三叉戟右手托腰[又一本左/手捧塔]其脚下踏三夜叉鬼」(大正蔵二一-二一九頁上段)とある。また金剛智訳『吽迦陀野儀軌』上には、「其左手捧塔。右執三叉戟。其脚下踏三夜叉鬼」(大正蔵二一-二三五頁上段)とあり奈良博本の図像と一致する。ただ、この二つの儀軌には、身色に関する記述はない。他方で、これらの儀軌に基づくとみられる上杉神社(十二世紀)やボストン美術館(十三世紀)の「毘沙門天像」が、いずれも朱暈が施されるものの白肉身を志向しているとみられる事は注意されよう(14)。また、『別尊雑記』巻第五四多聞天(大正図像三)には、右手に三叉戟、左手に宝塔を持し、三夜叉上に座す毘沙門天の図像(仁和寺蔵)が収録される。これには「叡山前唐院毘沙門之様又文殊堂毘沙門此様立像」との墨書がある。すなわち円仁請来の図像であり、これに基づく六尺の毘沙門天立像が二躯文殊堂に存在した事が知られる(『山門堂舎記』『叡岳要記』)。このように、奈良博本の毘沙門天については「仁王経五方諸尊図」、叡山前唐院本図像のいずれもが典拠となり得るが、普賢十羅刹女像が法華経信仰の所産である事を考慮し、ここでは、比叡山において伝統的な図像に基づいたものと解釈したい。但し、いずれであるにしてもその先聳は空海、及び円仁が渡った中唐期の大陸にあるものと思われる。

 持国天については、「四天王寺金堂之四天王様」(『別尊雑記』巻七四 四天)に同様の形制が認められる。『秘蔵記』末には「東方提頭頼★天王[赤肉色/持鉾]」(大正図像一-一四頁上段)とあり、身色とともに注目される。また、『般若守護十六善神王形体』には「提頭 宅善神緑青色。開口現忿怒相貌。被甲冑著赤衣。右手持大刀。左手捧鉾」(大正蔵二一-三七八頁上段)と形制の一致する図像が説かれる。さらに身色に関しては、『不空羂索陀羅尼自在王呪経』巻下に「作瞋怒面眼5 鹿園雜集5 (2003)光赤色持国天王以手執剣」(大正蔵二〇-四二七頁下段)とあるのが注意されるが、「赤色」は、眼光の属性と理解される。白肉色の毘沙門天と朱肉色の持国天を組み合わせて描いた普賢十羅刹女像の例としては、ギメ美術館本、藤田美術館本(図5)があるが、いずれも持国天は両手で剣を執っており、『不空羂索陀羅尼自在王呪経』の所説に基づくとみられる。奈良博本の図像は、普賢十羅刹女像においてある程度普及していた『不空羂索陀羅尼自在王呪経』所説の図像に『般若守護十六善神形体』の形制を取り合わせ、主尊を中心とする画面上での対称性を志向したものと性格付けられよう。


 十羅刹女各尊の名称については、「陀羅尼品」に「一名藍婆。二名毘藍婆。三名曲歯。四名華歯。五名黒歯。六名多髪。七名無厭足。八名持瓔珞。九名皐諦。十名奪一切衆生精気」とある。以下、奈良博本の羅刹女については記述の便宜上、尊名が確定するまで、普賢菩薩の向って右手前から右一、右二、右三、右四、右五、右六、左手前から左一、左二、左三、と呼称する事とする。

 先に述べたように羅刹女の図像については、唐代の訳撰者不明経とされる『法華十羅刹法』 (大正蔵二一、亨保年間刊豊山大学蔵本)に説かれる(15)。 また『阿娑縛抄』巻一七一「十羅刹」の項(大正図像九)も同経に基づく。

 さて、奈良博本の羅刹女の内、『法華十羅刹法』に説かれる図像と一致するものは、右一、右二、右五、左三、の四体である。右一は右手に独鈷、左手に念珠を執り、同経に「右手独股当右肩。左手持念珠」とある藍婆にあたる。独鈷を右肩に当てる細部まで一致する。右二は右手で剣、左手で水瓶を執る。黒歯について同経では「右手取叉左手軍持也」とする。『阿娑縛抄』では「叉」を「刃」としており、剣を示したものと捉えられる。よって、右二は、黒歯に相当する。右五は、両手で瓔珞を捧持する。「左右之手持瓔珞也」とある持瓔珞にあたる。また、左三は、右手で三鈷杵、左手で鉾を執る。持物は「右手持杵左手持三股」とある奪一切衆生精気に一致するが、左右を逆とする。

 また、右四は、両手で脚付き台に載った華盤を捧持するが、「右手把花。左手把花盤」と説かれる華(花)歯にあたるとみられる。先の四体よりは経軌から離れた図様となっている。

 次に『法華十羅刹法』に他の絵画遺例等を援用する事で尊名が判明するものとして、右三、右六、左二がある。合掌形の右三は、大福寺本に図像を同じくする羅刹女がおり、その短冊形から無厭足とわかる。また、同図像の羅刹女は「扇面法華経冊子」の「法華経巻七」(図6)の表紙に描かれる。「扇面法華経冊子」の表紙絵においては、法華経の巻順と「陀羅尼品」の十羅刹女の記載順が一致するとみられ(16)、巻七には「七名無厭足」が相当する事となる。『法華十羅刹法』には「無厭足形如頂経之形」とあり、合掌低頭の姿でこれをあらわしたものとみなせよう。

 右六は、右手で後方に大きく翻る索を執り、左手を衣の中に隠す。「扇面法華経冊子」のうち「観普賢経」(図7)表紙には、奈良博本と同じように右手で索を執る羅刹女が描かれるが、同図では左手に独鈷を持つ。『法華十羅刹法』において左手で独鈷を執るものは、「右手把裳。左手持独股」とある皐諦のみである。右手の「裳」について、『阿娑縛抄』においては、大正図像本(応永一〇年=一四〇三慶厳写本)、大日本仏教全書本(寛政三年=一七九一義諦写本)ともに「嚢」としており、一致しない。但し、右手で索を執る例は、「扇面法華経冊子」以外に藤田美術館本にもみられる。『法華十羅刹法』、二本の『阿娑縛抄』ともに、これらの作例より降る時期の写本であり、いつの時点よりかは不明であるが、本来「索」とあったものを裳や嚢と誤写した可能性も考えられる。

 左二は、両手で香炉を載せた盤を持つ。大福寺本では、両手で柄香炉を捧持する羅刹女を曲歯としている。また、『法華十羅刹法』では、曲歯を「前捧香花」としており、曲歯とみてよいだろう。

 以上で、九体描かれた羅刹女のうち八体の尊名が判明した。残る一体は、左一であるが、いずれに相当するのだろうか。まず、左一の図像を確認しよう。右手は、頭の近くまで上げ、掌を外向きにし指を大きく後方に反らせる。第一、第五指を若干「遊ばせる」感じで緩めることで柔らかな印象を与える。顔は左斜下方を向き、その視線の先には、左手で二筋の平緒を付けた八稜鏡を執る。『法華十羅刹法』に説かれる十羅刹女のうち、未だ登場していないのは、毘藍婆、多髪の二尊である。まず、毘藍婆の像容は、「右手把風雲。左手把念珠也。衣色碧緑也。面色白前立鏡台也」とある。次に多髪は、「右手銅環取、左手如舞」とある。まず、毘藍婆については、左右の持物とも奈良博本の残る一体とは一致しないものの、「前立鏡台」とあるのが注目される。多髪については、左右逆となるが、奈良博本の右手は舞う形のようにもみえる。また「銅環」(『阿娑縛抄』では銅)について現存作品をみると、金属の容器として描いた例(「扇面法華経冊子」、旧益田家本)や鐃のように描いたもの(片野家旧蔵本、大和文華館「小厨子扉絵」)、また鏡状の円盤に描いた例(藤田美術館本、大福寺本、鳥取・常忍寺本、フリーアギャラリー本)等があり、特に藤田美術館本他の形式のものとの関係が注意される。但し、これらの中には奈良博本のような八稜形としたものは確認できない。さらに奈良博本においては、表面に銀泥を施し、明らかに八稜鏡として描いたものとみられる。ここで注目されるのは、奈良博本に先行する旧益田家本(図8)に同じように左手で八稜鏡を持つ羅刹女が描かれている事である。さらに、この羅刹女の右手先を見ると白雲を描いた痕跡があり、右手で「風雲」を把る毘藍婆を描いたものと知られる。すなわち、毘藍婆の「前立鏡台」との図像を羅刹女に鏡を執らせることであらわした例のあることがわかる。よって、鏡を執ることが明らかな奈良博本の残り一体をここでは毘藍婆に相当するものと考えたいが、毘藍婆、多髪のいずれともとれるような図像の「崩れ」もしくは「混淆」がみられることにも注意したい。


 以上、羅刹女の尊名比定に紙数を費やしたが、これは、十羅刹女のうち何が描かれていないかに奈良博本の図像上の特質があると考えた為である。尊名をまとめると、右手前から、藍婆、黒歯、無厭足、華歯、持瓔珞、皐諦、左手前から毘藍婆、曲歯、奪一切衆生精気が描かれていることとなり、奈良博本には「多髪」が描かれていない事が判明した。これについては、本章の最後で検討を加えたい。 

 白象の右手前には一子を抱く鬼子母が描かれる。子は両手を大きく伸ばし、母はそれをしっかりと見つめる。夙に指摘があるように「子守明神像」(大和文華館蔵)は、これと同一の図像で描かれている(17)。これについては、後に述べたい。


 以上、奈良博本の図像について概観した。その過程で、奈良博本には、これに先行する普賢十羅刹女像の図様が敷衍されつつも、あわせて図像の「崩れ」や「混淆」がみられることも確認された。これらについては、表現の問題との関わりも視野に入れながら次章以下で再検討したい。また、特に注目される問題として十羅刹女のうち「多髪」を描かず、九体としている点があげられる。少し検討しておきたい。興然 (18) (一一二一-一二〇三)の『五十巻鈔』第一二(建仁三年=一二〇三奥書)(『真言宗全書』巻二九)「本身事」には、「十羅刹女変化身」として、藍婆以下、十羅刹女が様々な如来や菩薩を「本身」とすることが説かれる。その中で、多髪については「六名多髪者普賢菩薩変化身也」とある。つまり、多髪と普賢菩薩は「変化身」と「本身」の関係にある。奈良博本において多髪を描かなかった理由の一端がこの所説にあらわれてはいないだろうか。すなわち、普賢菩薩を本身とする多髪については、中央の普賢菩薩を以てこれをあわせあらわしたものとも解釈できる。但し、先に見たように奈良博本の「毘藍婆」は、「多髪」とも理解し得る図様を呈しており、奈良博本において「多髪」を描かないことに何処まで意識的であったかには若干の疑問が残る。『五十巻鈔』の所説については、十羅刹女の「和装化」と深く関わるものとして、その説の普及の様相も含め、第四章において詳しく検討するが、奈良博本の図像構成においてもこの「変化身」という教説が受容されている可能性があることのみここでは指摘しておきたい。




  三 奈良国立博物館本の表現

 以上、主に図像の問題に関して触れたので、ここでは、奈良博本の表現描写について概観することとしたい。本画像の表現について、本稿では、主に普賢菩薩にみられる宋画(及び、元画)との関わり、及び和装であらわされた十羅刹女の図様について述べるが、後者については、さらに次章で考察を深めたい。

 奈良博本の作画は、墨線による下描き、着彩、描き起こし、という仏画に一般的な手順を踏んでおり、さらに裏彩色を併用しているとみられる。下描きには抑揚を伴った速度感のある墨線が用いられる。特に抑揚の強い白雲等の墨線に滲みが確認されるのは、仏画の下描き線としては珍しい。尊像、及び白雲以外の箇所には、群青が厚く施され、虚空をあらわす。白雲には、白の裏彩色を施し、さらに下描きの墨線を生かすように表から白色を薄くかけ、墨線に添えるように若干濃い白線を引く。

 普賢十羅刹女を雲上に描くことは、細見美術館本、静嘉堂文庫本等の普賢菩薩像にみられるそれを取り入れたものと考えられる。但し、絹絵の普賢菩薩来儀図の最古例である東京国立博物館本など、我が国における着彩の画像においては雲を描かない形式の方が先行するものとみられる(19)。また、普賢十羅刹女像においても廬山寺本は雲をあらわさず、画面を水平方向に静かに移動する。従来指摘のあるように法華経見返絵には、独幅の画像に先行して雲上に普賢菩薩をあらわす遺品が多くみられ、それらとの関わりが注意される(20)。しかし、見返絵においては、広大な山水の景の中に普賢菩薩の影向を描く例が多く、普賢菩薩が地上ではなく、虚空に浮かぶ様を表現するには、乗雲させることが必要であったものともみられる。同じく雲上に群像をあらわした阿弥陀来迎図との関わり等も含め後考に俟ちたい(21)

 続いて普賢菩薩にみられる宋画との関わりについて考察を進める。ここでは、奈良博本にみられる宋画受容の様相を、一、形態の問題、二、線描や賦彩等の問題、の主に二つの側面から検証する。まず、形態に関して。ここでは菩薩の姿態、服制、その他についてみて行きたい。

 姿態においては、第一に面貌の表現(図9)に宋画の受容が確認される。本画像においては、普賢菩薩の鼻を二本の平行な鼻梁線を用いてあらわしている。既に指摘のあるように、これは、北宋後期の作とされる「孔雀明王像」(仁和寺蔵)(図10)にみられ、我が国においても宋画との深い関わりが指摘される「仏眼仏母像」(高山寺蔵)に用いられる(22)。但し、この二例からもわかるように本来正面観をあらわす形態を、本画像では斜向きの顔に使用している。このため面全体と目鼻の向きに不一致が生じ、面貌表現としてはあまり成功していない。宋画における斜向きの面貌表現の例である「白衣観音像」(南宋初期、個人蔵)と比較することで理解されよう。また、我が国においても技法に宋画との関わりを指摘できる(23)、東京国立博物館「普賢菩薩像」に美しい横顔の表現がみられる。ただ、見方を変えれば、宋画由来の鼻梁の表現を面貌の方向を無視してまで取り入れることで観る者に宋画の受容を明確に示すことに本画像の表現上の特質があるともいえる。その結果、次に述べる眼の表現も含めて、本画像における面貌表現が東京国立博物館本に代表される平安時代後期の普賢菩薩像の優しくも妖艶な姿から変質していることは明らかである。

 次に眼の表現において上下の眼窩線を深く入れることがあげられる。これは、先の「白衣観音像」等にみられるが、これに目尻のつり上がった眼を組み合わせることによって、その表情が若干きつい印象を与えることは否めない。これは、薬王菩薩の表情において顕著である。その他、垂髪が肩を過ぎて上腕部にまでかかり、その先が細く分かれて波打つことも「孔雀明王像」や「勢至菩薩像」(元時代、滋賀・長命寺)他に近い形態が確認できる。また、長く鋭い爪の表現が宋元画や高麗仏画にみられることは夙に指摘されている(24)。さらに、白毫の下に横皺を入れることで肉身の厚みを感じさせるような現実的な表現は、我が国においては平安時代末の「一字金輪曼荼羅」(奈良国立博物館蔵)にみられるが、元代後期の伝顔輝「釈迦三尊像」(京都・鹿王院蔵)や高麗仏画の多くにみられることは注意される。

 次に普賢菩薩の服制についてみて行きたい。菩薩は、たっぷりとした袈裟を偏袒右肩に纏い、右腕には袈裟の下に別の衣を着す。左肩から胸下にかけて袈裟の裏面を見せるが、肩の辺りでその表裏関係が曖昧となっている。このことは以下にあげる宋画や元画の例と比較することでより明瞭となる。菩薩が袈裟を着すことは、宋画に多くみられ、これに続く元画にも継承される特徴である。具体的には、知恩院「阿弥陀浄土図」(南宋・淳煕一〇年=一一八三)(図11)の両脇侍、元時代前期の滋賀・長命寺「勢至菩薩像」や京都・二尊院「釈迦三尊像」の両脇侍等がいずれも袈裟を着す。また、香川・道隆寺「法華経曼荼羅」(元時代)(図12)中には袈裟を着け、法華経信者の許に影向する普賢菩薩の姿が描かれる。

 菩薩の衣は、蓮華坐に絡むようにかかる。左右の袖は、縦方向の長い衣紋とU字型のそれとを組み合わせ、衣の裏を所々見せつつ、鋭角な衣端は蓮華坐の脇に深く垂下する。その様は、衣の重量感をも巧に表現している。衣端が鋭角に深く垂下する形は、知恩院本の両脇侍、同じく南宋時代の建長寺「釈迦三尊像」(図13)主尊等にみられ、我が国においても宋画の影響が指摘される、十三世紀後半の「十体阿弥陀像」(京都・知恩寺蔵)に継承されている(25)。一方で腹部の衣紋は形態が曖昧であり、衣の下の肉身の存在や腹前で交叉する両足と腹部の間に拡がる腿から膝に至る空間を処理しきれていない。袈裟の下に纏う衣の片側の縁に暈繝彩色の文様帯を配することも宋画由来と思われ、知恩院本の両脇侍、二尊院本の普賢菩薩、長命寺本にみられる。この意匠は、鎌倉時代の仏画においても多く認められ、宋仏画を写した可能性のある「地蔵菩薩像」(京都・醍醐寺蔵)(図14)(26)、技法に宋画の影響が指摘される「文殊菩薩像」(大和文華館蔵)(27)等、十三世紀中頃の遺例やこれらに次ぐ「弥勒菩薩来迎図」 (東京芸術大学蔵)をその例としてあげ得る。

 菩薩の戴く宝冠は、複数の方向に先端を有し、それらを下方に弓なりの弧線で繋いだ大きな基部に火焔宝珠や蓮華等をあしらった大変豪華なものである。その形態は、建長寺「釈迦三尊像」の中尊及び脇侍や山梨・一蓮寺「釈迦三尊及び十八羅漢像」の普賢菩薩のそれを彷佛させる。また、建長寺本の釈迦の宝冠の頂部のみを取り出すと、奈良博本の薬王菩薩の宝冠に近似したものとなる。

 その他、白象上の蓮華坐の敷茄子部に雲頭状に細かく翻転する細長い蓮葉があらわされる。その先聳は、知恩院「阿弥陀浄土図」の蓮池に描かれた葉の表現等に求められよう。

 以上、形態における宋画の受容の問題について触れた。続いて、線描や賦彩法等、技法について宋画との関わりを概観しておきたい。

 普賢菩薩の肉身部は、まず、墨線で下描きし、白色の裏彩色を施し、さらに表面から薄い白色を施している。顔から首にかけて大きく彩色が失われているが、胸部には白色が多く残る。その上から若干茶色味を帯びた、淡い濁朱(朱墨)線で輪郭を描き起こしている。平安時代後期の仏画の肉身表現においては、黄や白の身色に対して、一般的に明るく、濃い朱線で描き起こしを行う。この傾向から外れるものとして、応徳三年(一〇八六)の「仏涅槃図」(高野山金剛峯寺蔵)の菩薩衆の墨線や十二世紀前半の曼殊院「不動明王像(黄不動)」の朱墨線等があげられる。但し、それらにおいても線描を濃いものとし、明快に形を描き出す点では傾向を共にする。

 このような肉身線の特質を変容させたごく早い例として十二世紀半ばの「普賢菩薩像」(東京国立博物館蔵)に用いられた淡墨の極めて細い線があげられる。そして、仁和寺「孔雀明王像」の線描との比較等から、その淵源は、宋仏画に求められることを先に指摘した(28)。さらに形態における宋画受容を示す、平安時代末の高山寺「仏眼仏母像」の肉身においては、身色の白を薄く被り淡墨色を呈する肉身線にさらに若干白味を帯びた淡朱線を重ねている。「孔雀明王像」の線描は、淡い墨線によって行われるが、肉身部においては、その上から淡い朱暈を墨線に重ねるように施している。このことによって肉身線は、淡い朱墨線の外見を呈する。「普賢菩薩像」においては、普賢菩薩の「白玉」(『観普賢経』)という身色をあらわすため、この朱暈を排し、淡墨による線のみを受容したものと考えられる。また「仏眼仏母像」は、淡朱暈を淡朱線に変容させているが、墨と朱を重ねる点では「孔雀明王像」に一致し、併せて、その白味を帯びた朱には仏眼仏母尊の「白月暉」(『瑜祇経』「金剛吉祥大成就品」第九、大正蔵一八)を成す身色を損なわない為の技法的な配慮が感じられ、感覚的には、経意を尊重した「普賢菩薩像」の淡墨線の採用に近いものがある。そして、これに連なるとみられる奈良博本の濁朱線は、本来線描と暈の重なりによって生じた外見の色感を墨と朱を混ぜた色の線として受容したものとみなすことができる。但し、色調を別とすれば、「仏眼仏母像」と奈良博本の線質は、前者が鉄線描に近い均質なものであるのに対し、後者は打ち込み等を伴う細い抑揚のあるものであり、その径庭は大きいといわねばならない。また、手本となった宋画自体における線描の変質も考慮に入れる必要がある。そのためには、鎌倉期に我が国に数多くもたらされた頂相等の僧侶肖像画の線描等が参考となろう。ただ、以上のような視点の重要性を認めつつ、ここでは、濁りのある淡い朱墨線の先聳が宋画にあった可能性のみを指摘しておきたい。

 次に着衣の彩色についてみると、袈裟は、田相部を薄茶地とし、白線で細かな雷文を施す。条葉部は渋い群青地を白線で縁取り、さらに唐草文を描く。裏は、緑青地とし金泥の衣紋線を施す。右袖部は、濃墨の衣紋線の上から薄く緑青をかけ、金泥の細線で雲文を全面に施す。縁には、白下地に臙脂や白緑、白群の暈繝彩色で花文を描き、朱の細線で輪郭する。全体として群青や緑青の寒色を主体的に用い、さらにそれらを若干焼いたような「渋い」色調としている。このような色調も宋画との関わりを予想させる。また、白線による雷文や金泥線の細緻な使用法等も宋画の装飾法を彷佛させる。このような性格は、羅刹女の着衣の鱗文等にみられる、面を中心とした鮮やかな金泥の使用法と対比することでより一層際立つものとなろう。最後に頭光の表現をみると、中心部から外へ緑青を暈し、逆に縁からは中へと白色を暈して、全体を金泥線で括っている。このような寒色と白色の暈による頭光の彩色法は前掲の建長寺「釈迦三尊像」の頭光表現に極めて近いものといえる。

 以上、普賢菩薩の表現にみられる宋画との関わりについて概観した。その特質を簡単にまとめると、形態の受容が技法の受容を伴うかたちで行なわれているということになろう。但し、面貌や衣紋線には明らかに写し崩れとみられる形態の曖昧な点もあり、形態と技法とが緊密に結びついて三次元の形を二次元の平面に巧みに写し替えるような絵画としての表現効果を得るまでには至っていない。もしくは、一度至ったものが、模倣を繰り返すことによって崩れかけているとの感を与える。一方で、以上のことは、観者に宋画の受容を明示するというもう一つの特質を生ぜしめている。さらに、このような性質は、詳しくは触れなかったが二菩薩、また二天王にも及んでいるものとみられる。かたちと技法における宋画受容を明確に呈示する菩薩に対し、和装の羅刹女の表現はどのような特質を有するのか続いて考察したい。

 羅刹女の表現についても形態、及び技法の二面から考察をおこなう。形態については、本画像の羅刹女、及び鬼子母のうちで同一の形態が繰り返されるという特徴を指摘できる。細かな手勢等を別とすれば、三つの主要な型が存在する。第一に右手前の藍婆(図15)の左斜下(羅刹女にとって)を見つめるかたちは、左手前の毘藍婆にも用いられる。第二に右奥から二番目の持瓔珞の頭を幾分俯け右斜下方を見るかたちは、左奥の奪一切衆生精気、及び右手前の鬼子母に繰り返される。第三に右前から二番目の黒歯の右斜上方を見上げるかたちは右奥の皐諦と一致する。以上の型の存在に気付くと、さらに、第一と第二の型は、お互いを反転させることでほぼその形態が一致するバリエーションの一つと捉えることができる。すなわち、九体の羅刹女のうち六体は大別二種の型によって描かれている。残る三体は、合掌低頭する無厭足、華盤を捧げる華歯、香炉を執る曲歯となる。このような作画における型の使用は、奈良博本に先行する和装の十羅刹女をあらわす伝統的な図様の存在を予測させる。では、二種の型、及びそれ以外の三体のかたちは、どのような出自をもつものであろうか。

 まず、第一の型(藍婆・毘藍婆・持瓔珞・奪一切衆生精気・鬼子母)を両手で捧げた瓔珞を見つめる持瓔珞(図16)で代表させると、そのかたちは、立像と座像という違いを考慮した上で、「扇面法華経冊子」のうち「法華経巻八」(図17)の持瓔珞、「平家納経」「涌出品」(図18)の黒歯、さらに旧益田家本の曲歯、毘藍婆、皐諦、持瓔珞(図19)に用いられた型を継承している。

 次いで、第二の上方を仰ぎ見る型(黒歯・皐諦)は、「平家納経」のうち「厳王品」(図20)「観普賢経」(図21)にみとめられ、さらに旧益田家本の無厭足に用いられる。

 それ以外の三体についてみると、無厭足の後向きで合掌低頭する姿は、「扇面法華経冊子」「法華経巻七」の無厭足、「平家納経」「厳王品」以来のものであり、奈良博本に続く東京芸術大学本にも継承される。残る二体のうち、華歯の普賢菩薩を仰ぎ見るかたちは旧益田家本の無厭足の上方を仰ぎつつ合掌する姿を彷佛させ、また第二の型にも近い。曲歯の左横を振り返るかたちについては、先行する図様を見い出していないが、第一の型に親近性を持つものであろう。また、奈良博本には描かれていないが、多髪の型が「扇面法華経冊子」と旧益田家本の間で、前者を反転させたかたちで継承されていることが指摘されている(29)

 奈良博本の羅刹女の形態にみられる先行作例からの型の継承について触れた。但し、「平家納経」については、「涌出品」及び「観普賢経」に描かれた黒歯以外は、十羅刹女として描かれたものではない。近年、「平家納経」見返絵のうち、物語絵を想わせる世俗の女性像のいくつかに源氏絵との関わりが指摘されている(30)。この指摘を勘案すれば、「平家納経」見返絵との図様の類似は、さらに和装十羅刹女の型が物語絵等の図様から何を吸収し、また、逆にそれらに何を与えたのかを考える端緒となろう。さて、奈良博本に至る形態の継承関係を概観すると、特定の尊と特定の形態が比較的強く結びついたかたちで継承されている場合と緩やかな結合しかもたない場合とのあることがわかる。前者としては、持瓔珞(「扇面法華経冊子」・旧益田家本・奈良博本)、無厭足(「扇面法華経冊子」・奈良博本・東京芸術大学本)、多髪(「扇面法華経冊子」・旧益田家本)(カッコ内は同一尊を同図様であらわした作例)がある。そして、ある時点から特定の尊の型を基にして同一画面中のその他の羅刹女の形態が形成されていったことが予想される。その時期については明らかにし得ないが、現存する「扇面法華経冊子」表紙の羅刹女像においては、多髪と無厭足の間にのみ形態の近似が指摘でき、形態の淘汰とその型の応用という傾向が兆し始めている。さらに、旧益田家本においてそれが強まり、奈良博本へと継承される。すなわち、現存遺品から考える限り、十二世紀半ばの「扇面法華経冊子」やそれに先行する十羅刹女像の和装化の初発時においては、羅刹女各々に固有の図様があった可能性が高いが、それが、次第に図像との結びつきの強い、幾つかの型に淘汰され、その型を繰り返し用いることが行なわれたことが奈良博本の形態を観察することから想定される。そして、この問題は勿論、和装本に先んじて成立した唐装本の羅刹女の図様との関係へと拡大して行くが、これについては稿を改めて述べたい(31)。 

 以上、奈良博本の羅刹女の形態の問題について述べたので、次に技法的な側面についてみて行きたい。

 羅刹女の面貌は、頬から首にかけて大変豊かな膨らみをもって描かれる。それは十三世紀前半の「紫式部日記絵巻」(藤田美術館他蔵)の人物表現に連なるものであろう。但し、同絵巻においては額から伸びる線が、眼を境に頬へと大きく膨らむ。この輪郭線の運びが、奈良博本ではより抑えられた穏やかなものとなっている。肌には、白色を厚く施し、頬に薄く朱の暈を加えている。描き起こしには淡朱線を用いる。眼は、上瞼の線を濃墨で引いて表情を引き締め、下瞼には、淡朱線を用いる。濃墨を点じて瞳をあらわし、口唇は朱線で輪郭し、上下の堺に墨線を横に入れる。眉には、濃墨を太めに引き、それを上方へ暈して柔らかな印象としている。髪には、膠分の多い「艶墨」を用いる。耳の上部を髪の間から覗かせているのは何とも愛らしい。

 このようにみてくると、世俗の女性の姿にあらわされてはいるが、その面貌表現は「引目鈎鼻」の技法からは大きく離れている。眼を細線の引き重ねではなく、上下の瞼の線と墨点であらわすことは、「紫式部日記絵巻」や同じく十三世紀前半の「佐竹本三十六歌仙絵」等に既にみられる。下瞼を朱線で引くことは、仏画の常套表現である。小鼻と鼻孔を描くことも注意される。肉身線を朱で引くことも含め、画家の出自を考える手掛りとなろう。

 次に着衣については、全身を見ることができる藍婆を中心に述べて行く。まず、その形式は、(せきのくつ)を履き、袴を着け、単の上に衣を四枚重ね、表着、唐衣、裳、さらに (ちはや)を纏う。左袖にかかる帯状の布は裳を結ぶ「小腰」とみられる。羅刹女は、基本的にいずれも以上のような装束を着けるが、華歯、無厭足、鬼子母は を着けていない。着衣の形態は比較的正確に描写されているとみられ、例えば袴の帯を右側で結んでいることは、「女房袴腰不引廻仍可結于右」という『玉葉』治承四年(一一八〇)正月一九日条を想起させる(32)

 彩色についてみると、 は、くすんだ紺地とする。本画像の他の例からみて文様が描かれていたとみられるが、剥落している。唐衣は明るい丹地に金泥で柳と桜花を取り合わせた美しい文様を描く。表着は、白地に濁った朱具線で斜格子文を施す。四枚の衣は内側から朱具、もっとも外を白とし、その間を二者の中間色で段階的に彩色する。この幾分濁った、臙脂に近いような朱の具色が羅刹女の着衣には多く用いられている。単は、鶯色に近い緑青地に金泥で飛雲のような不思議な文様を施す。金泥文様については後述する。裳は、と同系のくすんだ紺地とし、紫の具色や緑青を用いて藤花を描く。袴は鮮やかな朱色とし、衣紋線を金泥で引いている。その他の羅刹女及び鬼子母の着衣の彩色、文様のうち、以上で見た藍婆の着衣に確認されないものとして、黒歯の表着の桜文や無厭足の若松文、持瓔珞の梅文にみられる銀泥の使用があげられる。

 以上羅刹女(鬼子母)の彩色等について触れたが、制作年代の指標となり得るような表現について若干指摘しておきたい。まず、金泥による表現であるが、金泥による文様表現は「紫式部日記絵巻」や旧益田家本のそれを継承しているとみられる。また、金泥による衣紋線は「佐竹本三十六歌仙絵」のうち「小大君像」(大和文華館蔵)に用いられる。金泥文様に関して「紫式部日記絵巻」のそれは、形態が具体的でかつ整い、精緻な印象を与えるものとなっている。この傾向は旧益田家本にも継承されるが、卍散らしや流水文といった文様が新たに登場する。さて、先に藍婆の単の文様について不思議な形態と記したが、それは文様の形が具体的な事物をあらわし得ていないことによる。但し、横方向に木目のように線を重ねる形態は、旧益田家本の流水文のようなものが断片的に取り入れられたものではないかと想像される。同様のことは、黒歯の単の文様に関しても指摘できる。旧益田家本に関しては、鎌倉時代中期頃の制作とされており、奈良博本の金泥文様の「崩れ」は、そこからの時代の下降を示す要素と考える。あわせて、緑青や群青、さらに朱具等の発色に幾分の濁りが感じられるが、これも時代の下降を示す要素と捉えたい。


 これまで、奈良博本の表現について、普賢菩薩、羅刹女を中心にそれぞれを形態及び技法の両面から検討してきた。最後に以上の考察から奈良博本の表現の特質をまとめ、その制作時期について述べておきたい。

 まず、宋画の形態を明確に示す普賢菩薩と伝統的な和装の形態を継承する羅刹女とが同一画面で並存していることがあげられる。さらに、その形態の違いは、技法の異質性を伴っている。すなわち、単純な印象として、前者には、寒色を中心とした淡彩が、後者には丹や朱等を含めた明るい濃彩が用いられている。このことが、本画像を一見したときに画面を支配する大きな違和感として感じ取られる。但し、その異質性を際立たせない配慮として、羅刹女には、若干明度の低い、濁りのある彩色が併用されている。一方で、発色にあらわれた顔料の質の低下は、時代の下降を示す要素であると考える。

 菩薩と羅刹女の形態における対比は、旧益田家本には見い出し得ない特質である。また、大福寺本には、宋画風と和装という形態上の対比が明確に示されているが、それは、着彩や線描といった技法上の対比を伴うものではない。奈良博本の表現を全体としてみた時、その構想は、この二者の間に位置づけることができる。奈良博本のこのような様式上の位置が、作品それ自体の制作時期の前後関係とどのように関わるかについては尚慎重を要しよう。特に大福寺本との関係についての判断には、我が国の仏教絵画における宋画受容の様相を作品ごとに丹念に追う作業を通じ、その全体的な傾向を抽出することが必要とされよう。現時点でこの作業を行い得るような材料を揃えることは出来ない。よって、本稿では以上の考察結果に併せ、制作年代の指標となり得る要素を二点ほどあげておきたい。

 奈良博本の制作時期を考える上で重要な作例に、南北朝時代の制作とされる「子守明神像」(大和文華館蔵)(図21)がある。従来、奈良博本の鬼子母との図像の一致が説かれてきたが、細部の表現に注目すると、淡朱による肉身線に代表される面貌の表現や着衣の文様表現等にも継承関係があるとみられる。とくに、表着の銀泥による桜花文は、奈良博本の黒歯のそれと形態及び彩色が一致する。すなわち、「子守明神像」には、図像上における鬼子母との近似のみでなく、他の羅刹女も含めた表現上での奈良博本との対応関係が認められる。但し、このことを奈良博本からの直接的な影響を示すものとするには、さらなる例証が必要となろう。しかし、特に群青にみられる濁った発色は、制作時期が奈良博本からさらに下ることを感じさせ、奈良博本の制作が「子守明神像」と同時期にまで下ることはないと思われる。

 先に述べたように奈良博本の羅刹女の形態は、基本的に本画像に先行する和装羅刹女のそれを踏襲しているとみられるが、顔のかたちや手足の長さ、肩の張りといった全体のプロポーションに関しては、制作時期の絵画様式と無関係とは考え難い。そこで注目されるのは、永仁三年(一二九五)に制作された事がほぼ明らかな(33)「伊勢新名所絵歌合」(神宮徴古館蔵)第一段「藤波里」(図23)の廊に立つ女房と奈良博本の鬼子母(図24)との形態の近似であリ、これは、奈良博本の制作時期に関して一つの指標を与えるものであろう。

 以上の考察結果から奈良博本の制作時期については、旧益田家本よりは降り、「伊勢新名所絵歌合」に相接した時期、鎌倉時代末頃とするのが穏当と思われる。




  四 羅刹女の和装化と興然『五十巻鈔』

 以上、二章にわたり奈良博本をめぐって考察を行なった。ここで幾分視野を広げて奈良博本をも含むところの十羅刹女の和装化の問題について触れておきたい。従来の研究において、十羅刹女を女房装束に描くことは、平安時代後期における女性の熱心な法華経信仰に根ざし、彼女達自身の姿を普賢菩薩に従う十羅刹女に仮託することで、菩薩の擁護を受けることを象徴的にあらわしたところに成立したとされている。例えば、松下隆章氏は、「当時の女性の法華経への深い関心が、自らの姿を十羅刹女に仮托して、即ち自らが普賢菩薩に随侍する姿を十羅刹女に托して画かしめたものとも考えられる」とされている(34)。さらに、和装化の始まる時期については、柳澤孝氏により、「扇面法華経冊子」に先行する十二世紀前期頃である可能性が示唆されている(35)。平安時代末期における普賢十羅刹女像の造像記録は、このような状況を推測させるに足るものである。以下、その主要なものをあげておきたい。

 まず、平信範(一一一二-八七)『兵範記』久寿二年(一一五五)一〇月九日条には、同年九月一四日に没した法性寺関白藤原忠通(一〇九七-一一六四)の室、宗子追善のため、左衛門督藤原重通が色紙法華経一部とともに「二幅普賢菩薩像一鋪在十羅刹像」を制作したことが記される(36)。同じく『兵範記』嘉応二年(一一七〇)六月二二日条には、平信範の亡室のために次男の信基が「一幅普賢大菩薩像一鋪、在十羅刹女」を図絵せしめたとある(37)。次に九条兼実(一一四九-一二〇七)『玉葉』養和二年(一一八二)正月一二日条からは、養和元年一二月四日に崩御した崇徳院中宮である、兼実の姉・皇嘉門院藤原聖子追善のため女房達が自ら「普賢菩薩、并十羅刹女一鋪半」を描いたことが知られる(38)。この三つの例は、いずれも女性の追善を目的として普賢十羅刹女像が描かれた記録である。とくに皇嘉門院の追善法要については、門院の生前に企画され、彼女自身、薬王品の書写を行ないながら、その完成をみなかった一品経を当時の結衆が集い、「紅涙嗚咽を拭って」その欠を補い完成させ、併せて、普賢十羅刹女像を描いた、とその制作状況が詳しく記されているものである。このような状況から、そこで供養された普賢十羅刹女像が、皇嘉門院と彼女に仕えた女房達の姿を彷佛させるような和装の羅刹女を描いたものであったと美しい想像をめぐらすことも的外れとは言えまい。このように女性の熱心な法華経信仰が十羅刹女の姿を自らの信仰生活に強く引き寄せたことが十羅刹女の和装化の最も大きな原動力となったことは、従来の指摘通りほぼ確実であろう。但し、記録も限られており、後述するように鎌倉時代後半においては、普賢十羅刹女像が男性の追善にも用いられたことが知られ、このような例が平安時代末になかったとは言い切れない。同時に、鎮源『大日本国法華経験記』(長久年間〔一〇四〇-四四〕序)(日本思想大系本)第五九話の「端正美麗」な羅刹女の姿に僧良賢が愛欲の心を起こすという説話からは、欲望の対象ともなり得た羅刹女の美麗な姿が、女性ではなく男性からの視線によって形成された可能性をも示唆する。さらに、女性の信仰生活が十羅刹女の和装化を導いたとしても、女房装束といういわば俗世の姿に十羅刹女をあらわすに至るには、教学側からそれを何らかのかたちで支援する教義的背景が必要であったのではないだろうか。そこで、本稿では、以下、興然『五十巻鈔』に説かれた「変化身」という観点から十羅刹女の和装化を支えた教義的背景の一面を見ることとしたい。十羅刹女が如来、もしくは菩薩の変化身であると説くことは、先にあげた興然『五十巻鈔』にみられる。普賢十羅刹女像の研究において夙に著名な資料ではあるが、再度取り上げておきたい。『五十巻鈔』第一二「本身事」(建仁三年=一二〇三奥書)には次のようにある。



 十羅刹女変化身。一名藍婆者東方宝幢如来変化身也。二名毘藍婆者南方花開如来変化身 也。三名曲歯者西方阿弥陀如来変化身也。四名花歯者北方天鼓音如来変化身也。五名黒 歯者中央大日如来変化身也。不動尊。六名多髪者普賢菩薩変化身也。七名無厭足者文殊 師利菩薩変化身也。八名持瓔珞者弥勒菩薩変化身也。九名皐諦者観世音菩薩変化身也。 十名奪一切衆生精気者荼吉尼変化身也云々 私云。難信用。可尋説所也。

 この所説が奈良博本の図像に関わりをもつ可能性については先に指摘した通りである。さて、一見して明らかなように、ここに登場する如来、菩薩は、荼吉尼を除き、いずれも胎蔵曼荼羅中台八葉院の諸尊である。さらに、興然自身はこの説について「信用し難く説く所を尋ぬ可き也」と注記して、疑問を呈している。ただ、この所説は、登場する尊名を若干変えて他の史料にも散見する。まず、澄円(一二一八-八四-?)撰『白宝抄』(別名『雑集』とも、大正図像一〇)「法花法雑集下」(弘安二年=一二七九奥書)には、



 十羅刹女本地事[安然口伝云。印/宝螺印経真言]一名藍婆者[東方阿/★(シュク)所文]二名毘藍婆者[南方宝/生所文]三名曲歯[西方/弥陀]四名花歯[北方/釈迦]五名黒歯[大日又/不動]六名多髪[普/賢]七名無厭足[無能勝/菩薩]八名持瓔珞[観/音]九名皐諦[文/殊]十名奪一切衆生精気[大自在天/又捺吉尼]

 とあり、金剛界系の諸尊が加わっている。その中でも黒歯と多髪の「本地」には変化がないことに注意したい。同様のことは、鎌倉時代の有職故実に関する記録をまとめた『拾芥抄』「諸仏部第十」の「十羅刹女諸仏化身也」の記述にもあてはまる(39)。『白宝抄』と異なる点のみを記すと、二名毘藍婆が「南方華開如来」、四名華歯が「北方不空如来」、十名奪一切衆生精気が「大自在天」となっており、『五十巻鈔』と『白宝抄』の所説を折衷した様相を呈する。このように興然が不審としながらも『五十巻鈔』に書き留めた所説は、これより時代の下る以上の二書にもとどめられている。とくに有職故実の書である『拾芥抄』に記載されることは、このような説が鎌倉期の貴顕間である程度流布していたことを予想させ、逆に興然がこのような流布説を書き留めた可能性をも示唆する(40)

 さて、十羅刹女を「変化身」とするこれらの考え方は、本稿が問題としている十羅刹女像の和装化とどのように関わるのだろうか。ここでは、その関係をある程度具体的に指摘できる「平家納経」見返絵の例を取り上げ、その図様形成の様相を概観することとしたい。

 「平家納経」のうち和装の羅刹女を描いたとみられるものには、「従地涌出品」と「観普賢経」の二巻がある。いずれも右手で剣、左手で水瓶を執り、十羅刹女のうち第五黒歯をあらわしたものとみられる。持物に関しては、剣の形態等細部に相違がある。また、羅刹女の姿も対照的であり、前者が向かって右方向を向き太刀を執った手許を凝視するのに対し、後者は経文の方を向き、立てた剣の刃先を見るように顔をあげる。また、前者が若干細面で、また大きく伸ばした右腕が妖艶な感じを与えるのに対し、後者は、ふくよかな面貌にゆったりと纏った装束が一抹のあどけなさを感じさせもする。後者の形態が奈良博本の黒歯にも継承されていることは先に指摘した。

 では、何故、一品経の中に二度にわたって同じ羅刹女が描かれたのであろうか。この問いに答えることが、引いては「平家納経」にみられる羅刹女の和装化の背後にあるものを解明する端緒となる。「平家納経」見返絵に黒歯のみが描かれることを指摘し、さらにそれと『五十巻鈔』の所説との関係を最初に指摘されたのは松下隆章氏である。同氏は、「この両像が右手剣、左手軍持の十羅刹女中の第五黒歯であることは、これ又先にも述べた如く、五十巻抄に於いて黒歯の本身を大日如来として十羅刹女の中尊とする考え方から、この黒歯一体を以て十羅刹女を代表せしめていると解釈されよう」とされている(41)。ここでは、この松下氏の指摘を一歩進め、厳島社とその祭神との関わりから一つの解釈を試みたい。

 まず、厳島社の祭神伊都伎島神について、この神が女神であることは、例えば十三世紀中頃の『選集抄』巻五第一二「安芸厳島眺望事」に「たゞし、いかなる御事にや、御簾の上には御正体の鏡を懸け参らせで、御簾より下に懸け参らする也。かの御神は女房(神)にてましますなれば、かくはならはせるやらん」とあり(42)、また『平家物語』巻第二「卒都婆流」(日本古典文学大系本)に「宮人答けるは、『是はよな、娑羯羅竜王の第三の姫宮、胎蔵界の垂跡也』」とされている事等から知られる。特に後者については、『醍醐寺新要録』巻第二「厳島明神託宣事」に「鎮守清滝権現ハ娑伽羅竜王ノ第三ノ女也。安芸国ノ一宮伊都岐嶋ノ明神ノ託宣云、我ハ娑伽羅竜王ノ第一ノ女子也。第二ノ女ハ仏在世ノ時、年始八歳」とあり、『法華経』「提婆達多品」第十二所説の竜女と姉妹ともされる(43)

 さて、伊都伎島神は、平安時代中頃から習合したものとみられるが、その本地仏には観音と大日如来の二説が並行してとなえられた(44)。観音であると明確に記す史料は、長寛二年(一一六四)、「平家納経」とともに奉納された「清盛願文」が初例とされる(45)。また、承安元年(一一七一)「伊都岐島社神宝調進状」には、「御正体鏡参面大日十一面毘沙門」と大日如来、毘沙門天とともに掲出される(46)。ついで、安元三年(一一七七)七月には、平宗盛が使者となり、高倉天皇が自ら摺写した「大日如来像三百六十体十一面観音像三百六十体」を厳島社に奉納している(47)。さらに、大日如来が胎蔵界のそれであることは、先述の『平家物語』に「胎蔵界の垂迹也」とあること等から知られる。さて、伊都伎島神の本地仏を大日如来とする説をめぐっては、さらに次のような興味深い記録がある。

 承安四年(一一七四)の「建春門院詣厳島願文」(『本朝文集』巻六二)(国史大系本)には、「夫当社者尋内證者則大日也有便于祈日域之皇胤思外現者亦貴女也無疑于答女人之丹心」とある。すなわち、伊都伎島神の本地は大日如来であり、それは「貴女」の姿となってあらわれ、女人の祈りを聞き届けるとされている。これに関連して、治承四年(一一八〇)の『高倉院厳島御幸記』(『群書類従』三二九)の以下の記述が想起される。厳島社の夜を徹した神事において、「あるひはけだかき女房うしろの障子にうつりて、宝殿に向ひ給へる姿を見たるなど申す人もあり」と、伊都伎島神が「けだかき女房」の姿で示顕し、その影だけが障子に映ったという目撃譚が語られる。ここで『選集抄』の「女房神」という呼称を想起してもよかろう。また、その姿は、厳島社の巫女集団である厳島内侍と結びつき、「内侍達をば大明神とこそ思い奉る」(『長門本平家物語』巻一「成親謀反事」)といった厳島社固有の状況を生み出す契機とも成り得たであろう。

 さて、以上でみたように十二世紀後半において、伊都伎島神は、胎蔵界大日如来、もしくは観音の化身であり、そして、前者は「貴女」や「女房」の姿となって示顕するとされていたことが知られる。さて、ここで羅刹女の問題に戻ると、『五十巻鈔』によれば、黒歯は胎蔵界大日如来の変化身である。すなわち、黒歯と伊都伎島神は胎蔵界大日如来を仲立ちとして結びつく。さらに、伊都伎島神(=黒歯)は、女房の姿となって示顕する。このように「平家納経」見返絵にえがかれた羅刹女(=黒歯)は、伊都伎島神を象徴するものだったのであり、その和装化は女房の姿であらわれる伊都伎島神をあらわすために要請されたものであったとすることができる。そして、二度にわたって黒歯が描かれた理由も伊都伎島神を繰り返しあらわし、称揚することで、平氏一門の伊都伎島神ヘの帰依の深さを象徴することにあったと推察される(48)


 以上、「平家納経」にみられた和装羅刹女像の成立をめぐる教義的背景について概観した。その考察結果を本章の問題設定である羅刹女の和装化というより大きな問題へと投げ返し、れを幾分広い視野から捉えると、十羅刹女の和装化が『五十巻鈔』等に説かれる「変化身」という教説を媒介して垂迹思想と結び付き、我が国における女神信仰とその造形化という現象と深く関わる可能性が高いということができる。そこで、あわせて想起されるのは、先に取り上げた奈良博本における鬼子母と「子守明神像」の図像の共有という現象である。十羅刹女そのものではない点において以上の議論とは若干ずれるが、このような現象の濫觴ともいうべき和装の羅刹女と女神との造形上の関わりが、「平家納経」が成立した十二世紀の後期において確認された。このことは、十二世紀前期とされる十羅刹女の和装化の初発に近い段階において女性による熱心な法華経信仰とともに十羅刹女像の和装化を進めた他の要素が存在したことを示唆している。そして、「建春門院詣厳島願文」にみられたように、こと伊都伎島神に限れば、女神が「女人之丹心」に応える神であったことは、伊都伎島神信仰と法華経信仰とが女性の信仰生活の中で併存し得るものであったことをも示している。但し、「平家納経」にみられたような状況がこれにのみ固有の現象であるのか、もしくは他の遺例にも敷衍できるかについては、さらなる考究が必要となろう。また、女神信仰とその造形化の様相についてもより詳細な検証が要求されることは言うまでもない。



  五 奈良国立博物館本の絵画史的意義

 第三章において検討したように奈良博本の制作時期に関しては、鎌倉時代後期、十三世紀末頃が想定される。最後に、奈良博本の制作に直接関わるものではないが、当該期における普賢十羅刹女像の制作状況を示す史料として、伏見上皇(一二六五-一三一七)周辺の普賢十羅刹女像供養に関する史料を取り上げ、若干の考察を施しておきたい(49)。併せて、以上四章に亘った奈良博本の図像及び様式的検討に、本章の史料的考察を加え、奈良博本の絵画史上における意義を把握することに努めたい。

 考察に必要と思われる範囲で史料を抄出すると以下の通りである。



一、嘉元三年(一三〇五)七月一〇日「伏見上皇願文」(50)
奉図絵普賢菩薩并十羅刹女像一舗、此像者飜先皇平常之御衣、
図願王端厳之真容、聖霊受持法華之故、崇此尊像、法華値遇聖
霊之故、画彼羅刹、願依随喜功徳之誓、速證究竟妙覚之果矣(後略)

二、嘉元三年七月一三日「恒助法親王諷誦文」(51)
奉図絵普賢菩薩、并十羅刹女等像一鋪、斯像者、令模文永一周
之先規、所企図絵両像之新誠也(後略)

三、嘉元三年一〇月二五日「昭慶門院願文」(52)
昭慶門院
 奉図絵普賢菩薩十羅刹像等一鋪
  斯像者、以聖霊宸筆之 紙、成普賢尊像之図絵(後略)

四、嘉元三年一〇月二八日「後伏見上皇願文」(53)
方今驚忌日之漸闌、営臨時之追善、奉図絵普賢菩薩并二聖二天
十羅刹女像一鋪(後略)

 さて、史料一、二は、嘉元二年七月一六日に崩御した後深草院(一二四三-一三〇四)一周忌の仏事に関する記録である。周知のように伏見上皇は、後深草院の皇子であり、また、恒助法親王は、『尊卑分脈』(国史大系本)「亀山源氏」の項に拠れば、亀山院の皇子恒明親王の息である事が知られる。この仏事に関しては、別に『後深草院一周忌御仏事記』と呼ばれる記録が現存する(54)。これに拠れば、七月一〇日の仏事に用いられた普賢十羅刹女像について、さらに「普賢菩唐女也薩十羅刹女絵二幅、水精軸、予賜御衣絹奉行之」とある。傍書に注目すると、そこに描かれた羅刹女が唐装であったことがわかる。また、願文の記述と併せ、画面の形式が現在「二副一鋪」と呼称される二枚の絹を継いだものであり、その絹には後深草院の「御衣」が用いられたことが知られる。

 次に同月一三日の恒助法親王の諷誦文について。ここに記録された像と先に供養されたそれとが同一のものかは判断に苦しむが、諷誦文には「普賢菩薩、并十羅刹女等像」とあり、願文の「普賢菩薩并十羅刹女像」とは、記述が若干異なる。これらが図様を厳密に記したものであれば、前者には、普賢十羅刹女に二菩薩や二天王が併せ描かれていたと思われ、別の像であった可能性が高い。

 さて、ここで注目したいのは、掲出した史料の後半部である。すなわち「(普賢菩薩、ならびに十羅刹女等像一鋪を図絵し奉る)、斯像は、うつ文永一周の先規を模さしめ、両像の新誠を図絵するを企する所也」と読むことができる。文永とは、「文永法皇」と呼称された後嵯峨院(一二二〇-七二)のこと(55)。文永九年(一二七二)二月一七日嵯峨寿量院において没した(56)。その一周忌の法要は、文永一〇年二月六日に蓮華王院で、また同月一七日亀山殿で行われている(57)。そして、後深草院の一周忌法要の記録から、そのいずれかでその「先規」となる普賢十羅刹女像が供養されたことが知られる。但し、後嵯峨院一周忌の法要に関する記録は、管見の範囲ではこの他に見出せず、それがどのような図様であったのかは明らかにし得ない。そこで、改めて既出の諷誦文を検討すると、「規」字は、規則、もしくは手本と解することができ、「模」字は、「のっとる」とも読み得る。よって、「先のっと規に模る」とすれば、同文は、院の追善に普賢十羅刹女像を供養するという先例に従ったという意味に解し得る。一方、先にあげたように読めば、後嵯峨院一周忌の像と同図様で描いたというより具体的な図様に及ぶ記録となる。このいずれで理解すべきかは、この史料のみでは判断し得ない。但し、同文に続く「新誠」という耳慣れない言葉を「新たな真実」といった意味に解すれば、普賢菩薩並びに十羅刹女等の旧像にあらわれた「真の姿」を新たに描くことによって、旧像に備わる霊験とそれを新たに図絵する功徳を二つながら期待するという意図を読み取ることも不可能ではない。また、そうであれば、およそ三十年の期間をおいてほぼ図様を同じくしたであろう普賢十羅刹女像が制作されたこととなり、法華経絵画史的には異なる時期に同図様の普賢十羅刹女像が描かれる契機について一つの示唆を与える記録と称することができる。具体的には、奈良博本と同図様の福祥寺本が制作されている例(58)や滋賀・宝厳寺「刺繍普賢十羅刹女像」(鎌倉時代)の普賢菩薩の図様が平安時代末の奈良国立博物館「普賢菩薩像」と細部にわたって一致すること等が想起されよう(59)

 史料三、四についてみて行くこととしよう。三、四は、いずれも嘉元三年九月一五日に没した亀山法皇(一二四九-一三〇五)の中陰仏事に関する記録である(60)。昭慶門院(一二七〇-一三二四)は、亀山院皇女。後伏見院(一二八八-一三三六)は、持明院統、伏見院の皇子であるが、伏見院は、大覚寺統の後宇多院(一二六七-一三二四)の東宮となり、後に即位している。亀山法皇崩御時には、それぞれ「新院」「中院」「一院」とされていた。この二つの史料からは余り多くの論点を引き出せないが、三に拠れば、「普賢十羅刹像」が、亀山院の「宸筆之 紙」に描かれた紙絵であったらしいこと。また、四からは、普賢十羅刹女像に奈良博本と同じく、二菩薩、二天王が描かれていたことが知られる。この二つの絵像の関係については、現時点では明らかにし得ない。

 以上、後深草院及び亀山院の追善法要の記録にみえる普賢十羅刹女像について述べた。それらの史料から導き出せる問題については、上述した通りである。最後に付け加えると、当該期においては、後嵯峨院の例も含めて、三人の院、すなわち男性の追善に慣例的に普賢十羅刹女像が用いられたということがある。先にも記したように平安時代後期における普賢十羅刹女像の造像記録は、女性に関する仏事のそれが多い。勿論、鎌倉時代後期においても女性の仏事に際し普賢十羅刹女像が制作されている(61)。また記録の多寡も考慮に入れるべきであり、男性の追善仏事における普賢十羅刹女像供養の盛行がいつ頃から兆し初め、どの程度の広がりをもって行われたかについて考えるには、さらなる史料の渉猟が求められる。また、宮廷文化の中心の一つであった院の仏事における普賢十羅刹女像の使用は、普賢十羅刹女像の絵画様式にも何らかの変化を及ぼした可能性が高い。すなわち、先に奈良博本の表現の考察において普賢菩薩の面貌表現が、いわゆる「藤末鎌初期」の普賢菩薩像のそれから変容していることを指摘した。その背景には奈良博本における宋画由来の形態の受容がある。その受容は、願主の意向をうけて行われたものであろう。そして、その意向の中に仏事の目的に対する配慮が含まれていたであろうことも予想される。このように仮定し、さらに史料上での当該期における追善対象の変化を鑑みると、奈良博本にみられるような面貌表現の変容は、追善対象の女性から男性への拡大と何らかの関わりをもつようにも思われるのである。




  おわりに

 以上、五章にわたって奈良国立博物館所蔵「普賢十羅刹女像」について、図像、表現の問題を中心に論じてきた。論点が徒らに多岐にわたり、保留とした問題も少なくない。それらについては、さらなる考察を期したい。また、奈良博本の菩薩と十羅刹女との間に見られる宋画風と和装との併存が、如何なる意図の下に行われたかという点について、本稿では全く議論が及んでいない。一つの可能性として、男性の追善を目的とした仏事における使用との関わりを想定したが、僅かな史料に拠ったものであり、未だ不完全なものでしかない。我が国の仏教絵画における中国絵画受容の様相を考える一つの論点としてさらに考究して行きたい。また、十羅刹女の和装化の問題についても、本稿で注目した女神信仰との関わり以外にも様々な観点があってしかるべきと思われる。「扇面法華経冊子」等、個々の作例についての具体的な考察が求められる所以である。

(平成一五年一月一一日稿了)




 【注】

  1. 奈良博本の伝来について、現時点では江戸時代後期以前には遡り得ない。本像の旧箱に  は住吉広尚の文政元年(一八一八)の添状が納められている。文面は以下の通り(/は改  行を示す)。「普賢菩薩一鋪/右従四位下刑部大輔/光長真筆無疑者也/文政元戊寅/  九月廿一日/住吉内記廣尚(黒文円印)」。本状の控えが、いわゆる『住吉家鑑定控』(東   京芸術大学蔵)中に認められる。「住吉家鑑定控一(公刊)」(『美術研究』第三八号、一九   三五年二月)参照。赤星家伝来については、高橋義雄(箒庵)『近世道具移動史』(慶文堂   書店、一九二九年)に記載がある。併せて、黒川真頼(一八二九-一九〇六)『訂正増補考  古画譜』巻一〇(『黒川真頼全集』第二巻所収、国書刊行会、一九一〇年)に「四郎(筆者   註=片野四郎)曰、今赤星鉄馬氏の所蔵にして、名画なり、光長より時代若きがごとし」とあり、赤星弥之助の没後、子息鉄馬に伝えられたことが知られる。

  2. 秋山光和・柳澤孝・鈴木敬三『扇面法華経の研究』(東京国立文化財研究所監修『扇面法華経』所収、鹿島出版会、一九七二年)「第三章扇面法華経冊子の成立をめぐる諸問題」(柳澤孝執筆)参照。

  3. 他に和装の十羅刹女三組のみを雲上に描いた「十羅刹女図」(石山寺蔵)が知られる。

  4. 奈良博本に関する解説等は次の通り。
    藤懸静也「普賢十羅刹女図」解説(『国華』第七四五号、一九五四年四月)
    有賀祥隆「普賢十羅刹女像(文化庁)」(『仏教芸術』第七七号、一九七〇年九月)
    普賢十羅刹女像に関する先行研究のうち本論中で言及したものについては、その都度掲出するが、併せて、拙稿「普賢十羅刹女像の成立をめぐる諸問題」(『国宝寝覚物語絵巻-文芸と仏教信仰が織りなす美-』展図録、大和文華館、二〇〇一年)註の参考文献一覧を参照されたい。また、前稿発表後にFabricand-person, Nicole Diane, Filling theVoid: TheFugen Jurasetsunyo Iconography in Japanese Buddhist Art, Ph.D. dissertation, Princeton University, 2001.が公刊された。併せて参照されたい。

  5. 以下、本稿における『法華経』の引用は、坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』(岩波文庫)に拠る。

  6. 豊岡益人「普賢十羅刹女図考」(『美術研究』第四一号、一九三五年五月)、菊竹淳一「普賢十羅刹女像の諸相」(『仏教芸術』第一三二号、一九八〇年九月)、百橋明穂「廬山寺普賢十羅刹女図」(仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書一六『研究発表と座談会天台美術の諸相』、一九八八年。同氏『仏教美術史論』所収、中央公論美術出版、二〇〇〇年)等参照。

  7. 普賢十羅刹女像に描かれた童子については、近年、土谷恵、松原智美両氏による論考が発表されている。土谷恵「舞童・天童と持幡童―描かれた中世寺院の童たち―」(藤原良章 ・五味文彦編『絵巻に中世を読む』、吉川弘文館、一九九五年。同氏『中世寺院の社会と芸  能』所収、吉川弘文館、二〇〇一年)、松原智美「普賢影向図の持幡童と天童」(佐々木剛  三先生古稀記念論文集編輯委員会『日本美術襍集佐々木剛三先生古稀記念論文集』、明徳出版社、一九九八年)参照。

  8. 以下、『大正新修大蔵経』については大正蔵、同図像篇については大正図像と略記し、次いで掲載巻、頁、段数の順に表記する。すなわち、大正蔵二一-二三五頁上段のごとくである。

  9. 註4拙稿参照。

  10. 忠尋『法華文句要義聞書』に十羅刹女に関する記載のあることは、夙に中島博氏によって指摘されている。同氏「十羅刹女図」解説(『観音のみてら石山寺』展図録、奈良国立博物館、二〇〇二年)参照。

  11. 円仁の入唐求法が、平安時代における普賢菩薩像造像盛行の契機となったことについては、拙稿「東京国立博物館普賢菩薩絵像の図像と表現」(『美術史』第一四九号、二〇〇〇年一〇月)において指摘した。

  12. 『仏書解説大辞典』第十巻(大東出版社、一九六四年改訂)「法華文句要義聞書」の項 (石井亮薫執筆)参照。

  13. 米倉迪夫「法然上人伝絵と霊験図―法華経霊験図を中心として―」(『美術研究』第三三九号、一九八七年三月)、松浦正昭「菩薩造像の発生と展開」(『菩薩』展図録、奈良国立博物館、一九八七年)、梶谷亮治「総論我が国における仏教説話絵の展開」(奈良国立博物館編『仏教説話の美術』、思文閣出版、一九九六年)

  14. 上杉神社本、及びボストン美術館本については、有賀祥隆「毘沙門天像」解説(『日本の仏画』第二期第八巻、学習研究社、一九七七年)参照。また、四天王の身色と儀軌については、柳澤孝「仁和寺蔵宝珠筥納入の板絵四天王像について」(『美術研究』第二五六号、一九六八年三月)、及び谷貴之「興福寺四天王像の再検討―その肉身色を手掛かりとして―」(『美術史』第一四七号、一九九九年一〇月)に多く拠った。

  15. 『法華十羅刹法』(大正蔵二一)
      十羅刹形様
      藍婆形如薬叉。衣色青。右手独股当右肩。左手持念珠。即立左膝当居
      彼上。面肉色也
      毘藍婆。形如竜王如円満月也。如向大海。右手把風雲。左手把念珠也。
      衣色碧緑也。面色白前立鏡台也
      曲歯形如天女仙。衣色青面伏低。前捧香花長跪居。半跏坐也
      花歯。形如尼女。衣色紫色也。右手把花。左手把花盤面少低也
      黒歯。形如神女。衣色都妙色也。右手取叉左手軍持也。猶如守護之形
      半跏坐也
      多髪。形如童子満月肉色。乾達女右手銅環取。左手如舞長跪居也
      無厭足形如頂経之形。恒守護衣色浅也
      持瓔珞。形如吉祥天女。左右之手持瓔珞也。衣色金也。面色肉色結跏
      趺坐也
      白幸帝。形如頂鳴。女形衣色紅青也。右手把裳。左手持独股。如打物
      形立膝居也
      奪一切衆生精気。形如梵王帝釈女。帯鎧伏甲。出頂馬頭也。忿怒形。
      右手持杵左手持三股。衣色雑色也。結跏趺坐也

  16. 註2柳澤論文参照。但し、柳澤氏も指摘されているように開結二経に関しては、本来『無量義経』に第九皐諦、『観普賢経』に第十奪一切衆生精気が描かれるべき所を逆にしている。同氏は、これを制作過程における表紙の取り違えに起因するものとされている。

  17. 近藤喜博「大和文華館の女神御影」(『大和文華』第一九号、一九五六年三月)

  18. 興然については、武内孝善「理明房興然伝攷」(『高野山大学論叢』第一八号、一九八三年二月)参照。

  19. 有賀祥隆『日本の美術第二六九号法華経絵』(至文堂、一九八八年一〇月)

  20. 柳澤孝「益田家旧蔵の普賢菩薩絵像について」(『国華』第八四七号、一九六二年一〇月)

  21. 普賢菩薩来儀図の図様形成に阿弥陀来迎図が果たした役割については、須藤弘敏「来迎の夢 影向の幻」(『日本の美学』第一七号、一九九一年七月)に言及がある。

  22. 渡邊一「仏眼仏母像」図版解説(『美術研究』第一二号、一九三二年一二月)等。

  23. 註11拙稿参照。

  24. 有賀祥隆「大和文華館所蔵文殊菩薩像について」(『大和文華』第九二号、一九九四年九月)

  25. 泉武夫「十体阿弥陀像の成立」(『仏教芸術』第一六五号、一九八六年三月。同氏『仏画の造形』所収、吉川弘文館、一九九五年)

  26. 有賀祥隆「地蔵菩薩像」解説(『壮麗な密教芸術の伝承.京都・醍醐寺の名宝』展図録、佐野美術館、一九九六年)参照。

  27. 註24有賀論文参照。

  28. 註11拙稿参照。

  29. 註2柳澤論文参照。

  30. 梶谷亮治「国宝『平家納経』図版解説」(中村元監修『あなただけの法華経』、小学館、二〇〇一年)、同氏「平家納経雑感」(『鹿園雑集』第二・三合併号、二〇〇一年三月)等。

  31. 但し、十二世紀に遡る奈良国立博物館「金銅製輪積経筒」(保延七年=一一四一銘)線刻画や廬山寺本においては、和装本の羅刹女の型に直接結びつき得るような図様のバリエーションは認められない。

  32. 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館、一九九五年)参照。

  33. 梅津次郎「新名所絵歌合攷」(『美術研究』第二九号、一九三四年五月。同氏『絵巻物叢考』所収、中央公論美術出版、一九六八年)

  34. 松下隆章「普賢十羅刹女像について」(『仏教芸術』第六号、一九五〇年二月)

  35. 註2柳澤論文参照。

  36. 『兵範記』(史料大成本)久寿二年(一一五五)一〇月九日条
    九日癸未(中略)
    今日人々法性寺殿修仏事
    左衛門督
      二幅普賢菩薩像一鋪、在十羅
      刹像
      書写色紙法華経一部
      御誦経布十端
      導師法橋公舜(後略)

  37. 『兵範記』(史料大成本)嘉応二年(一一七〇)六月二二日条
    廿二日辛未 男方一品経供養、佐奉図絵一幅普賢大菩薩像、在十羅刹女、方便品同、 但判奉書序品、刑部以下、少輔両闍梨、小男両人、及男家人等皆奉書写、在願文 、 肥後守光維草之、少内記住長清書之、料紙用紫裏白、無薄、導師下総(後略)

  38. 『玉葉』(名著刊行会本)養和二年(一一八二)正月一二日条
    十二日、癸未天晴、朝間小雨、此日、旧臣女房等、奉供養結縁経、講師澄
    憲僧都、籠僧之中、無堪説法之輩、而於今之一品経者、聊有可演旨趣
    之事、故院御平生之昔有此御願、即近臣女房等手自書之、其中薬王品、
    自筆所令書給也、然間、其功未及半、自然渉年月、其願遂黙止、今遇
    此崩御、恨之尤切、不知手足所措、爰近臣之陪妾仕女等、開彼旧経等、
    拭紅涙嗚咽、往年之結衆、或有終命之者、或有遁世之類、当時伺候之
    輩、各補其闕、又添荘厳、此中余女房、自筆書写般若心経、為答芳恩
    也、普賢菩薩、并十羅刹女、一鋪
    半一鋪、女房等手自所奉図也(後略)

  39. 『拾芥抄』については、大和文華館鈴鹿文庫所蔵の寛永一九年(一六四二)刊本に拠る。

  40. 宮崎英修氏によれば、十羅刹女を変化身とする所説の濫觴は、不空訳とされる『妙法蓮華三昧秘密三摩耶経』(『大日本続蔵経(卍字続蔵)』第一編第三套)にみられる。宮崎英修編『民衆宗教史叢書第九巻鬼子母神信仰』(雄山閣、一九八五年)「第四篇鬼子母神信仰の研究」(宮崎英修執筆)三三二頁参照。但し、本経の現流本は偽経である可能性が高いとされており(『仏書解説大辞典』「妙法蓮華三昧秘密三摩耶経」の項参照)、本稿では参考にあげるにとどめたい。同経には、「十羅刹女等本源云何。毘盧遮那仏告言(中略)初四羅刹女(筆者註=藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯)浄行等四大菩薩、第五羅刹(=黒歯)釈迦牟尼、中四羅刹(=多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦)八葉四大菩薩、第十羅刹(=奪一切衆生精気)多宝如来」とされている。

  41. 註34松下論文参照。

  42. 『選集抄』については、陽明文庫旧蔵本に基づく西尾光一校注岩波文庫本に拠る。同書に拠れば、橋本進吉旧蔵本、宮内庁書陵部本等は、「女房」を「女房神」と記している。

  43. 伊都伎島神と龍女との関わりについては、田中貴子『外法と愛法の中世』(砂子屋書房、一九九三年)「第一部女神と竜女」を参照されたい。

  44. 松岡久人『安芸厳島社』(法蔵館、一九八六年)参照。また、以下の考察においては、註30梶谷論文から多くの示唆を受けた。

  45. 註44に同じ。

  46. 「承安元年伊都岐島神社宝調進状」(野坂文書三一五、『神道大系 神社編 厳島』所収)

  47. 「安元三年御手摺書正躰供養日記」(野坂文書三二〇、『神道大系 厳島』 所収)

  48. 但し、周知のように「平家納経」とともに納められた平清盛による願文においては伊都伎島神を「観世音菩薩の化現」としており、以上の推察と願文の記載との関わりが今後の考察課題となる。

  49. 以下でとり上げる史料については、既にマイケル・ジャメンツ氏によって若干の考察が行われている。同氏「安居流唱導における国文学と美術史の連絡-普賢菩薩・十羅刹女像を中心として-」(『国際日本文学研究集会会議録(第一九回)』、国文学研究資料館、一九九六年一〇月)

  50. 『鎌倉遺文』二二二六三

  51. 『鎌倉遺文』二二二七四

  52. 『鎌倉遺文』二二三七二

  53. 『鎌倉遺文』二二三七五

  54. 宮内庁書陵部所蔵。『公衡公記』(資料纂集本) 第四巻に「後深草院一周忌御仏事記」として公刊されている。

  55. 『公衡公記』(史料纂集本)弘安六年(一二八三)八月一三日条には、今出川院の出家をめぐる記事の中に「随又文永法皇御逆修時」とみえる。

  56. 『続史愚抄』(国史大系本)文永九年二月一七日条
    十七日乙巳。卯刻[或作/酉。]。法皇[法諱/素覚。]。崩于嵯峨寿量院。[春秋五/十三。]奉号後嵯峨院。

  57. 『続史愚抄』両日条参照。

  58. 私見によれば、福祥寺本は、その制作時期が奈良博本より一世紀以上下るものとみられ、その制作事情には別の文脈を想定することが必要かと思われる。

  59. これについては、註4拙稿において簡単に指摘した。

  60. 『続史愚抄』嘉元三年一〇月二五日、二八日条
    廿五日戊戌。為昭慶門院御沙汰被行故院御仏事。
    廿八日辛丑。為新院御沙汰被行御経供養。故院中陰御仏事中也

  61. 例えば、正嘉元年(一二五七)七月五日に没した土御門院の母(後嵯峨院の祖母)・承明門院(一一七一-一二五七)の中陰仏事において普賢菩薩、及び十羅刹女像が供養されている。

     宗性(一二〇二-七八)『承明門院御忌中諸僧啓白指示抄』(東大寺蔵)
    八月一四日条
      経
        例時之次、先有女房一品経供養、御導師聖憲
          御仏  普賢菩薩像一体、并十羅刹女形像各一体
          御経  妙経妙法蓮華二十八品  開経結経
          心経  転女成仏経  阿弥陀経

     引用は、平岡定海『日本寺院史の研究中世・近世編』(吉川弘文館、一九八八年)所収の活字版によった。



〔付記〕
本稿は、筆者の奈良国立博物館調査員としての調査研究活動の成果の一である。この間、多大なる御高配を賜った、梶谷亮治学芸課長をはじめとする奈良国立博物館学芸課の皆様、また調査に際し御高配を賜った京都国立博物館・泉武夫氏に深く感謝の意を捧げたい。


(ますき りゅうすけ 財団法人大和文華館・当館調査員)

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