『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第4号
奈良国立博物館研究紀要
平成14年3月31日発行


山水夾纈屏風と奈良時代の絵画

中島 博


 はじめに

 正倉院宝物の根本資料である、天平勝宝八歳(七五六)六月二十一日付けの『東大寺献物帳』、いわゆる『国家珍宝帳』に、聖武天皇の身辺を飾ったと考えられる「御屏風壹佰疊」が記されており、奈良時代の絵画遺品の乏しさを補う貴重な文献資料となっているのは周知の通りである。中に「夾纈六十五疊」が含まれるが、その筆頭に挙げられるのは「山水夾纈屏風十二疊」である。数は「鹿草木夾纈屏風」の十七畳に次いで多い。山水を主題とするものは、「畫屏風廿一疊」十四種の中にも「山水畫屏風一具兩疊十二扇」・「古樣山水畫屏風六扇」・「山水畫屏風六扇」の三種計四畳が含まれており、「山水」が「宮殿」や「子女」などと並ぶ画題の一つであったことがわかるが、画屏風はすべて失われたため、内容を具体的に知ることができない。現在正倉院に伝わる屏風残欠の中には、「山水夾纈屏風」にあたるとみなされるものがある。それには二種の図様があり、一種(口絵4)は、ほぼ全図を留める四扇が北倉に、また中央部のみ残る残片などが中倉に伝わり、もう一種(口絵5)は、大概が窺える程度に残る一扇や、より小さい残片などが中倉に伝わっている。通常「山水夾纈屏風」といえば、比較的保存の良い前者ばかりがとりあげられるけれども、後者にあたりそうなものが「御屏風壹佰疊」の中に別に記されているわけではなく、後世に納入された記録も知られない上は、作風が共通すると見受けられる二種を一括で考えるべきであろう。また、もと各六扇で十二畳、すなわち全部で七十二扇もあったうち、現在わずか十扇ほどしか確認されていないのであるから、図様の種類が二種に留まらなかった可能性も十分にあろう。


 正倉院の屏風はすべて屏風としての体裁を失ってしまっているけれども、本来の形態に無関心でいるわけにはいかない。縁裂の種類など表装については『国家珍宝帳』に詳しく記録されており、かなり復原的に想像できるのが貴重であるけれども、図様については画題以外に全く記述がなく、該当遺品がある場合でも、六扇つながった屏風としての全体の構成については、確かな手掛りがない。「山水夾纈屏風」の場合、いま仮に二種をそれぞれ単一で六扇並べた状態を想定してみると、いかにも単調の感を否めず、また仮に二種を交互に並べてみると、単一よりは変化が生じて好ましいように思われる。参考になる例として、「鳥木石夾纈屏風」にあたるとみなされるものの場合、両面染めとなる夾纈の特徴を生かして、表裏両面を用い分けることにより、図様を左右反転させた二種があり、おそらく交互に並べて屏風に仕立て、構成に変化と同時にまとまりを与えたのではないかと推察される。



 失われた姿を想像することはひとまず措いて、とりあえずは、有名にもかかわらず意外と丁寧に見られたことのない、この屏風の現存の図様をしばらく眺め、それを生み出した環境にも思いを巡らしてみたい(1)。以下においては便宜的に、二種の図様のうち前者を〈甲〉、後者を〈乙〉と称する。また、扇によって染め上がりや保存状態に差があり、図様の詳細は全点を照らし合わせながら確認する必要があるので、記述は特定の扇に即するものではないことを断っておく。



 一、 山水夾纈屏風の山水


(一)構図の概要

 

まず「山水夾纈屏風」における山水の構成についてであるが、〈甲〉の概容を見ると、上端には遠山が連なる上に雲が飛び、上部中央には幾つかの峰をもつ山があり、その左右の谷から雲が湧き上り、山から流れ出す瀧川が手前の野に流れを作り、さらに手前には古木群が立ち、それより下部約三分の一は海と思われる水面となり、その中に左右二つの島のほか岩が散在する。一般に山水を構成する主な諸要素を含み、空間の広がりも備えており、山水図としてかなり整ったものである。中では最も大きい要素の山も、全体の中心となるほどの大きさはもたず、空間は平均化されていて、目立った奧行きがなく、むしろ平板な印象があろう。一方〈乙〉は、上端部は欠損のため明らかでなく、上部に山が左右から半身を表わして中央が谷をなし、山の下辺も大きく欠損しているが野であることは判り、樹木や土坡を経て、下部約三分の一は水面になり、その中央に高い山のある島が位置する。遠山から山や野を経て島のある海に到る山水の構成法は、一般的といえばそれまでであるが、例えば「金銀山水八卦背八角鏡」(正倉院挿図1)の鏡背文様のような類例をあわせて見ると、一定の方式とも感じられる。


 

なお、〈甲〉と〈乙〉を比べると、山・野・海の、上下の配分はほぼ一致し、並べた場合に扇の枠を越えて左右に連続する大きい景観として見うるようにという配慮かと思われる。また、構図上の重点の置き方が、〈甲〉では上部が中央にあり下部は左右に分かれ、〈乙〉ではその逆になっている。このような相異は、取り混ぜて並べられるときに効果を上げるものであろう。



(二)「法華堂根本曼荼羅」と「山水夾纈屏風」

 

「釈迦霊鷲山説法図(法華堂根本曼荼羅)」(2)(ボストン美術館挿図2)は、下部などに欠損が少なくはないものの、主要部を留めており、尊像の背景として描かれた山水景観も見応えがある。製作地が日本か中国かはともかく、奈良時代の仏画を代表する遺品であることには相違なく、山水表現についても基準を示す作品とみなされよう。山水構成の概略を見ると、中央部に霊鷲山が主山として大きく位置し、両脇に谷を挟んで小さい山があり、谷間に望まれる遠景は山の連なりと水面からなり、立ち昇る雲が空を埋める。これは基本的に〈甲〉の上部と共通する構造といえよう。主山の頂部は欠損のため明らかでないが、向かって右の高い位置に深い谷を刻んで小さい峰をなしているところから推して、全体に幾つかの峰に分かれるかと推察され、この点でも〈甲〉に通じる。山の内部には、縦に走る襞が平行状に多く畳まれるが、これは岩塊を積み重ねた様な〈甲〉の山よりも、〈乙〉の山に近い。ただし〈乙〉はこれほど執拗な陰影を表わそうとしていないことは明かであり、異なる色面の組み合わせによる、平面的な効果に傾いている。山の全形は、高さより裾の幅の方が大きく見えて量感が豊かであり、〈甲〉のずんぐりした山と感覚が似ていよう。


 

山の両側面の形を詳しく見ると、右側の谷に面した山裾近くに、上面の平らな張り出しがあって樹木が生え、そこから上へそびえる崖は、上部でわずかに膨らんだあたりに樹木が取り付き、その上は尖った小さい峰をなし、改めて上へ伸びてゆるく尖った峰となる。左側の谷に面した部分では、崖の上部に棚状の大きい張り出しがあり、楼閣や樹木が配されているのが目立つ。〈甲〉の山の側面部は、裾に上面の平らな張り出し部があって樹木が生え、そこから上る崖は短いが腹が膨らみ、その上の岩塊が張り付いた様な出っ張りは上が尖って峰を作り、もう一つ上に同様の部分がまた峰をなし、最頂部の峰へと続いて、各峰の上には樹木が生えている。〈乙〉の山の側面も概ねこれに近いが、崖の下端に位置する岩塊に平坦部がなく、崖の上の張り出し部は、そこに樹木があって一応存在を示すものの、あまり目立たず、かなりなめらかに頂部へと高まるといった相違点がある。相似部分と相違部分が入り組む、「法華堂根本曼荼羅」・〈甲〉・〈乙〉の山の側面の様々の形は、共通の形式の中での変異と見受けられる。


 

「法華堂根本曼荼羅」の右側の谷の手前には、山から流れ出した渓流が曲折し、その源は山中の小さい谷の中を蛇行する水流かと見られる。これは〈甲〉の山中を縫って段をなしては激ちながら勢いよく流れ下る瀧川に通じよう。

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遠山は右側でよく見えるが、幾つかの山が重なって一塊りをなし、さらに奧に多くの山が重なりながら連なっている。〈甲〉の遠山も同様に、「法華堂根本曼荼羅」ほどには遠近を明らかに示さないけれども二層に分かれ、手前に裾の長い山が数個重なり、その左右奥にまた三四の山が重なりながら連なっている。


 

右側の谷に湧き上る雲の、尾を長く引き、頭部が多く分かれて巻き込む形、および空に同様の雲がわだかまる形は、〈甲〉における雲の様子とかなり近い。


 

たしかに、「法華堂根本曼荼羅」の山水は深い奥行を有し、重厚な空間を作り出しているのに対し、「山水夾纈屏風」の方は空間に深みがなく、平明であるという、両者の表現の相違は歴然としている。それが絵画と工芸との相違によるものか、あるいはこの屏風を染織技法による一種の絵画とみなし、絵画の中での異なった感覚を示すものか、という問題も含んでいるが、とりあえず、大体において共通の形式を備えていることだけ確認しておきたい。



(三)「騎象奏楽図」と「山水夾纈屏風」

 

山水夾纈屏風」の構図について考える際に着目したいのは、この屏風の染め方における特徴である。夾纈染めは、同図反転の関係に彫られた二枚一組の型木の間に裂を挟んで染める技法であるが、裂は一枚だけでなく複数枚を挟んでも、一度に同じ図を染めることができる。それを応用して、裂を二つ折りあるいは四つ折りにして挟めば、対称や二方向に対称の図様に染め上がる。この屏風では、〈甲〉・〈乙〉ともに裂を縦二つ折りにして染めており、左右対称の図になっている。ということは、型木を彫るための原図は、もちろん全図の半分だけが描かれたわけである。それゆえ、図様を他の絵画作品と比較するとき、半分にして見ることも有意義であろう。ためしに〈甲〉の右半分に限って見てみると、その上半部(挿図3)の山水構成は、器物の装飾画で画面も小さいながら、完成度の高さからこの時代の絵画を代表する作品として挙げられることも多い、「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶」(正倉院)の捍撥絵「騎象奏楽図」(挿図4)に非常に似通っていることに気付かれるのである。


 

構図の骨格は両者共に、左から高い山が半身を現し、右には低い山ないし岩塊が少しのぞき、それぞれの上には樹木が生えており、谷間に遠山が望まれ、山裾の野には屈曲する水流がある、というものである。この構図法は、「法華堂根本曼荼羅」の両脇部にも共通する。ただし、「騎象奏楽図」では遠山に到る前に崖のある山がもう一つ右に配されて、より複雑な構成となっている。


 

左の山を詳しく見ると、「騎象奏楽図」では、山裾に小さめの岩塊が二つあり、その奧の少しだけ右方へ出っ張った部分を根もとにして、崖が腹を膨らませながら高く伸び上がり、その上端近くに岩が小さい突起を作り、そこから飛瀑となって流れ落ちる水が、山裾で段をなし屈曲する流れを作る。崖の上端には大きく棚状の張り出し部があり、短い崖を作って頂部へと続く。山の内部には、深い襞が縦に平行状に走って隈を作り、岩が層を成すようで、伸び上がる感じと同時に量感にも富む。〈甲〉の山に〈乙〉の山を混合してみるならば、「騎象奏楽図」の山にかなり似通ったものとなるように思われる。


 

遠山は、「騎象奏楽図」でもやはり、長く裾を引く山が幾重にも重なって一群をなし、霞をはさんだ奧に、もう一群が同形反復のように描かれる。その最奧の一番高い山は、片側の山腹がえぐれ、その内側に同形の山が配されるという特徴がある。〈甲〉の奧の方の高い山も片側の山腹がえぐれた形で、その内側に重なる山が峰の部分まで高まって半分でとぎれるのは、えぐれる側の裾部分が曖昧になった形と解され、「騎象奏楽図」と同じ形式性が感じられる。さらに、細かい円弧状曲線を連ねてわだかまる様子を表わした雲が遠山の上空に配されることや、谷と遠山を繋ぐ位置に一つらなりの飛鳥が描かれることも、両者は共通している。


 

山から流れ出す水は、「騎象奏楽図」では崖の上から飛瀑をなし、〈甲〉では山中に瀧川を作るという相違があるけれども、山下では共に、土坡を縫って曲折する流れとなって共通している。しかも「騎象奏楽図」の山下の流れは早く、曲折のたびに激つ形は、むしろ〈甲〉の山中の瀧川に似る。すなわち、水流においてもまた両者は近い関係にある。なお「法華堂根本曼荼羅」では、左側の谷に瀑布があり、山下で渓流となっていて、右側の谷の、山から流れ出す渓流と併存していることも、「騎象奏楽図」と〈甲〉を結びつける意味があろう。


 

以上のように、〈甲〉の右上半部と「騎象奏楽図」における山水を見比べてくると、両者の相似性は否定しがたく思われる。それらは、左右を限られた画面における山水構成法の定形にならっているのであろう。その源流はむろん中国にあると考えられ、同じ流れを汲むものに、例えば敦煌莫高窟第三百二十窟や第百七十二窟北壁の「観経変相」中、「日想観図」・「化前序図」などがあげられる(3)



(四)その他の類例

 

以上、代表的な二作品との比較によって、「山水夾纈屏風」の山水がこの時代の標準的な形式にならっていることの確認は十分かと思われるが、もう一例挙げるとすれば、天平勝宝八歳(七五六)の製作銘がある「摂津国水無瀬絵図」(正倉院挿図5)であろう。東大寺荘園図の一つで、水無瀬は現在の大阪府三島郡島本町広瀬および東大寺にあたり、日本の特定地を表わすことは言うまでもない。中央部に田畠を純然たる平面図として表わし、一方周囲を取り囲む山は、多くの峰の連なりを横から見た形に、簡略ながら手慣れた筆致で絵画的に描いており、素朴な表現の多い荘園図の中では際だっている。個々の山を見ると、崖をなして伸び上がる様な姿、上部の張り出し、稜線に並んだ小さい樹木の列などの諸特徴は、既に見た山の類型にならっており、実景の描写という性格は乏しいとみなされる。中でも、北側にある高い山の、両脇に岩が張り付く様な形などは、〈甲〉の山に似たところがある。「山水夾纈屏風」も則った山の形式が、この時代の絵画の世界にいかに浸透していたかを窺わせる例として興味深い。


 

このほか、一々考察を連ねるのは煩瑣になるので省略するが、正倉院宝物に見出されるさまざまの装飾画のうち絵画性の高いもの、例えば「黒柿蘇芳染金銀山水絵箱」や、「密陀絵盆」 (4)中の「水中龍図」・「山岳走虎図」などにおける山水描写も、おそらく近い環境で製作されたものとして、おしなべて同じ形式を踏まえている。



(四)水景

 

なお、山水といいながら、上部の山を主とする部分にばかり関わってきたが、下部の水面部分についても同様に時代性が認められることについては、島の点在する海という図様には、「麻布山水図」(正倉院)をはじめとする類例があり、この時代に好まれた題材であったこと、波打つ曲線と細かくくねる曲線の混じる波文の表わし方は、「金銀平文琴」や東大寺大仏の台座蓮弁線刻画などに類似すること、また〈甲〉の下端部の島の、胴部に穴の開いたような特殊な形にも、「麻布山水図」や、東大寺の金堂鎮壇具のうち「狩猟文小壺」の蓋の線刻文などの類例があることを挙げるに留めたい(5)


(五)景物

[飛鳥]
 

山水に彩りを添える要素として、所々に配された景物にも眼を向けておかねばならない。例えば〈甲〉の上部に見える飛鳥の列については、「騎象奏楽図」との比較の際に触れたが、「黒柿蘇芳染金銀山水絵箱」にも同様に見出され、空間の広がりに関わる要素として、山水には親しい景物である。


[古木]
 

〈甲〉の中央辺に描かれた屈曲の多い古木群は、左右対称の片方で見ると、円弧状の曲線の連なりで形作られた葉叢をいくつか付けた高い木、切れ込みのある大きめの葉がついた低く曲がった木、枯木と見える太く短い木、の三本が幹を交差させ、前後にも絡まって立つ。うち二本は根元が密着しているので、あるいは一本のようにも見えようが、色を変えて染めているところから、別の木と見るべきであろう。これらの木を「連理樹」と見る説(6)もあるが、三本であること、さらにうち一本は枯れていることからも、不当と思われる。幹枝が細長く伸びる樹形は、奈良時代の多くの絵に共通し、また複数の樹木が幹を交差させる形式も、同じく随所に常套的に用いられている。一番目の木の根元では、二股に分かれた幹の一方が枯れて短く残っているが、このような描写も、「黒柿蘇芳染金銀山水絵箱」や、「檜和琴」(正倉院)の磯飾玳瑁絵「山水走獣図」、「葡萄唐草文染韋」(東大寺挿図12)などにしばしば見え、やはり当代に普及した型に従っていると認められる。


[樹上の鳥]
 

三番目の枯木の頂には、尾の長い鳥が止まる。なお、一番目の木の短く枯れた幹の先端部も、同種の鳥が止まって振り返る形かと見えることがあるが、明確ではない。樹上に止まる鳥は、「金銀平文琴」(挿図8)や、「鳥毛立女屏風」(正倉院)の第五扇、「鸚鵡臈纈屏風」(同)の細部などにも見られ、さらには前代の「玉虫厨子」(法隆寺)の「施身聞偈図」も思い出される。花鳥画の一形式として古くから慣用されてきたものであろう。


[草花]
 

古木群の周辺には、草花も表わされている。細長い葉が対生した茎の上の三つに分かれた花茎に菊のような花を付けたものと、広い葉が対生した上に花を一つ付けたものがある。いずれも植物名を特定し難い観念的な描写であり、「漆胡瓶」の平脱文様に最も華やかな例を見るのをはじめとして、「金銀平文琴」(挿図8)など、正倉院宝物のいたるところに多様に変化しながら表わされている多くの草花と同列のものといえよう。


[馬]
 

古木群の下の水辺と思しいあたりの、両端に寄った位置に、獣が各二頭一組で内向きに表わされている。外側の一頭は頭を上げ前脚も上げて歩む姿であり、その前のもう一頭は頭を下げて伸ばし草を食むような姿勢である。長い首、尻の太った胴、長い尾から、馬とみなされ、脚部が短く途切れるような描写も、脚をほとんど描かない「麻布山水図」の馬に通じるところがある。それらがまとう雰囲気も「麻布山水図」の馬と似ており、自然の長閑さを表わす景物といったところであろう。


 

なお、これらの馬が、見落とされそうなくらいに、周辺の諸物に比べてかなり小さく表わされていることは特筆される。この図は、上端部から古木群にかけては、おおむね遠小近大の遠近法に従って表わされていると見受けられるけれども、下端部の島は、古木よりも小さく、またその頂部の樹木が、上部の山の張り出し部の樹木と同形式ながら、むしろより小さい点にも窺われる通り、小さめに表わされているとみなされ、図全体が遠近法で統一されているわけではない。したがって、途中の馬の小ささも空間を乱すものではなく、景物の一つとして必要以上に目立たせない配慮にすぎないであろう。これを純粋の絵画でなく工芸品の文様であるがゆえの特徴とはみなさず、後世の大和絵を意識しつつ積極的に理解しようとするならば、明瞭な遠近表現をあえて避け、図全体に平明な空間を作り出すことを志向している、ということになるのではないであろうか。


[鴛鴦]

 馬から下へ岩を隔てた水面に、やはり左右に二羽一組ずつの水禽がいる。上の一羽は、頭部と体部を別色に染め分けられ、後頭部の羽毛の流れや撥ね上がった「銀杏羽」から鴛鴦の雄かと見受けられる。その斜め下の一羽は向きが逆になっており、同様に頭体部を染め分けるけれども、形からは雌を表わすと見られる。鴛鴦は正倉院の鳥文様に頻出する鳥であるが、二羽一組の場合でも形への興味が優先して多くは雄同志となっており、雌雄の組は少ない。絵画的な構成で鴛鴦を表わす例に「山水人物鳥獣背円鏡」(正倉院挿図6)があり、海面に島を組み合わせた風景の中に、怪魚に乗るなどした仙人風の像や鳥獣を配した図であるが、その鴛鴦の中には、鹿のような角や兎のような耳が生えたものも含まれ、人物と同様の超現実性を示しているのが注目される。それに比べるとこの屏風の鴛鴦は、きわめて自然な感じに表現されているといえよう。


[鹿]
 

 〈乙〉の中央部の大きく欠損するあたりの花咲く野には、左右に鹿が二頭ずつ見出される。下の方は内側を向いて、遠くから向き合う形に立ち、一方やや離れた上の方は外側を向いて坐り、四頭ともに角があるように見える。鹿はおそらく正倉院宝物に最も多く表わされた獣であり、「鹿草木夾纈屏風」のように主要素となる場合もあれば、狩猟の対象として小さく扱われる場合もある。本図では、かなり目立つ位置にあるけれども、山水風景中に点景として溶け込んでいる点で、「山水人物鳥獣背円鏡」の山中の鹿などと同様である。



(六)下絵の作者

 

 以上のように、「山水夾纈屏風」の山水の形式は、奈良時代の絵画の代表作を含む、さまざまの作品に多くの共通点を見出すことができる。したがってこの夾纈染の下絵は、当代の山水画に習熟している、一流の技量を備えた絵師によって描かれたと考えて差し支えないであろう。「正倉院文書」の「続修別集」第四十八巻所収の、優れた出来映えを示す鏡背文様下絵「四神図(白虎を欠く)」の筆者が、造石山院所の絵師であった、造東大寺司の番上絵師、上村主楯かとも考えられているのが参考になる(7)



(七)山の名

 

 この屏風の山水が、仏の世界から、唐風俗の背景、日本の特定地まで、様々な意味をもつ山水と基本的に共通の形式で描かれているとすれば、その山水の形だけから何らかの意味を引き出すことは難しいことになる。この屏風が解説される際、上部の山が「須弥山」・「崑崙山」・「蓬莱山」などと名付けられることがよくあるが、根拠は十分に示されていない。そもそもこの屏風は、一扇だけで存在したのではなく、六扇つながれて一畳をなしたものであるのを忘れてはならず、また十二畳もあったのであるから、複数畳が同時に用いられることも多かったと想像される。そのときそれら全体が一つの空間を形成し、一扇だけで見るときよりも一層山の高さは目立たず、横への展開が大きく感じられるであろう。最低でも六の山々が連立するとき、個々の山に名を付けることはできず、単に広大な山水景観というほかないのではないか。



 二、「山水夾纈屏風」と仙人および隠者

(一)仙人像

 

 図の主題を考える上での手掛りとして、いままで触れずにいた要素に眼を向けることにしよう。それは、〈甲〉の図様のうち、谷間から立ち上る湧雲が先端部で分かれて霊芝形になった上に乗っている像である。全図からすればかなり小さくて見にくいため、かつて仏像と言われたこともあるが、熟視すればそうでないことが明らかにわかる。左右に二体ずつおり、技法のせいで若干の不鮮明さは生じているものの、かなり細かい描写が認められ、いずれも共通の形式で表わされていると見られる。特徴をあげるとまず、頭頂に細い立ち上がりがあり、その先端は水平に折れてなびく。また、顔の両脇が張って上に尖っている。体部は単純な鐘状の輪郭をもち、ゆったりした衣をまとっているようであるが、裾はいくつかに割れている。これらの特徴は、中国で成立した仙人像(8)に該当する。すなわち、旗状の髷、尖った耳、羽衣もしくは皮衣を描写するものである(9)。この形式をもつ仙人像は、「密陀絵盆」(正倉院)中の一面「仙人飛鳥図」(挿図7)に、飛雲上に棒状の持物(10)や笙などを手にし、皮衣をまとい天衣をなびかせて坐る姿で描かれており、「金銀絵鏡箱」(正倉院)の「山岳走獣図」に描かれたものも、剥落のため細部が明瞭でないながら同種と思われ、また東大寺二月堂本尊光背表面の線刻画の中には、合掌する立像として見出されるというように、奈良時代に通行していたことがわかる。


 

 その他、「灌仏盤」(東大寺)の線刻文や、「刺繍釈迦説法図」(奈良国立博物館)、また唐・開元二十三年(七三五)の作かとされる「金銀平文琴」(正倉院挿図8)の槽頭部の文様などの中には、皮衣を着けてはいないが、髷などに仙人の特徴を示す像が、飛鳥に乗って表わされている。この一群においては、他の多種類のものと同等に混在したり、図の端に小さく配されたりといったありかたから見て、明らかに主題の中心的要素ではないと言い得るように思われる。前二者は、釈迦の誕生したこの世や、釈迦の浄土という、めでたい仏教的世界を表わすものであり、また二月堂光背の場合も千手観音を圧倒的な中心とする世界であるから、図中に仙人像が含まれてはいても、その空間は決して仙境ではない。〈甲〉における仙人の、図の端近くで小さく目立たないあり方も、それらに類するとみなされはしないであろうか。図中に仙人以外に何か主題の核となりうる像が表わされていなくとも、それを想定して製作されたという考え方があり得るであろう。



(二)仙人と隠者

 「

 金銀平文琴」の槽全面に展開する図の主体が、端に小さく表わされた仙人でなく、それより大きく、図の全体にわたって居並び、奏楽や飲酒や詩作などの遊楽にふける隠者たちであることは、一目瞭然であろう。一般に隠者の像は仙人ほどはっきりした形式をもっていないが、概してゆったりした衣を着け、くつろいだ姿勢で毛皮を敷いて坐り、楽器や酒杯や紙筆などを持つことが多い。むろん空を飛ぶことはなく、あくまでも人間として表わされる。この琴には多くの隠者が細部を様々に変容させて表わされるが、彼らのいる環境は、花咲き鳥舞う過剰な華やかさに彩られてはいるものの、超自然的な世界ではなく、いわばこの世の理想郷に仕立てられている。
 その空間において空飛ぶ仙人は、樹上の鳳凰と並んで異質の要素ながら、構図の中で占める位置や大きさは、諸々の花鳥と同列といって差し支えなく、風景にさりげなく溶け込んでいる。仙人は、理想的な遊楽の場に、すこし霊妙な雰囲気を添える点景として取り入れられているのである。


 

 ここで「密陀絵盆」のうち「水辺草庵図」(挿図9)が連想される。深い自然の中らしい水辺に、籠状の骨組みの上に草を段に葺き頂部で束ねた、きわめて簡素な半球形の庵があり、内部に主の姿は見えないものの、牀だけが据えられて、長閑な生活ぶりを示すが、超人的な要素はなく、隠者の住まいとみなされよう。ところが図中に、水面に有翼の獣が泳ぎ寄り、空には鳳凰が飛来するというように、超自然的な景物が見出されるのは、閑寂な自然の一角を描いたこの図において、むしろ異質であるが、小さく付加的に表わされることにより存在を許され、霊気とでもいうべきものを忍び込ませている。この点は「金銀平文琴」における仙人の位置づけと共通する。まるで隠者の夢想の一齣を描くかのようなこの図も、隠者の棲む脱俗的空間に、仙人と並んで天界に属する、霊獣・霊鳥を点景として組み込む例として注意される。


 

 仙人と隠者の関係を考える上で注意したいことの一つに、皮衣の共有もある。「桑木阮咸」(正倉院)の捍撥絵「樹下囲碁図」の三隠者のうち一人は毛皮を羽織っており、「伯牙弾琴鏡」(東京国立博物館法隆寺献納宝物挿図12)の二人のうち一人が肩に掛けるものも同じと見えるように、隠者像と仙人像に服装の共通が認められる例がある。皮衣もしくは羽衣は、本来飛行を表わす要素であったが、雲や鳥に乗って飛ぶ図像が定着することによって、その性格が見失われたのではないであろうか。『万葉集』の「仙人の形を詠む」と題されかわごろもた歌「とこしへに夏冬行けや裘扇放たず山に住む人」においては、「山に住む人」と定義された仙人にとって、裘(皮衣)の意味は、実用的かつ野趣のある衣服という程度であるように思われ、そこから、
やはり「山に住む人」である隠者や、それを気取る人が身につけるにふさわしい衣服にもなるかと思われる。なお、その歌が頭部の特徴に言及しないのは、異形の髷や尖った耳という異様な形が、親しみをもって見られなかったことを示しているのであろう。仙人という語が、仏教の世界では例えば『因果経』の阿羅邏仙人・迦蘭仙人や『法華経』の阿私仙など、本来の仙人とは異なる意味の山中修行者を指して用いられ、「絵因果経」や後世の法華経見返絵などにおけるそれらの像が、しばしば皮衣を着けるのも思い合わされる。皮衣の共有は、仙人と隠者が相近い、もしくは混同される関係にあることを示すが、その衣の意味は隠者の方に傾斜しているといえよう。



(三)仙人あるいは隠者の交友

 

 ところで、あらためて〈甲〉の仙人を見ると、頭体部の形が正面向きで動きを含まない点で、上掲の他の諸作例の仙人がほとんどすべて飛行形にふさわしい横向きであるのと異なるのは見逃せない。湧き上る雲は、他例のように飛行を示すものであるよりは、山の頂あたりに仙人たちを集める舞台装置となっているように見える。また、同じ根から二つに分かれた雲に乗る二体一組の仙人たちは、髷の先の向きが逆で、それぞれ外側へなびいていることから、頭部が  正面向きでありながらも、顔を見合わせるという要素も取り入れられていると解されるのが注目される。すなわち仙人たちは各孤立しているのではなく、それらの間に交友関係といったものが存在することを、ここに見て取るのは不当ではないであろう。さらに、一図としては四体の仙人が同じ高さに並んでいるところに、集会のなごやかさまで汲み取るのも行き過ぎではないと思われる。このような表現は、仙人の描写としては珍しく(11)、何か周辺の事情を反映しているのではないかと推察される。


 

 『国家珍宝帳』の「菴室草木鶴夾纈屏風」(挿図10)にあたるとみなされているものが、正倉院中倉の夾纈屏風残欠類の中にある。欠失部分が多く、現存の断片三群の間もつながっていないので、全体の構図については言及を控えねばならないが、いま注目したいのは、現状で上端部に貼られている、木陰の草庵部分である。「密陀絵盆」中の「水辺草庵図」の庵と同じ、草葺きの半球状の庵の室内には、向かい合って坐る二像が、裂を二つ折りにして染める手法を活用して表わされており、〈甲〉の仙人に比するとだいぶん大きく、また中軸上にあって目立つことから、図の主題に密接した要素であろうと思われる。像は、冠帽を着け、袖の大きいゆったりした衣をまとっていると見え、隠者とみなされよう。二人共に世離れた、隠者同志の清談の情景とでもいうことになろうか、ともあれここには親密な空気が濃く漂っている。


 

 正倉院の「投壺」に施された線刻文様のうち、頸部中央を巡る図様はきわめて絵画的である。近景にそびえる崖の山と、峰を列ねる遠山とによる、深い奥行きを備えた空間は、既に見た当代の山水構成の基本形にならっているが、ここでは中景が大きく開けて、横への広がりもよく示し、明るくおおらかな空間になっている。頸上部の耳で半ば区切られた一面では、近景の飛鳥がまつわる樹木の下に、寛衣を着け毛皮に坐る二隠者、他面ではやはり樹下に、立って片手を差し出す一隠者とその前に跪く一人物が表わされている。少なくとも前者の寄り添う二人は、親しく交わり山水の趣を満喫する風情を表わしている(12)。なお、この図様が、士大夫の饗宴で用いられた投壺という遊戯具に施された装飾文様であることは、隠者というものに対する当時の意識を示すものかと思われて興味深い(13)


 

 「葡萄唐草文染韋」(東大寺挿図11)の一部分には、山や樹木などからなる自然景の中に、酒器を傍らに置き琴を奏するものと、それに向かい膝を抱えて坐るものという、二人の隠者が表わされている。間に樹木を挟みやや離れた構図からは、二人の直接的な関係を見て取るのを控えねばならないかとも思われるが、二人が同じ環境に浸り心を通わせていることは否めまい。
 法隆寺献納宝物の「伯牙弾琴鏡」(挿図12)には、一般にその名で呼ばれる鏡に弾琴の一人物が表わされるのと異なり、琴らしいものを膝に置く者と、酒器らしいものを前にする者との、二人の姿が表わされている。彼らの豊かに重ねた寛衣や、立派な造りの建築や竹叢に巡らす垣などから、贅をこらした山亭での遊楽のさまと見受けられ、俗世と縁を絶った本当の隠棲よりは、むしろ隠者をきどった暫時の遊楽の体というべきであろう。上掲の三例の様な理想的もし
くは空想的な隠遁の描写とは若干性格を異にし、この種の鏡を使用するような貴族の、現実の趣味的生活と密接な関係にある描写と目されるが、その志向するものは変わらない。

 以上の諸例や「金銀平文琴」など、交友する隠者たちを表わす図は、「山水夾纈屏風」に仙人を複数、しかも二人ずつ組にした形で表わしていることの背景となりえよう。すなわち、仙人像における交友の要素は、本来の超人的な存在から、人間的感情を備えた親近感のある存在へと、意味の変化を生じた、さらにいえば仙界から人間界の方へと引き戻された仙人が、俗世から離脱した隠者と接近し、融和することを示すものと考えられる。



 三、山水の意味

 「山水」という語が奈良時代にどのような意識を伴って用いられていたかを知るための手掛りの一つに、天平勝宝三年(七五一)成立の漢詩集『懐風藻』がある。その序において、「余(編者)薄官(低位の官)の餘間(余暇)を以ちて、心を文囿(文芸の園)に遊ばす。古人のみ遺跡(遺文)を閲、風月の舊遊を想ふ」(14)などと記す通り、政治や宗教と対比される、官人の私的生活における感懐、内面の心情をここから汲み取ることができるが、「山水」の語はその鍵の一つになっているように思われる。

 成語の「山水」のほかにも「山」・「水」を分けて記す例や、『論語』の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」に基き「仁智」と言い換えた例、また類語の「山川」まで含めると、約二十作があげられる。


 そのうち半分は吉野に取材するもので、柘枝伝説や漆姫伝説という、流布していた日本の仙人説話の舞台である吉野は、現実の仙境とみなされ、あこがれられて、都からほど遠からぬその地に天皇や貴族たちはしばしば訪れた(15)。そこで人々は山水を愛で、酒を酌み、詩を賦し合って、歓楽の一時を過ごした。詩の内容はといえば、常套語を操るに過ぎず、浅薄な神仙趣味の産物と言ってしまってもよいものであろう。深遠な思想を述べるなどという場ではなく、遊楽の座興であるから、それで一向に差し支えなかったのである。そこでは山水も、吉野の自然を純粋に観照するのでなく、渡来の詩文の幕を透して見られ、三神山や桃源など知識として共有される仙境になぞらえることにおわる。この点は吉野に限らず、天子を仙人に比して禁園を三神山の一つ瀛洲に譬えた例もある。それらの名称が用いられるとき、むろん異界としての仙境そのものが対象になってはおらず、眼前の山水を観賞するために援用される修飾語として扱われているだけである。そこに配される仙人の影も、人間より上位にあって畏敬の対象となる本来の存在ではなく、気の利いた挿話の登場人物程度の軽いものにすぎない様に思われる。

 『懐風藻』における「山水」にまつわる意味として、もう一種あげられるのは隠遁、すなわち世俗からの離脱である。いずことも言われぬ山中あるいは山齋(山荘)での詩にこのような閑居の好尚がうかがえるほか、長屋王邸での宴において詠まれた一群の詩もそれに類し、長屋王邸の庭園を「山水」と呼んで賞している。そこに遊ぶ者は「大隠」すなわち市中に生活しながら精神は脱俗する真の隠者であるから、別に「仙場」(仙人の住まい)を求める必要がないと、都会の中の庭園であることをはっきり意識し、仙境と区別しているものもある。宴をかの竹林の七賢人の清遊に比するのも、その竹林が暫しの脱俗的な憩いの場であったのを理解してのことと思われる。

 ここで想起されるのは、平城京二条大路から出土した折敷の底板に描かれた墨画、「庭園図」(16)(奈良文化財研究所挿図13)である。廃材に乱雑な習字と共に略画された断片的描写であり、気軽な落書かあるいは本画の習作か、性格は不明であるが、裏面の人物像などと同様、専門の画師の手になるかと見受けられる(17)。湾曲し大きい花文様があるという異色の塀と門に囲まれた中の、輪郭が曲線で島のある池や複数の建物が配された空間は、平城宮東院庭園や平城京左京三条二坊宮跡庭園のような、宴遊のための施設かと思われる。その内側にまた湾曲した塀と門に囲まれた一廓があり、内部一杯に岩山がそそり立っている(山の上部は板の縁で切れる)。山は、縦に走る襞や張り付いたような岩塊からなり、硬い感じの肥痩をもった線で量感豊かに描かれている。山中から瀧が流れ出し、岩の間を幾度か段をなしては泡立ち、落ちて行く描写は〈甲〉に近い。この山もまた「山水夾纈屏風」と同じ形式の枠内で描かれていると見てよいであろう。その山が自然か人工かはともかく、建造物で囲まれることにより庭園の扱いとなっており、近付きがたい異境ではなく、身近に親しみうる空間として表わされていることが注目される。



 改めて『懐風藻』の吉野の詩に戻ってみると、そこにも「冠冕の情を忘る(官人としての煩わしさから開放される)」とか、「超然俗塵少なし」、「物外(俗世界の外)囂塵(俗塵)に遠く、山中幽隠(隠遁、隠したし者)に親ぶ」などと脱俗を賞する語が、仙人にあこがれる語と並んで見出され、塵外と仙境との親縁性を示している。そこにおいて、隠者という、仙人よりも人間的で自身をなぞらえやすい存在は、人々の心に深く場を占めていたようである。その身を置く空間として山水は、畏怖感や神秘性よりも、親しみに満ちたものであったろう。


 ところで、正倉院に十数枚伝わる「密陀絵盆」は、形と大きさや裏面の文様がほぼ同一であるところから、本来一括の作品と思われるが、表面の図様は、すでに挙げたほかにも「山水龍図」・「鳳凰図」・「孔雀図」・「草花図」・「高士弾琴図」・「高士曵杖図」等々さまざまで、一見統一がないように見える。しかし、もし一つの作品であるならば、全体を統べる構想が存したであろう。


 個々の図の中には超自然的な要素を主にしたものがあっても、食物の容れものかと推定される器物の装飾画の主題としては、神仙思想などという重いものを想定するのはおそらく適当でない。題材の多くをこれと共通して含む「金銀平文琴」を参考にすれば、題材のうち高士(隠者)を中心に据えた見方として、霊妙あるいは華麗な諸景物に彩られた山水中での理想的隠棲、という主題が思い浮かぶのではないであろうか。つまりこの「密陀絵盆」は、隠者を気取る貴族たちの遊宴の場にでも用いられた器ではなかったろうかと思われる。さらに想像をたくましくすることを許されるならば、その場の周囲には「山水夾纈屏風」が立てまわされていたとしてもおかしくないであろう。



 おわりに

 

「山水夾纈屏風」を見ながら、いささか脱線が多すぎた感があるかもしれないが、直接的な表現ではないゆえに、単独に見ていては気付きにくい重要な内容を、周辺の諸作品を巻き込むことによって浮かび上がらせる試みとして、諒解されたい。


 

最後にもう一度、この屏風が夾纈染という工芸技法によることに改めて注意して見直してみよう。夾纈染の作品は総じて、色に厚みがないという染織一般の性格に加え、染めむらが多い様に見受けられ、また白抜きによるという特徴的な線は、物に明確な輪郭を与えるよりもむしろ影のようなおぼろさをまとわせている。その様な技法による作品は、顔料で彩色し墨で描き起こされる絵画に比べると、存在感が弱いことは否めない。しかし、形象の不明瞭さをむしろ肯定的にとらえ、表現のために選ばれた技法という見方もあり得よう。特に峨々たる山などが、厳しく対峙する印象を与えかねない唐風の山水に、この技法は薄い幕をかけて柔らげ、親しみやすくする効果が認められるのではないであろうか。全体に平均的に構図され、柔らか味のある色と線で形作られ、温雅な風情に包まれた諸物からなる、平明に展開する山水風景は、六扇で一畳の屏風をなし、さらに何畳も連ねられては横に大きく広がり、人をやさしく包み込むであろう。重厚な表現によって、深く見入ることへと人を誘う山水図とは異なる、茫漠とした空間醸成を目的とする屏風の山水図に、夾纈という技法が生かされているといえよう。そして、これは工芸という世界に限られたことではなく、絵画に通じる問題として、奈良時代の人々が山水画に求めたものの一端を、ここに見ることができるようにも思われるのである。



【注】
  1. 本稿は、平成十三年十一月四日に「正倉院展」にちなんで奈良国立博物館で行われた同題の公開講座に基き、整理し直したものである。

  2. 秋山光和「法華堂根本曼陀羅の構成と表現」『美術研究』第三二三号一九八三

  3. 秋山光和「唐代敦煌壁画にあらわれた山水表現」『中国石窟 敦煌莫高窟』第五巻 一九八二勝木言一郎「敦煌壁画の観経変日想観図にみる山水表現とその意味について」『筑波大学芸術学研究誌藝叢』第十一号 一九九五。日想観図にみる山水表現の背景に、中国の隠遁思想を指摘されるのは興味深いが、作品に即した考察が必要であろう。

  4. 「密陀絵盆」の各図の画題は、『正倉院の絵画』(正倉院事務所編集 昭和四十三年)などに一 部付されたものがあるが、ここではそれらにならいつつ一部仮称に変えたものもある。

  5. 水景に関しては、拙稿「麻布山水図について」(『正倉院年報』第十七号 一九九五)を参照さ れ たい。

  6. 林温『飛天と仙人日本の美術第三三〇号』 一九九三

  7. 『正倉院の絵画』図版解説一五六「鏡背下絵(古文書紙背)」秋山光和・柳澤孝

  8. 小杉一雄 『奈良美術の系譜』 一九九三林温 注5論文

  9. 林温氏(注5論文)は、本図の像に頭部の二特徴を指摘して仙人としている。

  10. 節と称され、皇帝の使者の標で、羽人(仙人)の場合は天帝の使者であることを示すという。曽 布川寛 『崑崙山への昇仙』 一九八一。


  11. 飛行形の仙人の中から類例を挙げるとすれば、「刺繍釈迦説法図」において、左上に列なって 飛ぶ三体の仙人のうち前の一人が振り向いている点に、感情的なつながりが汲み取れるであ ろうか。
  12. 後者の二人は、「麻布山水図」 の一部に描かれた、草庵の傍で対面する主と訪問者らしい二人に通じる点があり、隠者とそれに教えを受ける者を表わすかと思われる。

  13. 正倉院の「桑木阮咸」の捍撥絵「樹下囲碁図」には、四芸の一として「坐隠」の称もある(青木正兒「琴棊書画」 『青木正兒全集』 第七巻一九七〇)囲碁に興じる隠者たちが表わされるが、その傍にも投壺が描き込まれているのは、隠者と投壺との直接的関係を示すかもしれず、この点についてはなお考えねばならない。

  14. 『日本古典文学大系69 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』 (一九六四)による読み下しに、適宜注を付ける。以下引用は同様。

  15. 和田萃 「吉野と神仙思想」(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰下』 一九九五)和田氏は、吉野への行幸を、天皇としての祭祀のためと解し、吉野にまつわる「神仙思想」を、仏教とも結びつけて、真面目なものとする観点で論じている。

  16. 奈良国立文化財研究所が発掘時に「楼閣山水之図」と命名し、以後踏襲されているが、自然景中に楼閣を配する「楼閣山水図」との相違を明確にするため、ここでは仮に別の名称を付し た。
    挿図13写真提供、奈良文化財研究所。

  17. 習字の中に見出される「阿刀酒王」は、天平十一年から十七年まで写経所の校生として知られる人物であることから、この板絵の描かれた環境が推察できる。



(なかしま ひろし 当館美術室長)


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