『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第4号
奈良国立博物館研究紀要
平成14年3月31日発行


ヴェネツィア東洋美術館蔵木造十二神将立像(二躯)

岩田 茂樹



 イタリア・ヴェネツィアの大運河(カナル・グランデ)の水面に瀟洒な姿を映すカ・ペーザロは、ヴェネツィア有数の貴族ペーザロ家の邸として建てられた十八世紀にさかのぼる石造建築である(1)。今その四階部分のフロアに国立東洋美術館が設置されている。筆者は平成十三年七月に同館を訪問する機会を得たが、その際、思いもかけず、鎌倉時代前期にさかのぼる制作とみられる十二神将像の優作に出会うことができた。残念ながら十二躯のうち二躯のみであり、のこり十躯の存在の有無は不明だが、その優れた作行を鑑み、ここに報告するとともに、残り十躯の今後の発見を期待したい(2)



 この二躯の像の原所在地はわからないが、同館の東洋美術コレクションは、バルディ公エンリコ・ディ・ボルボーネが一八八七年九月から一八八九年十二月にかけて行った世界一周旅行の際に収集した作品からなっている。彼の日本滞在は一八八九年二月から同年十一月までの約九ヶ月であった。その間、九州から北海道まで精力的に各地を回っているが、この像をどこで取得したかについての記録はのこされていない。ただ、その作の優秀さから中央での造立が推測され、その意味ではボルボーネ公爵が二度にわたって京都を訪れていることは示唆的にも思えるが、入手した場所と原所在地が必ずしも一致するともいえないから、それ以上の推定は困難である(3)



  一 A(尊名未詳)像(口絵6・8・図1~7)


 像高(髻頂)にして五〇cm弱(4)、桧材を用いた寄木造の像で、内刳を施し、玉眼を嵌入している


  [形状]

 髻を表す。髻はその後方部に焔髪風に三つの髪束を立ち上げ、前方部は単髻風に三つの髪束を結い、そのすべてを元結紐一本でしばる。髪筋は彫刻せず、截金線で表すが、この截金線は五~七本の細線の両側を各一本の太線ではさみ、まばらに髪を束ねる表現を加味する。両耳前から焔髪(髪束各三本)が天冠台を越えて立ち上がる。髻前方の地髪上に鉄釘の痕跡があり、獣頭を表していた可能性がある。

 天冠は紐一条の上に幅広の三頭形の花弁を連ね、正面でひときわ大きな花弁(両端が下向きに巻き込む)を立ち上がらせる。その上方に、頂部に火焔宝珠を表した金銅板製の飾りをつける。また天冠は焔髪の後ろで小さく、後頭部の中央で大きく、V字状に屈曲する。冠躯(現状は左のみ)をつける。

 眼は、眼頭(左のみ)・眼尻(両方)に赤色を差し、瞳は中央を黒色として、その回りを赤褐色と茶がかった紫色の二色でくくる。

 耳は外耳輪後方部が少し湾曲する。

 首回りに領巾状の着衣をみせる。襟甲をつける。搾袖衣および鰭袖衣をまとい、膝あたりまでの短い裙と脛までの袴をはき、脚絆をつける。肩から背・腹・腰をおおう下甲をつけ、左右一連の胸甲(左右各一ケ所を入隅とする)、腰回りの表甲、脛当をつける。胸甲および下甲を紐で締め、腹帯を巻き、これに天衣をからませる。沓をはく。表甲は左を外(右袵)にして正面中央で合わせる。腹部中央の位置の甲の縁に、上下に各三弁の花先形飾りをつけた菊座を表す。表甲の下縁に二十三個(現存二個)の鈴(金銅製)を下げる。

 左手は臂を側方に張りつつ屈して掌を胸側に向け、第一指をわずかに曲げ、他指を伸ばす。右手は垂下させ(ごくわずかに臂で前方に屈する)、手首で内側に曲げ、第一・三・四指を強く、第二・五指をややゆるく捻じて持物をとる勢をしめす。

 右肩を前に出し、左肩は後ろに引き、これに合わせて腰を左にひねり、右足をやや前に踏み出して、岩座上に立つ。眉根を寄せて怒りの表情をみせ、首を少し左方に倒しつつ、右斜め前方に顔を向け(視線は左目が低い)、わずかに口を開いて上歯列と舌をのぞかせる。

 岩座は左方が高く、右方が低い。


  [彩色・文様]

 表面は錆下地・黒漆塗(飴色を呈する)の上に白下地をほどこし、さらに彩色ないし漆箔押としている。

 髪は赤紫色で、毛筋を截金で表し、赤色(朱)の紐で髻の基部をくくる。天冠台は漆箔。

 肉身は緑青彩を施し、さらに薄く金泥を塗るとみられる。

 首回りの領巾状の着衣の表は黄色ないし淡紅色の地色とし、金泥で植物文様を描き、間隙を白点で埋める。裏は緑青彩。

 襟甲は金泥塗。

 下甲は緑青彩を施し、金泥にて唐草(宝相華唐草か)文様を描く。甲締具は、正面の紐は緑青地に白で矢筈文を描き、これに背面からつづく紐は赤色(朱)、同じくこれに連結するベルトは赤色(朱)で端金具は漆箔。

 胸甲は朱地に金泥・丹・白緑にて宝相華唐草を描き、中央の猪目状の内区は緑青彩、縁は漆箔。

 表甲は漆箔を施し、茶がかった紫色を呈する顔料および群青(カ)で小札状に全体を区画し、それぞれの内部に萼と半月形の上にのる宝珠を各一個表す。

 腹帯は黄色地かと思われ、朱線で描いた菱を横に一列に並べ、菱の上下の対角にやはり朱で縦線を入れる。結果としてできる三角形の連続文を、①群青の内区に緑青の縁、②朱の内区に丹の縁、の交互の繰り返しとする。

 鰭袖衣は地色を茶色とし、宝相華文を散らす。宝相華は金泥で描き、丹・緑青を差す。 袖は表・裏ともに緑青彩、表のみ放射状に截金線をおき、房を表す。

 搾袖衣の表は朱地に金泥で描いた団花文を散らす。その縁は緑青地とし、金泥で雲気唐草を描く。また縁はその両側を截金線一条で区画し、最外縁部には朱を塗り、区画の内側は截金線に沿って二条の白緑線を沿わせる。搾袖衣の裏の縁は緑青彩か。

 裙は搾袖衣に同じ(5)

 袴の表は白地に朱で縦縞を入れ、縞の間にやはり朱で唐草を描き、唐草の翻転部の先端に金泥・群青で半截花文を描く。縁は緑青地に金泥で花(宝相華か)唐草を描く。裏は朱。

 脚絆は黄味がかった白の地に、群青(カ)で斜格子と、格子の内部に一区毎に九〇度方向を違えた縞を描く。

 脛当は漆箔を施した上に、茶味がかった紫色の顔料で鱗状の文様(6)を描き、鱗一枚毎に内部に群青を点ずる。

 沓は白地かと思われ、朱・緑青・白緑・群青等で描いた大ぶりの花先形を足の甲に表し、間隙を朱の点で埋める。

 岩座は緑青で彩る。



  [構造]

 面部および後頭部上半を除き、頭部と体幹部とは同材であるように見える。いずれも桧の竪木二材を左右に寄せており、その矧目は、正面では顎下から体部中央を通って股間へ至り、体背面では右よりの部位を通るが、足にはかかっていない。頭・体は割り矧ぐかとみられる。顔の中央部(額・眉・眼・鼻・口・顎を含む)に別材を矧ぐ。玉眼を嵌入する。

 次に、両耳より後ろの後頭部(髻の大半を含む)上半は別材製である。本像においてこの仕様が採用される理由についてはのちに再度ふれたいが、下方ではちょうど髪が横にくびれる線で水平に鋸を入れて材を切り離しており、何らかの工作をおこなった後、ここに別材を矧ぎつけたものとみられる。

 左手は上膊半ばで鰭袖の上縁に沿って矧ぎ、手首で矧ぐ(肩の矧ぎはないもよう)。鰭袖の左端部および臂の左外側部の一部に別材を矧ぐ。右手は肩・手首で矧ぐ。

 両脚は、大腿部の付け根付近の裙と袴との境にて矧ぐ(割り矧ぎか)。

 その他の別材矧ぎ付け部は、髻の前端部・両腰から垂下する天衣遊離部・右沓先端の一部等である。

 岩座はおおむね桧の横一材製だが、左端部(沓先から前の部位)に上下に二材を矧ぎ足している。




  [保存状態]

 

獣頭(十二支標識)、右冠、持物、腰甲下縁部の金銅製鈴二十三個のうち二十一個、以上欠失。岩座の下に框座があったと思われるが、これも失われている。

 岩座底部にフェルト状の物が付着している。

 現状では像に光背を取り付けた痕跡はない。

 髻前端部の小材、左冠、左手第一・五指の付け根から先すべて、両腰脇から垂下する天衣遊離部、右の沓先の一部、以上後補。
 
 本像は一九九一年から九二年にかけて、当地にて剥落留めを中心とした保存修理が行われており(7)、概して保存状態は良好である。



  [備考]

 

本像はいま足ホゾを岩座から抜くことができず、この部位の銘記の有無は確認できない。またX線透過撮影も実施されておらず、納入品の有無も不明である。

 下甲の上腹部のちょうど胸甲下縁に接する位置、および左胸甲上に、各一個の釘孔があるが、用途は不明。




 二 B(寅神)像 (口絵7・9・図8~14)

 A像同様、桧材を用いた寄木造の像。像高は四七・六cm(8)。内刳し、玉眼をはめる点も同じ。


  [形状]

 髻を表す。この髻は上の一本の髪束が像の右方向へ、下の三~四本の髪束は左方に流れて交差し合う、動きのある珍しい形態である。髪筋をすべて截金線で表現する点はA像と同じだが、截金線の太さは一定で、したがってまばらに髪を束ねる表現はない。天冠上地髪の左右からも太い髪束が各一本立ち上がり、上端部が前向きに旋転する。両耳前から焔髪(髪束各三本)が天冠を越えてゆらめきつつ立ち上がる。天冠上地髪部正面に獣頭(寅)を表す。

 天冠は紐・連珠・紐の帯とし、正面中央に菊座を中心として萼付きの三弁花先形のついた飾りを、後頭部および両耳後方の計三ヶ所には正面中央のそれを簡略化した飾りを表す。またその正面中央部を除き、飾りのつく三ヶ所の帯は下向きにV字状に屈曲する。天冠の上、髻の前に金銅製の飾りを鋲留めする。これは全体として雲気を表し、中央上方は如意頭状とし、下方部左右に翻転する雲頭を表す。冠繒は現存しないが、両耳上の天冠部に釘孔各一個が認められる。

 眼は、眼頭(右のみ)・眼尻(両方)に赤色を差し、瞳は中央を黒色として、これを黒紫色を呈する色でくくる。

 耳は外耳輪後方部が湾曲する。

 搾袖衣をつけ、その上に右手のみ鰭袖を表す衣をつける。右手は搾袖衣の下層に籠手をつけ、左手は外層に籠手を出し、臂釧(紐二条の上に列弁)を表す。膝までで下層にたくしこまれる袴をつけ、後方へ長く垂らす裙をつける。脚絆をつける。

 襟甲・肩甲(左のみ確認できる)をつける。下甲をつけ、正面中央で右を外にして合わせる。その上に肩から背・両腰および臀部をおおう表甲をつける。表甲の下縁部に十二個の鈴を下げる。左・右が一連になった胸甲と、左・右を分けた背甲をつけ、これをベルト状のもので吊る。肩上のベルトに、左右各一個の大ぶりの花飾り(菊座の四方に三弁花先形を寄せる)を表す。腹部に前楯(上・下が三頭形)をつけ、腰背部にも類同の防具(上・下が三頭形だが、前楯とは形態が異なる)をつける。腹帯を巻く。腹帯は二重に腹部をめぐり、背面では上下に分かれ、上部で腰背の防具を締め、下部でこの防具の中央にある円花形の飾りの中央をくぐり、防具を固定している。また前楯は腹帯および両脇腹で腹帯にからむ二本の紐で締める。腰背の防具を締める上部の腹帯に左右各一個の鐶をつけ、ここから円形の飾り(9)を下げる。脛当をつける。

 左手を下方に突き下げ、五指を握り、持物(欠失)をとる勢を表す。右手は臂を横に張って強く曲げ、第四・五指を捻じ、他の三指を伸ばしつつ顎の下にかまえる。

 上半身を大きく左にひねり、顔を左方に向ける。口をへの字に結び、左眼は下、右眼は上に視線を向ける。左足を踏みだして軸足とし、右足は膝を曲げつつ後ろへ引き、爪先立ちする。岩座はA像と異なり、稜角が立つ。




  [彩色・文様]

 素地に錆地を施し、黒漆塗、さらに白下地に彩色もしくは漆箔をほどこす点、A像と軌を一にする。

 髪・天冠台はA像に同じ。

 肉身部は飴色を呈する黒漆の上に緑青彩を施し、さらに表面には金泥を塗るとみられる点も同様である。

 襟甲は朱地、丹で霊芝風の文様を描き、輪郭を金泥でくくる。

 胸甲は金泥地、群青(カ)と緑青で宝相華唐草を描く。

 背甲は緑青地、赤褐色の顔料で亀甲文を描き、亀甲の枠内に金泥で花文を描く。

 下甲は緑青地、金泥で密に菱形の団花文を描き、縁は上下を丹・朱および群青・緑青で塗り分け、その組み合わせを交互に配する矢筈文風の連続文とする。

 表甲は上部は不詳だが、腹帯より下方は截金で金鎖甲を表す。ただしその下層に白地に群青(カ)で二重斜格子の別の文様帯が認められる。

 前楯は緑青地に丹の彫塗りで蓮華唐草ないし宝相華唐草を描く(花には朱を点じる)。 

 腰背部の防具は朱地、丹で花唐草を描き、輪郭を金泥でくくる。ただし全体の縁と中央の円花形の周縁部は漆箔。

 腹帯はA像に同じか。

 天衣遊離部は表裏ともに緑青彩。

 搾袖衣は朱地、丹で菱形の団花文を描き、輪郭を金泥でとる。

 鰭袖の表は緑青地に金泥を塗り、裏は緑青地に肌色を呈する顔料で花文を描く。

 臂釧と籠手は漆箔。 

 裙の表は朱地、丹で団花文を描いて朱・白緑をさし、輪郭を金泥でとる。また団花文の間隙にやはり丹で雲気文を描き金泥で輪郭をとる。

 裙の裏は不詳だが、赤褐色の地に朱で何かの文様を描く。

 袴は緑青と群青で彩るとみられ、金泥による点描があるが不詳。

 脚絆は丹地に朱線で七宝つなぎ文を描き、円の重なり部分には群青と緑青を塗る。

 脛当は漆箔だが、一部に群青ないし墨で豹文風に点描を施している。

 沓は白地か。墨ないし群青で文様(花文カ)を描く。

 岩座は緑青彩、所々に白色顔料で苔を描く。




  [構造]

 体部は上半身と下半身とを別材から造っており、その境目は前楯上端部とする。上半身は、頭部の中心部と通して前後二材矧ぎとするとみられる。その矧目は左耳前.左肩後方および右耳後ろ.右肩上方を通る。

 頭・体を割り矧ぐ。面部(額・眉・眼・鼻・口・顎を含む)を矧ぎ(割り矧ぎか寄木か不明)、後頭部の上半(髻を含む)に別材を矧ぐ。天冠の上下に表された四つの焔髪はいずれも別材製。

 体部下半身は、体正面では中央、体背面では左寄りの部位を通る線にて、左右に二材を寄せる。左足は袴と下甲との境界にて、右足は袴下端の膝部にて割り矧ぐ。

 左手は肩・上膊中程(臂釧の部位)、手首で矧ぐ。右手は肩・上膊半ば(鰭袖の付け根)・手首で矧ぐ。

 左手指先すべて、腰以下の天衣遊離部、背面腰部両脇に下げる円形の飾りおよびその取り付け部の鐶、以上別材製。

 岩座は中央部を横木一材製とし、後方と左方に各一材を矧ぎ足す。




  [保存状態]

 持物、左方の天衣遊離部、表甲下縁取り付けの金銅製鈴十二個のうち十個、框座、以上欠失。

 岩座底部にフェルト状の物が付着し、また膠付けした板材を剥離した痕跡がある。

 左天冠下および右天冠上の焔髪、髻後方部の小材、頭頂の獣頭(寅)、右手第一指の付け根から先すべて、右鰭袖外側部の小材、背面腰部から下げる円形飾りのうち左方分の鐶と紐、および右方分のすべて、以上後補。

 本像もA像と同時期に保存修理が行われている。



  [備考]

 A像同様、台座から足ホゾを抜くことができず、この部分の銘記の有無は確認できない。同じく納入品の有無も不明。

 背面襟際部に用途不明の釘一本が認められる。

 下甲の正面中央の合わせ目の下縁部に後補材が矧がれており、ここに「弓」の墨書がある。持物に関わるものとみられる。




 三 考察


  [形姿]
 

 A像は垂下させた右手に明らかに何か棒状の持物を握っていたとみられる。胸前で掌を体の側に向ける左手の持物の有無は判断しがたい。

 十二神将像の作例中に本像と同じ手のかまえをみせるものをさがしたところ、彫像・画像・白描図像のいずれをとっても、意外にほとんど見あたらない。そのなかで、奈良・興福寺の板彫十二神将像中の毘羯羅像(図15)が、例外的に本像と一致する。すなわち興福寺毘羯羅像は、左手は若干指を曲げつつも掌を体の側に向け、右手は垂下させて雲頭形の持物を握っている (10)。口を開くか閉じるかのちがいはあるが、腰を左にひねって右脚を伸ばし、顔を右斜め下方に向ける点も同じである。

 次にB像は下甲中央下縁部の後補材に「弓」の墨書があるとおり、突き下げた左手に弓を握り、胸前の右手はこれに矢をつがえようとするところであろう。A像と異なって、この形式は醍醐寺本薬師十二神将図像卷下の未神像をはじめ、彫像・画像を問わず多くの作例を見いだすことができる。ただし、本像がそれらと大きく相違するのは、右脚を後ろに引き、一方の左脚は前に踏み出して、横から見ると両脚を大きく交差させて表していることで、動きの表現に意をはらって制作されることの多い十二神将像のなかにあっても、まことに劇的なポーズをしめしている。そして興味深いことに、この点で共通するのがやはり興福寺板彫十二神将像中の波夷羅像(図16)である。
 
 興福寺板彫十二神将像は周知のように、玄朝様にならって制作された可能性が指摘されるものである(11)。興福寺板彫像の場合、形式面のみならず、波夷羅像の顔立ちや摩虎羅像のポーズにうかがえるユーモラスな気分の表出にも玄朝様の影響が看取されるのだが、ヴェネツィア像(12)にそのような特徴は見いだしがたい。

 したがってかりにヴェネツィア像に玄朝様の影響を認めるとしても、あくまでそれは持物や身のかまえといった形式面にかぎられそうである。しかしさらに注意して見つめるなら、B像の目が左右で上下別方向に視線を向けていることに気づく。これを上下の敵いずれにも身がまえた戦闘モードの発現とみることも可能だろうが、ふくらませた鼻翼、「へ」の字形に結んで力んだ口もとと相まって一種の諧謔味があらわれているようにも思われる。あるいはこの点にこの作者なりの玄朝様の踏襲を読みとるべきなのかもしれない。

 もうひとつの考え方として、直接的に興福寺板彫十二神将像にヒントを得た造像である可能性も検討にあたいする。いまただちに結論は出しがたいが、いずれにせよ、南都の図像的伝統と無関係ではないことが推測されることこそ重要だろう。




  [構造・技法の特徴]

 B像において、上半身と下半身を別材を積み上げて造っていることは上述のとおりである。本像のように大きな動きをしめす像の場合、合理的な構造といえるが、ただちに思い起こされるのは奈良・興福寺西金堂旧在の金剛力士立像であろう。この像が腹部で上半身の材と下半身の材とを上下に積み重ねるようにして造られていることはよく知られている(13)。この金剛力士像の作者が寺伝にいう春日定慶であるかどうかはさておき、鎌倉前期の慶派仏師の作であることに異論はなかろう。また興福寺東金堂十二神将像中のいくつかの像にも同工の構造が認められる(14)。東金堂像は波夷羅像の足柄銘から建永二年(一二〇七)頃の完成と考えられ、その作者については諸説あるものの、慶派との関わりのある仏師であったとみることでは一致する(15)。これらとの技法的共通は、ヴェネツィア像の作者の出自を考える際に示唆的であろう。

 次に、二躯ともに後頭部の上半部に別材を矧ぎつけている点にも留意したい。類似の技法を採用する作例として、奈良・円成寺大日如来坐像(運慶作)、京都・三宝院弥勒菩薩坐像(快慶作)、および東京国立博物館慈恩大師坐像の存在が指摘されている(16)。前二者について、いずれも造像時における玉眼修正のためと考えた田邉三郎助氏(17)に対し、東京国立博物館像が玉眼を嵌入しない像であることから、山本勉氏は納入品奉籠のための工作の可能性が強いとされた(18)

 ヴェネツィア像の場合、問題の後頭部上半は二躯とも明らかに別材を矧ぎつけており、同材からの割り矧ぎではない。しかし彩色・截金は当初のものなので、ここに別材を矧ぐのは最初からの計画と考えざるをえない。なぜ割り矧ぎではなく別材矧ぎつけとするのかよくわからないが、二躯とも同じ仕様である以上、この工作は最初から予定されていたとみるべきだろう。その意味では、ヴェネツィア像に関していえば玉眼修正のための工作とは考えにくい。また何よりも、二躯ともに面部を矧いでいるのであり、もし玉眼の修正を必要としたとすれば、この部位から行う方がはるかに簡単である。いまのところヴェネツィア像二躯ともに頭部内の納入品の有無は確認されていないが、この問題の解明のためにも、近い将来にX線透過撮影がおこなわれることを期待したい。

 ともあれ、慶派仏師のなかでも最も影響力の大きかったであろう運慶および快慶の作品に同種の工作が確認できる点は、これまたヴェネツィア像の制作者を推定するに際して示唆的である。また東京国立博物館像の来歴は不詳ながら(19)、法相宗祖慈恩大師という像主から推して、南都伝来のものではないかとの想像もなされる。この像の制作期は十一世紀にさかのぼると考えられるから(20)、ヴェネツィア像との間に直接的に技法の授受関係があったとは想定しがたいにせよ、南都の平安彫刻の技法を慶派の仏師が踏襲した可能性がないとはいいきれない。

 第三に、本像の肉身部は上述のとおり緑青とみられる顔料の上に金泥を塗っていることが確認できる。彩色の上に金泥塗りを施す作例としては、近年山本勉氏によって報告された建長二年(一二五〇)から同五年(一二五三)の間に仏師快円の造った奈良・興福寺弥勒菩薩立像の存在が知られる(21)。この像では裙や腰布の表裏、腰帯の裏に、いずれも白緑を塗った上に金泥を薄く塗り、その上に各種切金文様をおくという(22)。山本氏は快円を快慶の流れをくむ仏師とみている(23)。また同じく山本氏によって、京都・東福寺仏殿四天王立像のうちの多聞天像にも、裙の表裏に彩色の上に金泥を塗る技法が認められることが報告されている(24)。山本氏は東福寺像を十三世紀初頭の運慶工房の作として紹介された(25)。また津田徹英氏も、奈良・東大寺僧形八幡神坐像(快慶作)の着衣において、黄色の彩色の上に金泥が、青色(群青)の彩色の上に銀泥が塗られている可能性についてふれられた(26)。このほか管見のおよんだものとして、奈良県郡山市千體寺の紫檀塗螺鈿厨子(重要文化財)に安置される来迎形阿弥陀三尊像の両脇侍の裙の裏に、やはり緑色の彩色の上に薄く金泥が塗られていることが確認できる(27)

 これらの像と異なり、ヴェネツィア像では着衣ではなく肉身の彩色の上に金泥が塗られているが、発想としては同じであり、同種の技法といってさしつかえない(28)。そしてまた、上記諸像がやはり南都に伝来か、あるいは慶派仏師の作とみられることが留意されよう。


 以上、図像的にも構造・技法的にも南都ないし慶派との密接な関連が確認されたが、作風のうえではいかがであろうか。

 十二躯のうちの二躯を確認できるのみなので、群像としての表現について言及することが困難だが、動きの激しいB像の存在からだけでも、きわめて変化に富んだ構成であったことが容易に推測でき、平安時代の十二神将彫像のやや画一化された表現とは径庭のあることがさとられる。しかもその姿態は鎌倉後期の神将形像にありがちな誇張されたものではなく、まことに自然かつ躍動感にあふれ、鎌倉前期の南都で造立された作品群のなかでもとくに優れた仏師の手を感じさせる。比較対象となりうる作例としては、京都・法界寺、奈良・興福寺東金堂、東京国立博物館・静嘉堂・個人の分蔵になる伝浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像などであろうか。

 法界寺像については、同寺薬師堂が建保三年(一二一五)に焼失、翌建保四年(一二一六)年に再興された際の造立とする説があり(29)、作者として慶派仏師が擬されている(30)。十二躯の作風にばらつきがあり、辰神像のように憤怒を内に秘めた力強い像もあるものの、概して誇張されたところが目につき、ヴェネツィア像のような柔軟さに欠ける。

 興福寺東金堂像は上記のとおり建永二年(一二〇七)頃の完成と考えられる。十二躯の間には法界寺像以上の作風の相違があるが、これまたヴェネツィア像の自然な身のこなしに比べると、姿態に硬さ・重さが感じられる。そのようななかにあって伝浄瑠璃寺旧蔵像は、群像としての変化に富む点、動きの激しい姿態をきわめて自然に柔軟にまとめている点、最もヴェネツィア像に近いといえそうである。

 伝浄瑠璃寺旧蔵像の作者は不明だが、運慶作の伝承をもち、実際に運慶工房の制作と考える論者もいる一方(31)、運慶の次世代による十三世紀前半の作例とみる説(32)もある。その当否はともかく、同像の彫刻史上への位置づけとしては「興福寺東金堂十二神将像のうち、はげしい怒勢や不敵な相好、動きの大きい姿態を誇張を交えてあらわした、いわば最も慶派的な感覚のものを成熟させた趣のある一群」という田邉三郎助氏の評価(33)が最も適切に思える。そしてこの評価はヴェネツィア像に対してもあてはまり、この二躯の像もまた十三世紀前半、それもあまりくだらない頃の慶派の作例として考えることが可能であろう。




  [注]
  1. 注(1) 同館は現在休館中。数年後に大運河の対岸に移転の計画があると聞いている。

  2. 注(2) 調査および写真撮影は平成十三年七月二十四日に実施した。

  3. 注(3) 美術館のコレクションの由来やボルボーネ公爵の旅行日程等については、Museo D'Arte Orientale 『La collezione Bardi : da raccolta privataa museo dello Stato』(Venezia, 1990)所収「Summary」参照。いま同書によって公爵の日本国内の訪問地を順に列記すると、次のとおり。
    長崎・鹿児島・都城・宮崎・小林・人吉・八代・熊本・島原・長崎(再度)・雲仙・小浜[以上九州]、神戸・大阪・京都[以上近畿]、名古屋・岐阜・御嵩・松本・Asama(浅間か)・諏訪・甲府[以上中部]、鎌倉・横浜・東京・横浜(再度)・箱根・熱海[以上関東]、京都(再度)・神戸(再度)[以上近畿]、横浜(三度)・日光・宇都宮[以上関東]、仙台[以上東北]、函館・森[以上北海道]、横浜(四度)。

  4. 注(4) 法量の細部は次の通り。(単位㎝)
    総高(現状) 五三・六、像高 四八・九、頂-顎 一二・七、
    面長 六・〇、 面幅 五・八、 面奥 七・二、
    耳張 六・四、 胸奥(左) 八・五、 胸奥(右) 九・一
    腹奥 九・一、 臂張 一九・五、 鰭袖先張 二二・四
    表甲縁張 一四・三、 沓先開(外) 一三・〇、 沓先開(内) 六・八
    岩座高 四・七、 岩座幅 一六・八、 岩座奥 一二・二

  5. 注(5) したがって、裙と表現した着衣は搾袖衣と連続する同じ着衣である可能性がある。

  6. 注(6) 三角形をいくつもその頂点が合うように組み合わせて配列した「鱗形」ではなく、魚の鱗のように一個一個の輪郭が弧を描く。

  7. 注(7) 両腰脇の天衣遊離部材を取り付ける釘も新しいもので、この修理時に打たれたものかと想像される。

  8. 注(8) 法量の細部は次の通り。(単位㎝)
    総高(現状) 五二・三、 像高 四七・六、 頂-顎 一二・一
    面長 六・三、 面幅 五・七面、 奥 九・〇
    耳張 六・八、 胸奥(左) 九・三、 腹奥 一〇・一
    臂張 一七・三、 鰭袖先張 一九・八、 表甲縁張 一五・二
    岩座高 四・二、 岩座幅 二三・五、 岩座奥 一六・四

  9. 注(9) これはあるいは何か具体的な用途のある物かもしれないが、よくわからない。

  10. 注(10) 頭形に見えているのは剣の把頭かと思われ、そうすると逆手に剣をかまえていることになり、A像では前向きに持物をとるらしい点、厳密には一致しない。


  11. 注(11) 倉田文作「十二神将立像」(『奈良六大寺大観』七・興福寺一所収、岩波書店、昭和四四年)
  12. 注(12) 以下、本稿で紹介している二躯の像をヴェネツィア像と総称する。

  13. 注(13) 長谷川誠「金剛力士立像」(『奈良六大寺大観』八・興福寺二所収、岩波書店、昭和四五年)によると、上半身と下半身を上下に積み重ねるように横矧ぎとし、さらにその上体・下体材は前後あるいは左右に矧ぐという。

  14. 注(14) 田邉三郎助「十二神将立像東金堂所在」(『奈良六大寺大観』八躯興福寺二所収)によれば、波夷羅・伐折羅両像が腰辺で体部を上下に分け、上体・下体とも左右矧ぎとするという。ただし中村康「十二神将立像東金堂所在(補訂)」(『奈良六大寺大観』八・興福寺二所収、岩波書店、平成一二年)によると、摩虎羅像は頭・体の基本材を腹部下方で横に切り離し、波夷羅・額ニ羅像は遊脚側の基本材のみを腹部で切り、伐折羅像は首・胸の下方・腰の三ヶ所で基本材を切り離すという。

  15. 注(15) 東金堂の鎌倉復興造像にあたり中心となって活動した定慶の存在が重視されるが、十二躯の間にある作風の相違から、定慶の関与をどの程度までとみなすかが問題となる。藤岡穣「十二神将立像」(『日本美術全集10運慶と快慶鎌倉の建築・彫刻』所収、講談社、平成三年)、副島弘道「十二神将立像」 (『週刊朝日百科・日本の国宝56 奈良/興福寺2』所収、朝日新聞社、平成一〇年)など参照。なお田邉三郎助「鎌倉彫刻の特質とその展開-湛慶様式の成立を中心に-」(『国華』一〇〇〇、昭和五二年。のち同『田邉三郎助彫刻史論集』所収、中央公論美術出版、平成一三年)では、鎌倉初期の南都復興時に糾合された奈良近辺の仏師たちの関与を想定している

  16. 注(16) 田邉三郎助「運慶と鎌倉彫刻-運慶論の問題点-」(『全集日本の古寺12・興福寺と奈良の古寺』所収、集英社、昭和五九年。のち同『田邉三郎助彫刻史論集』所収)
    山本勉「円成寺大日如来像の再検討」(『国華』一一三〇、平成二年)

  17. 注(17) 田邉前掲論文

  18. 注(18) 山本前掲論文。なお金子啓明「木造慈恩大師坐像」(興福寺・薬師寺・慈恩大師御影聚英刊行会編『慈恩大師御影聚英』図版解説、昭和五七年、法蔵館)もこの工作が納入品を納めるための工夫である可能性についてふれている。

  19. 注(19) 金子前掲解説によると、東京国立博物館像は明治三十六年に東京帝室博物館が高村光雲より購入したものだが、光雲がこれを入手した経緯については不

  20. 注(20) 金子前掲解説では十一世紀の前半から半ば頃、山本勉「慈恩大師坐像」(東京国立博物館『東京国立博物館名品図録』図版解説、昭和六一年)では十一世紀後半から十二世紀初め頃とする。


  21. 注(21) 山本勉「興福寺本坊持仏堂弥勒菩薩立像(伝聖観音菩薩像)について」(『MUSEUM』五五三、平成一〇年)
  22. 注(22) 同右。

  23. 注(23) 同右。

  24. 注(24) 平成十三年十一月三日に京都国立博物館で開催された仏教美術研究上野記念財団助成研究会『仏教美術における身体観と身体表現』における「仏像の金泥塗りの意義」と題する山本氏の研究発表、および平成十三年十二月一日に東京文化財研究所で開催された『彩色文化財に関する日独共同研究会』における「仏像彫刻の金泥塗り」と題する同氏の研究発表。なお前者の発表内容については、平成十四年三月発行の同研究会報告書『研究発表と座談会仏教美術における身体観と身体表現』に、発表者自身によって要旨が公刊される予定。

  25. 注(25) 同右

  26. 注(26) 注(24)前掲の後者の研究会(於、東京文化財研究所)において、「日独共同による中世の彩色文化財研究から見えてくる日本彫刻史研究における二、三の問題と展望」と題する津田氏の研究発表の際、僧形八幡神像に関する上記の言及がおこなわれた。

  27. 注(27) 中尊阿弥陀如来立像は江戸時代のものだが、両脇侍像は南都の仏師による十三世紀第2四半期にさかのぼる作とみられる。

  28. 注(28) 山本勉氏は、この技法が『長秋記』大治五年(一一三〇)十一月二十五日条の鳥羽僧正覚猷と源師時の対話中にみえる「朝霞滅紫」という彩色法のうちの「朝霞」に対応する可能性を説いている(注24前掲の研究発表)。

  29. 注(29) 『古寺巡礼京都29・法界寺』(淡交社、昭和五三年)図版解説(執筆中野玄三)

  30. 注(30) 同右
    金子啓明「伝浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像について-その図像と造形表現を中心に-」 (『MUSEUM』三五九、昭和五六年)

  31. 注(31) 松島健「鎌倉初期の慶派仏師の二作例」(『仏教芸術』九六、昭和四九年)

  32. 注(32) 金子前掲論文

  33. 注(33) 田邉前掲論文


 [付記]

 

ヴェネツィア像の写真は筆者が撮影した。調査および写真撮影に際しては、ヴェネツィア東洋美術館長Fiorella Spadavecchia 女史をはじめ、館員諸氏より多大なご協力を頂戴した。また興福寺板彫十二神将像(毘羯羅・波夷羅大将)の写真は(株)飛鳥園より提供を受けたが、この件については興福寺当局のご高配をえた。ここに付記し、厚く御礼申し上げる。



(いわた しげき 当館企画室長)


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