『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行


─研究ノート─

平家納経雑感

梶谷 亮治



  四 平家納経見返絵のモチーフ


 紙数を費やしたがこの源氏供養の方法の、いわば部分的先行例が平家納経ではないかというのが私の推測である。平家納経の物語絵様彩色見返絵の一部を、『源氏物語』に取材した図様とみるのである。すなわち序品第一(奥書なし)は「桐壷巻」、勧持品第十三(奥書なし)は「松風巻」、分別功徳品第十七(署名「左衛門少尉平盛國」)は「初音巻」、法師功徳品第十九(署名「長寛二年九月一日 從二位行權中納言平朝臣清盛」)は「藤裏葉巻」、厳王品第二十七(署名「長寛二年六月二日 右兵衛尉平朝臣重康」)は「匂兵部卿巻」とみるのである(法師功徳品見返絵は普賢来儀図であるが、芦手を交えた大和絵様の表現であるので一連のグループとした)。薬王品第二十三(署名「左衛門少尉平盛信」)はいまのところ『源氏物語』との関係をみつけていない。またこれらは平家納経の署名をともなう巻に偏っており、あるいは序品(最終紙長九・九cm)と勧持品(最終紙七・六cm)は経巻最終紙が極端に短いことから、もとあった署名が切り離され佚失したものではないかとも考えられる。物語絵様彩色見返絵はやはり何か意味を持つ一連のものと考えざるを得ない。

 法師功徳品第十九の場合は、丁子であわく黄色に染めた料紙に金截箔や銀禾を蒔いた上に、金泥と銀泥を基調にしたコントラストの少ない描写で持経者の目前に影向する普賢菩薩を表している。この普賢菩薩は背景の中にかすかにかたちが見えるというきわめて幻想的な表現であり注目されてきた。普賢菩薩を金泥(あるいは揉み箔か)で彩色し、わずかに白線で肉身線を描起こし、表情を点彩で表すのは、勧持品の如来形の表現法に近い。いわば皆金色に表された仏の姿は、鎌倉時代に先行する新しい表現法でもある。なお図中の土坡には墨線を引き重ねて皴を表しているが、これも勧持品にみられるところであり、共通性が注目される。ただこの普賢来儀図の図様は、法華経終章の勧発品第二十八かあるいは結経である観普賢経の経説にしたがって描かれる、法華経信仰者にとって至高の場面である。したがって、当巻見返絵は勧発品か観普賢経との錯簡を疑われたことさえあった。しかしよく観察すると表紙・見返絵の装飾と本文料紙の装飾が近似であり(違和感がなく)、さらに現状の題名を失った金属製の題簽からのぞき見られる表紙料紙には、当初と思われる白字の古様の筆跡(本文写経の首・尾題と同筆)で、「法師功徳品」と明確に経題を書してあることから錯簡の疑いはない。それでは、なぜここに敢えてこの図様が描かれたのだろうか。それは法師功徳品が『源氏物語』にあてられれば「藤裏葉巻」に対応し、「藤裏葉巻」では光源氏の唯一人の女である明石の姫君が東宮に無事入内を果たすこと(明石の姫君は中宮となり若宮を産み、その若宮は後に東宮となる)、光源氏が准太上天皇となり一代の栄華を極めるところであること、などが清盛の願望に合致したであろうことが考えられる。光源氏が桐壷帝の皇子でありながら臣下の身分となった身上と、清盛が実は白河院の皇胤であるという出生の事情とは類似している。院政後期、源氏研究が隆盛となる中で清盛は自らの身上を光源氏に重ね合わせたのではないだろうか。普賢の来儀にあずかる山中修行僧は清盛自身ということになる。周知のように、巻末には清盛自身の署名がある。

 なおこの見返絵には誦経する行者の窟の上、金泥で描かれた松樹に重ねて、また下辺の岩形に、さらに普賢菩薩が影向する洲浜の上に、緑(緑青)や墨で「しつかに」「山林無」「ひと利ゐ天」、「数道」、(絵で普賢菩薩)「身え給へ」などと文字が隠されている。かつて亀田孜氏は、『梁塵秘抄』巻第二「法華経二十八品歌、普賢品」の今様に擬して、「山林 静かに独り居て 修道法師の前にこそ 普賢薩薩は見え給へ」と詠まれた(亀田氏自作今様歌)。この見返絵がこうした今様を踏まえているという立論である。以下、私に付け加えるならば、同じ『梁塵秘抄』「法華経二十八品歌」の「法師品(第十)」には、「寂寞音せぬ山寺に 法華経誦して僧ゐたり 普賢頭を撫でたまひ 釈迦は常に身を護る」「静かに音せぬ道場に・・・」「法華は諸法にすぐれたり 人の音せぬ所にて 読誦つもればおのづから 普賢薩★(タ)〈土ヘン+垂〉は見えたまふ」などの法華経読誦の功徳を詠う今様があり、これは法師品の釈迦の偈「寂寞無人聲 讀誦此經典 我爾時爲現 清淨光明身」によるものである。法師品では説法をするのは普賢菩薩ではなく釈迦であるが、当時の人はこれを普賢に読み替えたと思しい。とすればこの法師功徳品の見返絵の図様は、実は今様に詠われるように法師品の図様である可能性も同時に考えなければならない。すなわちこの法師功徳品見返絵は法師品を源泉としており、法師品を介して『源氏物語』「明石巻」に重奏する可能性をも考えなければならないのではないだろうか。

 序品第一は「桐壷巻」にあたる。この見返絵には貴顕男女の法華経書写・読誦の功徳が描かれている。経文から一条の截金線で表された光が高貴な女性のあたりにふりかかるようだ。序品には釈迦が説法に先立って眉間白毫相から光を放ち、六道衆生やあまたの仏国土の情景を、説法に参じた会衆に示したという場面がある。この見返絵はその釈迦の光が人道に至ったところとも解される。しかしここでは『源氏物語』に引き寄せて、桐壷更衣の受胎(すなわち光源氏を身籠もる)を暗示する場面と考えることも可能であろう。桐壷更衣は後に言及する明石の入道のいとこでもある。

 ついで勧持品第十三と分別功徳品第十七はそれぞれ「松風巻」と「初音巻」にあたるとしたらどうだろうか。勧持品には山中の小庵に安置された阿弥陀如来像を礼拝供養する尼公と女房を表している。庭先には懸樋から流れる水流が描かれ、いかにも鄙びた風情。これは山里における仏像礼拝供養を勧持品中の経意に重ねて表現したものと考えてきた。序品と同様に現世の信仰生活になぞらえて法華経の経意を表現したと一応解される。勧持品で釈迦の姨母の摩訶波闍波提比丘尼と妃であった耶輸陀羅比丘尼の二人の女性に初めて授記したことを述べるのに対応し、老尼は前者、尼削ぎの女性を後者とみるのである。一方『源氏物語』に引き寄せて解釈すれば、「松風巻」に光源氏が明石の上とその老母(尼)、それに明石の上との間にもうけた女である姫君を大堰山荘に呼び寄せくらさせたところと見る。『源氏物語』によれば、大堰山荘は遣水を流し閼伽棚などもそなえていたという。

 この勧持品と同一の描き手によって描かれたとみられるのが分別功徳品である。ここでは蓮池を前にして洲浜に老尼(銀泥隈取の着衣)、高貴な女性(同じ銀泥隈取の着衣)、小袿(丹地に金泥斜格子文の着衣)姿の女性、直衣(銀地を透かす群青四菱入り三重襷文)と指貫(白群地に銀泥の浮線綾文)姿の高貴な男性がくつろいだ様子で配される。奥に坐す二人の女性は勧持品をひくものかと推測され、これを明石の上とその老母と考え、手前の女性を八歳に成長した明石の姫君、男性を光源氏とみたい。しかし蓮池を前にした夏の情景であるのが物語に合わず、また「初音巻」では明石の姫君は未だ紫の上のもとにいるので、物語とは完全に一致する図様であるとは言えないが、可能性に留意してさらに後考を重ねたい。

 厳王品第二十七は、経説に説かれる妙荘厳王の二王子である浄蔵・浄厳に見立てたと思われる二人の高貴な女性を描いている。見返絵はいかにも歌絵風であり、添景である甕(亀)、水に浮かぶ経巻(浮き木)、扇など当時の人が見ればただちに解しうるだろう絵模様が配されている。また葦手にも特色がある。前出の『梁塵秘抄』「妙荘厳王品」には「釈迦の御法は浮木なり 参り会ふ我等は亀なれや 今は当来彌勒の 三会の暁疑わず」とある。これは厳王品長行の「佛難得値 如優曇波羅華 又如一眼之龜 値浮木孔」に対応しているが、この今様にも近い図様と思われる。一方『源氏物語』に引き寄せれば、「匂兵部卿巻」にあたるとみられる。「匂兵部卿巻」では光源氏亡きあとの声望を継ぐ人として、当今の三宮(匂宮は、当今と明石の中宮の三男)と薫(光源氏の次男、実は柏木の子)の評判が高い。匂宮は二条院を里邸としているが、明石の中宮の女一の宮は光源氏が築いた六条院に住み、次期東宮候補である二の宮は夕霧(光源氏の男)の次女中の君を娶って六条院を里邸にしている。また夕霧の長女大君は東宮妃となる。明石の中宮と当今の間の二人の男子はそれぞれ夕霧の大君・中の君を娶ったことになるが、明石の御方(明石の上)は大勢の親王たちの後見役で幸せであった。厳王品の見返絵に描かれる二人の高貴な女性は、東宮妃となった大君と二の宮に嫁した中の君を表したのではないだろうか。大君と中の君の姉妹を、浄蔵・浄厳の兄弟にかけたことになる。

 仮説を重ねたてきたが、平家納経は藤原親忠女が主催した源氏供養に先行して、部分的にではあるが源氏物語絵を見返絵に採用したのではないか。その関係付けの仕方は源氏絵を法華経にかけるという方法である。

 ここまで考察して次第に明らかとなるように、上記見返絵に描かれる主題の裏に隠されているのは、『源氏物語』に語られる明石一族と光源氏の物語ではないかと想像される。平家納経の編纂が計画されたおりに、明石一族の物語を織り込むことが意図されたのではないだろうかというのが私の次の推測である。その理由は那辺にあるのか。次には『源氏物語』の中の明石一族の持つ意味を考えなければならない。


 五 明石一族の物語


 『源氏物語』における明石一族の物語には、注目すべき特徴がある。明石一族は、光源氏がいったん隠棲した須磨から、ふたたび京に帰り栄華あふれる生活にたちもどる契機をなした重要な位置づけの人々である。明石一族の属性には、はじめから何か神秘的な力が付与されていることにも注目しなければならない。

 『源氏物語』の「若紫巻」では、良清が明石一族のうわさをする場面があり、明石の入道が自分の幼い女(明石の上)に対して、「宿世たがはば海に入りね」と、常に遺言していることをうけて、人々が「海龍王の后になるべきいつき女ななり」と言い合った、というところがある。明石の上は、「海」に強く縁づけられ、また同時に海中に住む「海龍王」にもかかわる人物ということになる。もともと明石の入道はこの女が生まれるときには、異常な瑞夢を見、住吉明神に祈って女を帝か高貴な人に娶せようとしたという(「若菜上巻」)。明石の入道や明石の上の住吉明神に対する信仰は深く、『源氏物語』のいたるところで言及されているが、(入道)「住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年になりはべりぬ。女の童のいときなうはべりしより思ふ心はべりて、年ごとの春秋ごとにかならずかの御社に参ることなむはべる」(「明石巻」)、(明石の上)「思ふ人々におくれなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむなどぞ思ひける。父君、ところせく思ひかしづきて、年に二たび住吉に詣でさせけり。」(「須磨巻」)などとある(注70)。明石一族は、住吉の神に深く帰依していたが、住吉の神とは海神であり、明石一族はその海神に連なるべき海龍王の一族であるとの暗喩的構造が見てとれよう(注71)

 ところで『源氏物語』「須磨巻」には光源氏が須磨に隠棲したときの「弥生の朔日に出で来たる巳の日」(三月一日の巳の日)の祓えについて興味深い記述がある。光源氏が三月上巳の日に禊ぎをしようとして海辺に出て、陰陽師を召して祓えをさせたところ、にわかに暴風雨が起こり高潮も襲来し落雷もあって異様なこととなり、光源氏にも危険が及ぶほどであった。これは海の中の龍王が光源氏を見込んで神威を示したのである(海龍王のものめで)。この風雨は数週間やまず、ついに光源氏は住吉明神や、海の中の龍王、よろづの神たちに祈り、この災禍を乗りこえようとする。この光源氏の危機を救い、夢枕にたった父帝桐壷院のお告げにしたがおうとする光源氏を、実際に須磨から明石に導いたのは明石の入道である。明石の入道は同じ月十三日(巳の日)に、神慮により「あやしき風細う吹」きたるにのり小舟で須磨にいたり、源氏を明石に連れ帰るのである。この須磨での事件のキーワードは、「住吉明神」、「龍王」、暦日の「巳」であろう。いずれも海や龍神の信仰にかかわることが注意される。

 実際、石川徹氏は光源氏の須磨流謫譚は『日本書紀』の海幸山幸説話を典拠(原話)にしており、彦火々出見命が光源氏、龍宮の豊玉姫(彦火々出見命と結婚する)が明石の上に投影されているとされる(注72)。明石の上はすでに「若紫巻」で「海龍王の后になるべきいつき女」とされていることは指摘しておいた。

 さらに光源氏と明石の上の間に生まれた、明石の姫君を「夜光る玉」に擬し、海幸山幸説話の潮満つ玉・潮干る玉にみたてていることにも注意される。すなわち『源氏物語』「松風巻」に「若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外には放ちきこえざりつるを」などとある。なお、この夜光玉とは『源氏物語』の古注によれば海龍王の子(女)の持物である(注73)。すなわち明石の上とその光源氏との間の女の明石の姫君とは、海龍王の一族として何重にも性格付けがなされているのである。『源氏物語』の明石一族が、海龍王の一族になぞらえられ、重層的構造をなすことは、確実である。

 なお、『源氏物語』にはさらに重ねて、光源氏とこの明石一族との関係が言及されているところがある。それは明石入道が語る「故母御息所は、おのがをじにものしたまひし按察大納言の御むすめなり」(「須磨巻」)という事実である。光源氏の母である桐壷更衣は、明石入道の叔父の按察大納言の女という。すなわち明石の入道と光源氏の母とはいとこの関係にあたる。したがって光源氏にも母方を通じて、海龍王の性格が付与されていることになる。おそらくこの事実が、『源氏物語』「須磨巻」における光源氏の異常な体験の伏線になるのであろう。すなわち光源氏も海龍王とは無関係ではないのである(注74)

 その後、光源氏はふたたび帰洛することになる。重要なのは光源氏と明石一族の血を引く明石の姫君は、光源氏の唯一の女であり、彼女はその後東宮の妃となり、次代の天皇になるべき人を生むことである。かくして光源氏の血は皇統に流れ込むことになる。

 以上要するに、『源氏物語』における明石一族は、性格的には海龍王の一族が現世に現れたものであり、光源氏はその一族によって、皇統に自らの血を伝えることができ得たと解されるのが注意される。

 平清盛が着目したのは、『源氏物語』におけるこの明石一族と光源氏との関係であると考える。『源氏物語』には海神、龍神、龍王にかかわる神道的(民俗信仰的)なものと仏教的なものとをあわせて、さまざまな奇跡奇瑞の物語がちりばめられている。清盛は、みずからの龍神(龍女)信仰をその接点として、明石一族の物語に着目したのではないだろうか。清盛にとっては、自らの栄達と、その女である徳子を入内させ、ついには次代の天皇の外戚となることこそが、願望であったのではないだろうか。『源氏物語』の明石一族の物語と清盛の願望とを重ね合わせてみることは可能であると考えたい。また「藤裏葉巻」が、光源氏が官位をきわめるところであり、明石の姫君が入内をはたす場面でもあることにもふたたび注意すべきである。清盛の龍神(龍女)信仰こそが、平家納経と『源氏物語』との接点であると考えられ、その故にこそ『源氏物語』のうちの明石一族の物語が注目されたものと考えたい。


 六 清盛・平氏周辺と『源氏物語』


 ところで、上記の前提となるべき、清盛やその周辺の『源氏物語』理解はどのようにしてつちかわれたものだろうか。そのために、平氏をとりまく文化的背景について若干の推察をこころみたい。

 いくつかの指標をあげれば、まず堀川院のころ(十二世紀初頭)からの源氏流行があげられる(注75)。また現存の徳川黎明会と五島美術館の源氏物語絵巻は、十二世紀前半ころの作品である。さらに文献によれば、白河院政、鳥羽天皇のころに源氏物語絵巻が制作された(注76)。このときには、鳥羽天皇の中宮である待賢門院が、中将君(三位中将源有仁)に源氏絵間紙(源氏絵の料紙と解される)を調進させた。この有仁(一一〇三~四七)は、左大臣、従一位に至った人物で、後三条天皇の皇子輔仁親王の子である。元永二年(一一一九)に父輔仁親王が没したのち源姓を賜り従三位に叙せられた。祇園女御の猶子(白河天皇の養子)でもあった。

 またこれと同じころ、二十巻本の源氏物語絵巻も制作された。なおこの源氏物語絵巻の画家は、「紀の局」と「長門の局」である。このうち、紀の局は清盛の同盟者である藤原通憲(信西)の妻であった藤原朝子である可能性が強い(朝子は「紀禅尼」として実際に画家として目無経白描下絵を遺している)。この二十巻本源氏物語絵巻はついには建礼門院徳子の女院御所に架蔵されている(注77)。この間の事情については秋山光和氏や徳川義宣氏の緒論がある(注78)

 その建礼門院に仕えた建礼門院右京大夫は、『源氏釈』を著した藤原伊行の女であって、『建礼門院右京大夫集』にみる彼女の和歌には、『源氏物語』をふまえたものが多い。なお、建礼門院右京大夫の手元には、源氏物語の一本が伝えられていた(注79)。糸賀きみ江氏によれば、女房・右京大夫はこれより先、永万二年(一一六六)には、平清盛の女である盛子が嫁した藤原基実(一一四三~六六)に出仕していたと推測される(注80)。女房・右京大夫が平氏の周辺において活躍したのは意外に早いだろう。女房・右京大夫は基実の没後、盛子の縁で、その妹である建礼門院に仕えたと推測される。

 左大臣・摂政であった基実は、そのころ大納言であった清盛の支えを受けて若年ながら政治の主導権を握っていたとみなされる。この藤原基実の後見が藤原忠通の代から摂関家に仕えていた藤原邦綱(一一二一~一一八一)であり、邦綱は基実の没後、その遺領(摂関家領)を盛子に伝えるように清盛に進言し、自らも島津荘を知行した。邦綱は摂関家を通じて、盛子が基実に嫁した長寛二年(一一六四)二月にはすでに清盛にきわめて近しく、またその後も深い関係を保つ。邦綱は右馬権助藤原盛国の子で、紫式部の父、為時の五代の孫であり、平清盛の親友である(注81)。春宮権大夫、右京大夫、周防権守などを歴任している。男に清盛の養子とした清邦らがいた。女には、成子(六条天皇乳母)、邦子(高倉天皇乳母)、輔子(安徳天皇乳母、平重衡室)、綱子(建礼門院乳母)らがいた。もって清盛との強いつながりがうかがわれよう。「平大相国とさしも契深う、心ざし浅からざりし人なり」(『平家物語』六)といわれた。清盛はこの邦綱の父の盛国の邸宅で養和元年(一一八一)閏二月四日没している。邦綱もそのあとを追うように、同二十三日に没した。すなわち清盛は、紫式部と縁続きの人を友人とした。

 邦綱の事績のうちで注目すべき事の一つに、仁安元年(一一六六)九月三日・六日の、基実没後の法事に際しておこなった結縁経供養がある。『兵範記』によれば、 
 九月三日(略)次有結縁經供養
 二幅釋迦三尊一鋪 錦縁 信範奉圖 廿八品開結二經 阿彌陀般 若心經等 都三十二軸 三位(右)左京兆(右京大夫) 左大丞 刑部卿重家朝臣以下三十二人 各爲所課 併書寫一巻 装★(コウ)鏤金銀 寶物珠玉 互致美麗 是深志之至也 桓救阿闍梨爲導師 蓋依能説也 願文式部權少輔敦綱草之 宮内少輔伊行清書之 紫裏白色紙 金薄
 九月六日(略)有右京大夫御仏事(略)次女房一品經供養 母儀二位殿 六波羅三位殿 此宣旨殿以下 兩方女房各分一品 調一軸 金銀珠玉 美麗究善 被副捧物 是又銀造物 若枝葉錦横被 或織物褂 珍重之至 不能筆端
普賢一鋪 一幅半錦縁 被物一重 御誦經布十段 佛布施 造花 佛供 御明

などとあって、九月三日および六日には、故摂政藤原基実のための一品経供養が行われたが、それは男方と女方にわけて供養され、あわせて六十四巻の法華経一品経などの経巻が制作された。それぞれの経巻は装★(コウ)に金銀珠玉が用いられ美麗をきわめ、鳥羽院政期待賢門院などの作善を連想させる。この男方には、藤原邦綱が筆頭として関わり、また女房一品経供養にも同様に邦綱が関わり、その女方には基実の母である従二位信子、六波羅三位平時子が参加していることも知られる。

 ここで、男方の供養願文(おそらく女方の願文も同様)を藤原伊行が書していることが注目される。伊行は同じ九月七日の仏事の願文をも清書している(注82)。すなわち藤原伊行は、この基実家にきわめて近しかった。さかのぼれば、伊行は関白基実の初度の上表文(藤原永範起草)を世尊寺流の能書として清書している(注83)。また基実が左大臣を辞するときの上表も清書している(注84)。これより先、久寿二年(一一五五)には、基実の父忠通が亡くなった夫人のために行った仏事の願文を書している(注85)。さらに伊行は邦綱とも近しかったと考えられる。伊行が源氏物語研究にしたがったのは、紫式部有縁の邦綱の存在も無関係ではないのだろう。

 かくして、伊行父子はかなり早い時期から邦綱・基実を介して清盛や平氏に近いところで活躍したことが推測される。またその後、伊行は、仁安二年(一一六七)の「太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合」に出仕して、四首を遺した事実も確認される。この平経盛が主催した歌合は、王朝のなごりを伝えるものであり、久保田淳氏は、「そのような平家全盛時代の『源氏』熱―結局それは『源氏』を頂点とする王朝文化への憧憬に他ならない―(中略)彼等は『源氏』を、彼等の時代にはもはや頽落した形でしか残り留まっていない王朝の美学を測定する最も確かな尺度とみなしていた。」とされ、平氏政権下の文化における『源氏物語』の重要な位置づけについて述べておられる(注86)。平氏と平氏をとりまく人々がさまざまな形で『源氏物語』と関わっていることが理解できる。

 こうした平氏を取りまく文化的状況の中で、最も注目されるのが、藤原伊行の存在である。伊行の年齢については普通には安元元年(一一七五)に三十八歳で没した(生年は一一三八年となる)とされるが(注87)、白畑よし氏には年齢をやや上げる独自の解釈がある(注88)。伊行が葦手本倭漢朗詠抄二巻(国宝、京都国立博物館所蔵)をあらわした永暦元年(一一六〇)は伊行四十五歳(生年は一一一六年となる)、その女で、後に建礼門院右京大夫となる人は八歳であるとされる。糸賀氏の年齢観とも近い。伊行の活躍年がより自然に理解できよう。伊行が『源氏釈』を著したのは、積極的に、上記のような平氏政権下における文化状況の要請にしたがったのであろうと解したい(注89)

 平氏をとりまく『源氏物語』理解の状況は概略以上のようなものであり、しだいに重要な人間関係が浮彫りになる。ただし平清盛と『源氏物語』の直接的な接点を示す具体的な証拠は見つけ出せないとせざるを得ないが、しかし、ここで注目されるのは、藤原伊行と平家納経との関わりが推測されることである。


 七 藤原伊行と平家納経


 藤原伊行は、藤原行成に発する世尊寺流の六代孫であり、能書として知られている(注90)。基実のほかにも藤原貴族のために達筆をふるっていることが記録から知られる。伊行の筆跡のうち、幸いにも葦手本倭漢朗詠抄二巻が今日にまで伝わっていて、我々はそこから興味ある事実をうかがうことができる。

 かつて田中塊堂氏はこの伊行筆倭漢朗詠抄と、平家納経願文とを同筆とみられた(注91)。平家納経を詳細にみれば、たとえば方便品第二の見返絵は、この葦手本倭漢朗詠抄と一見して近しい関係にあることが推測される。

 そこで、その方便品に注目することにする。方便品第二の表紙には、他の巻と同様に銀製鍍金の発装金具が取り付けられている。その表紙側は細い竹幹に竹葉を五枝透彫りし、竹葉には鍍金をほどこしている。見返絵側は端装から二本の小枝をのばし、刻線で竹葉を表している。なお、掛緒を留める鐶も竹の小枝に象るというきわめて凝ったものである。「竹」はこの時代には比較的めずらしい図様とみられるが、方便品に「葦や竹が密生する如く多くの優れた求道者がそろって智恵を追求しても、仏の智恵には及ばない」(「如稻麻竹葦 充滿十方刹 一心以妙智 於恆河沙劫 咸皆共思量 不能知佛智」)と説くところに着目したのだろう。法華経では方便品にのみ「竹」がみえる。「竹」に着目した人物は法華経一文字一文字を知悉している。この「竹」が見返絵の葦手絵と一体の構想・表現であることは明かである。

 方便品の見返絵は、厚い銀砂子地に汀の光景を描く。おだやかな線描で土坡をかさね、ひかえめに墨皴もそえて、その上には松樹と紅葉を配し、大和絵の情景をつくる。一見何でもない風景のように思われるが、画中に多くの「葦」を配しているのは端装金具に「竹」を表すのと同様に方便品本文を意識しているとみられる。また蛇籠、板子を汀に配し、いわゆる葦手文字で「加」「と」「ぬ」をちらしている。土坡上の松樹と紅葉がいずれも幹を交差させるなど、図中に記号的に配されたと思われる図様が目立つ。こうした葦手絵の各々の図様(部品)が、伊行筆葦手本和漢朗詠抄に近似していてきわめて注目される。なお図中の樹木の表現は序品第一に同様である。その序品第一にも葦手文字を散らした撫子の表現が見られる。この撫子は倭漢朗詠抄中にしばしば描かれる。その外にも倭漢朗詠抄に見られる葦手文様・文字と平家納経葦手絵とは共通点が多い。水鳥、岩、飛鳥、片輪車、土坡、流水、草木、葦手文字などの多くの文様・文字にわたる。

 一方この序品第二の本文写経は、きわめて特色のある筆跡である。化城喩品第七、普門品第二十五もこれと同様である。涌出品第十五もこれに近い。書道史の方面の研究によれば、これこそが藤原伊行の筆であると目される。「筆をやや右に傾けた側筆で、右肩上がりの特徴的な字形」は、写経の書風の一典型である藤原定信の書風(「定信様」)に近いが、平家納経成立時には定信はすでに逝去していると推測されるので、その子伊行がもっともその筆者にふさわしい。なお定信の姉は待賢門院に女房中納言の名前で出仕していて、定信は久能寺経の譬喩品第三の本文写経の筆を執ったという(注92)。平家納経のその他の巻の筆跡の書風分析については、筆者の力の及ぶところではないが、ここでは先学の研究に導かれて、藤原伊行の関わり方について推測をした。世尊寺流の能書にしてすぐれた歌人・文学者でもあった伊行が、平家納経の本文写経及び葦手絵の構想、ひいては平家納経の全体構想に関わったことは充分に可能性があることではないだろうか。伊行が自ら葦手絵をも描いたことは、その女、建礼門院右京大夫が、 

 大皇大后宮(藤原多子)より おもしろき絵どもを 中宮(建礼門院の御方へまゐらせさせ給へりしなかに、むかしてゝのもとに人の手習ひしとて ことばかゝせし絵のまじりたる いとあはれにて
めぐりきてみるにたもとをぬらすかな 絵島にとめしみづぐきのあと

からみても明かであろう(注93)


 八 結


 平家納経の見返絵のうち、『源氏物語』に関連づけて解釈できると思われるものについて、縷々考えてきたが、結局、藤原伊行という源氏研究家の存在が大きく浮かび上がってきた。平清盛が自身の中に持ち合わせていた龍神(龍王・龍女)信仰が『法華経』と『源氏物語』に結びつくためには、文学者であり、一方また能書家でもあった伊行との出会いを想定しなければならないだろう。

 ただし、上記は一つの可能性を示したものであり、まったく別様の解釈も可能であろう。総合して平氏が強い勢力を維持した平安末期のきわめて成熟した文化現象の中で、平家納経が理解されるべきであるのは当然であり、その際にはどうしても『源氏物語』を避けて通ることはできないのではないか、というのがここでの私の結論である。

 はじめにことわったように、平家納経の見返絵は多様である。したがって、まったく別の観点から、ある一群の見返絵の特徴を論ずることも可能であろう。

 すなわち、序品の見返絵が、京都国立博物館本普門品見返絵のように、図中に経文を漢字で散らすのに対して、薬王品の場合のようにそれを仮名まじりで散らし、モチーフの重要な要素となしているものや、『梁塵秘抄』の今様歌や、和泉式部の和歌を装飾のモチーフにした厳王品の表紙絵、見返絵の存在もある(注94)。詳細については割愛にしたがうが、制作に際して複雑なモチーフが働いたであろうことは言うまでもないだろう。蛇足だが、平家納経の発装金具の意匠も看過されるべきではない。発装金具のうちに見られる、方便品の「竹」や、化城喩品の「不動」(倶利迦羅龍剣)は、『法華経』を知悉した知識がなければおそらく発想できないものだろう。

 平安時代後期の院政期から平氏政権の成立期、十二世紀中期から後半にかけては法華経見返絵でも注目すべき作例が多い。平家納経も広くはそうした中で位置づけられるべきであり、そう考えたときに平家納経見返絵にさまざまな種類のものがあるのが、もっとも異例に感じられる。

 比較のために一例をあげれば、香川県の色紙法華経(見返絵は紫紙銀地彩色)の場合がある。香川県本は、少なくともその彩色見返絵については、平家納経に先行する作例と思われるが、物語絵様によるのではなく、法華経の心ばえを細密画で描いていて平家納経とはまったく異質の作品である。ところが、巻第五では、龍女成仏のモチーフが大きく扱われていて、その点では平家納経と同様である。図像的な特色も互いにきわめて近似していて興味深い(注95)

 また香川県本を別の見方で見れば、図中の細密な山水表現は徳川・五島本の源氏物語絵巻に散見する山水表現ときわめて近似する点があり、また一方これは平家納経中の山水表現にもより整理された仕方で見られるところである。源氏物語絵巻、法華経ともに享受者は重層している。荷担者の側から見た整理も必要であろう。彩色を重ねて絵を作り上げるところは、先行する物語絵に近い。この特別な色紙法華経に女性が関与していることが想像される。

 注目すべきは、写経八巻のうち、全巻に「一校了」の奥書があり、さらに巻一、巻六、巻八には添えるように「志ん女(の)かく」などと奥書があることである。かつて私は「しんにょ」なる女性をこの写経の制作者と想像したことがあるが、ここでこれを訂正しておきたい。なお詳細な検討が必要と思われるが、「一校了」と「志ん女かく」を同筆とみ、すなわち本文写経は、「志ん女かく」の筆跡とみて、これを剃髪後、法名を「眞如覺」と称した建礼門院徳子自身の署名と考えたい。ただし、建礼門院徳子の在世年および出家時の年齢から考えて、本文が書写されたと推測される年代と、この法華経見返絵の制作年代とはとうてい重なり合わない。この瀟洒な色紙法華経が、建礼門院の身近に伝わったものであるとすれば、まことに興味深いが、この問題の解決のためには、さらに詳細な観察と考察が必要であり、今後の課題としておきたい(注96)。見通しでは、香川県本色紙法華経の彩色見返絵は、源氏物語絵巻と平家納経を結ぶ線上にあり、その見返絵が、何らかの必然的な事情で建礼門院に伝わったものであろうとしておきたい。さらに想像すれば、平清盛の盟友であった藤原通憲(信西)の妻の、紀二位局藤原朝子などの名が浮かんでくる。

 さらに一件、平家納経をめぐる気になる存在に、厳島神社に伝わる檜扇(国宝)がある。現状では檜の薄板三十四枚を組み合わせ、蝶・尾長鳥形の金銅製要金具で留めている。全面に白土下地をほどこし、さらに雲母引きをした上に、金銀の切箔、禾、砂子、微塵をまき、濃彩の絵を描いている。図様は、画面左に洲浜から立ち上がる松樹をあらわし、その傍らに一羽の鶴が配される。右には、手に桧扇を持つ男性の貴族(薄い青色の着衣に銀の浮線綾文)と、その妻と想われる女性(黄色の着衣にエンジ赤の文様)、また童女(黄色の着衣上に、青色の楓文。色線による衣文線)が一人、右手で鶴を指し示すようである。三人の上方には霞らしい雲形がある。人物の表情はいわゆる引目かぎ鼻による。画中には松樹の幹やその根元の土坡にそって葦手文字も散らしている。何かの和歌か、今様が隠されているのだろうか。またその裏面には右手洲浜上に紅梅が立ち上がり、その傍らには、熏煙が立ちのぼる火取が二口配される。左手の水流には片輪車が置かれている。

 『厳島宝物図絵』によれば、この表の画題はおそらく正月子日の情景であり、「子日する中にそだちてみどりなるさがのの小松かすみたなびく」の歌意をあらわしたものと言う。また裏は、「ちる梅の色も匂も添ひつるになどかとはるゝ人はなからん」の歌意を表したものとしている。これによれば、表の図様は、『源氏物語』の「初音巻」にちなむと考えるべきものかもしれない。ところでこの檜扇は、承安二年(一一七二)二月十日に、建礼門院徳子が厳島社に寄進した「御扇小松重薄様裏之」にあたるものか、あるいは承安四年(一一七四)三月二十六日に、建春門院が厳島社の「中御前」のために寄進した「公家御装束一具」のうちのものかと推測される。建春門院か建礼門院かいずれの近くに伝来したものと推測される(注97)。図様の表現は平家納経に先行する古様さを示していて、源氏物語絵巻と平家納経をつなぐべき資料として位置づけられよう。

 このほかに厳島社には、承安三年(一一七三)には八面の舞楽面が寄進された。この内、還城楽と抜頭面は清盛、納曽利と陵王面は時子、二ノ舞と案摩(亡失)を平盛国(清盛郎党)が寄進している。清盛寄進の二面は、清盛祖父正盛が造営した尊勝寺の面を仏師行明が模したもの。時子寄進の陵王面は龍の頭上に舎利容器状の塔形を取り付ける異形のものであって、納曽利とあわせてともに龍王に淵源があることを想像させる。

 平家納経をとりまく状況はいよいよ複雑さを増していくばかりである。その周辺の事情を考察したが、題名にあるとおり「雑考」であり、いささか民俗学的方法に偏りすぎたかの感がある。しかし平家納経の実体に迫るにはこうした方法も有意義なことではないかと考えている。今後はさらに観察と考察を重ねながら、より具体性のある結論を目指していきたい。諸賢のご批判を乞いたい。



【註】

  1. 拙稿「法華経見返絵の展開」、『法華経―写経と荘厳』所収、奈良国立博物館、一九八七年。

    拙稿「我が国における仏教説話絵の展開」、『仏教説話絵』所収、奈良国立博物館、一九九六年。

    河田貞「法華経絵意匠の展開―平家納経経箱の装飾文を中心として―」、『仏教芸術』一三二号、一九八〇年。

    内藤栄「密観宝珠形舎利容器について」、『鹿園雜集』創刊号、一九九九年。

    『東長大事』 高崎・慈眼寺蔵 嘉暦二年(一三二七)成立。

    杉橋隆夫「四天王寺所蔵「如意宝珠御修法日記」・「同」紙背(富樫氏関係)文書について」、『史林』第五三巻三号、一九七〇年。

    阿部泰郎「宝珠と王権―中世王権と密教儀礼―」、『岩波講座東洋思想』第一六巻日本思想二所収、岩波書店、一九八九年。

    大覚寺聖教・文書研究会「大覚寺聖教・文書」、『古文書研究』第四〇号、一九九五年。

    田中貴子『外法と愛法の中世』、砂子屋書房、一九九三年。

    舎利と宝珠同体のことを明確に述べる(『秘抄』巻十四)。

    『大日本史料』四-四、建久三年四月八日条に関係史料が掲載されている。

    『胡宮神社文書』、写真版が赤松俊秀『平家物語の研究』(法蔵館、一九八〇年)にある。

    文書「仏舎利相承次第」は清盛白河院皇胤説の根拠となる史料であり価値は高い。清盛皇胤説には諸説があるがここで深くはふれず、ただ竹内理三氏の肯定的研究(『日本の歴史』六武士の登場、中央公論社、一九六五年)にしたがいたい。『平家物語』は清盛の父は白河院、母は祇園女御であるとする。

    『今鏡』に関連の正盛・忠盛説話、『古事談』に忠盛説話がみえる。

    以下、和田英松『国史国文之研究』(有山閣、一九二六年)による。

    『中右記』長治二年十月二十六日条。

    『中右記』嘉祥元年七月五日条。

    『中右記』天仁元年二月十六日条。

    『一条法眼記』等(杉山信三『院家建築の研究』、吉川弘文館、一九八一年)。
    なお、『永昌記』天治元年(一一二四)五月二十五日条百躰愛染供養の記録があるが、これは白河院のために仁和寺寛助が導師となる。寛助は晩年は平忠盛の寄進を受けて東南院を開創し、等身の尊勝仏頂尊、大威徳明王を安置した。

    『殿暦』永久元年十月一日条。『長秋記』同日条。
    六波羅蜜堂はこれより先、天永元年(一一一〇)に完成供養された。導師は範俊である(『江都督納言願文集』)。範俊弟子の範延は正盛の男(高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆―』、平凡社、一九八四年)。

    『長秋記』大治四年七月十六日条。

    『中右記』大治四年閏七月二十五日条。

    『二十二社註式』には承平五年(九三五)の太政官符を掲げている。村山修一「祇園社の御霊神的発展」、『本地垂迹』所収、吉川弘文館、一九七四年。

    京都・大蓮寺蔵。
    伊東史朗「祇園社舊本地観慶寺薬師如来立像について」、『國華』一一三二号、一九九〇年。

    『中右記』大治二年六月十四日条。

    『中右記』大治四年六月十四日条。

    『中右記』長承二年六月十四日条。

    『山槐記』治承三年六月十四日条。

    『続古事談』第四「神社仏寺」に、「祇園ノ宝殿ノ中ニハ龍穴アリトナムイフ。延久ノ焼亡ノ時、梨本ノ座主ソノフカサヲハカラムトセラレケレバ、五十丈ニヲヨビテ猶ソコナシトゾ(下略)」とある。

    『★★(ホキ)内伝金烏玉兎集』所収の「祇園牛頭天王縁起」(西田長男「祇園牛頭天王縁起の諸本」、『神道史研究』第十巻第六号、一九六二年)にテキストと解説がある。
    また、河原正彦「祇園御霊会と少将井信仰―行疫神と水神信仰との抵触―」、『日本文化史論集』、一九六二年。脇田晴子『中世京都と祇園祭』、中央公論新社、一九九九年など。

    『女神たちの日本』、サントリー美術館、一九九四年。

    『台記』久安三年六月十五日条。『本朝世紀』同日条。

    後年、建礼門院徳子の御産時には大神宮、今熊野、伊都岐島とともに祇園社にも祈られた。清盛が晩年住した福原和田京の雪御所北東近傍にも祇園社が坐すことも看過できない。

    田中氏前掲著一五七~一六〇頁。

    赤松俊秀「平清盛の信仰について」、『平家物語の研究』所収、法蔵館、一九八〇年。

    武笠朗「平清盛の信仰と平氏の造寺・造仏」上下、『実践女子大学美學美術史學』第一三・一四号、一九九八・一九九九年。

    なお、その後「仏舎利相承次第」に清盛から舎利を伝授したとある観音房の実在が確認される(静岡・願成就院蔵、木像不動三尊及毘沙門天立像胎内納入五輪塔形銘札に「執筆南無観音」とあるのがその人だろう。当館の岩田茂樹氏から御教示を得た)。観音房は清盛重臣の平盛国の子か孫である。さらに舎利は観音房から高倉局に相伝したとする別伝(「牙舎利分布八粒」『来迎寺文書』、高倉局は澄憲女)があって、この相伝には醍醐寺有縁の尼真阿弥陀仏(信西孫、一説に阿波内侍と同一人)が関わる(土谷恵「願主と尼」『シリーズ女性と仏教1 尼と尼寺』所収、平凡社、一九八九年。田中前掲書など)。真阿弥陀仏は鎌倉初期の造仏結縁者としてしばしば名が見える。これ以上煩瑣を避けるが文書「仏舎利相承次第」の価値・意味は看過できない。

    『日本後記』巻二十一、弘仁二年七月己酉日条。

    『日本三代実録』巻一貞観元年正月二十七日条、同巻二貞観元年三月二十六日条、同巻十四貞観九年十月十三日条。

    松岡久人『安芸厳島社』、法蔵館、一九八六年。

    『左経記』寛仁元年十月二日条。

    『平家物語』大塔建立、『古事談』第五神社仏事、『大塔興廃日記』など。

    「願文」。

    「藤原成範等連署書状写」(赤松氏の前掲35論文にテキストがある)。

    『山槐記』保元四年正月二十一日条。

    赤松氏前掲35論文。

    『山槐記』永暦元年八月五日条。

    承安元年(一一七一)の「伊都岐島社神宝調進状」(野坂文書三一五、『神道大系』神社編「厳島」所収)。

    「女御殿御衣奉納日記」(新出厳島文書七二、『神道大系』神社編厳島所収)。

    『本朝文集』(『神道大系』神社編厳島所収)。

    「御手摺書正躰供養日記」(野坂文書三二〇、『神道大系』神社編厳島所収)。

    『山槐記』治承二年十一月十二日条。

    治承四年(一一八〇)の「高倉院厳島御幸記」(『神道大系』神社編厳島所収)。

    『愚管抄』同巻五「安徳」。

    『平家物語』巻第三「大塔建立」では「さては安芸の厳島、越前の気比の宮は、両界の垂跡」とあり、『古事談』第五神社仏事には「日本国之大日如来ハ伊勢大明神ト安芸之厳島也 太神宮ハアマリ幽玄也 汝適為国司 早可奉仕厳島」とある。さらに『法暦間記』(『群書類従』巻四五八)には「安芸厳島ハ胎蔵界也」とある。いずれも鎌倉時代成立の資料だが、伊都岐島神の本地仏は胎蔵界の大日如来としている。ちなみに胎蔵界大日の三昧耶形は五輪塔である。

    『山槐記』治承二年十月十四日条。

    高橋昌明「福原の夢 清盛と対外貿易」、『歴史のなかの神戸と平家』所収、神戸新聞総合出版センター、一九九九年。
    なお、清盛の千僧供養は、次の通りである。
    仁安四年(一一六九)三月二十一日、福原にて、(『兵範記』)。
    承安元年(一一七一)十月二十三日、福原にて、(『玉葉』)。
    承安二年(一一七二)三月十五日~十七日、福原にて、(『百錬抄』『玉葉』)。
    同年十月十五日~十七日、福原和田浜にて、(『百錬抄』『玉葉』)。
    承安三年(一一七三)三月十四日~二十日頃、福原にて、(『玉葉』)。
    承安四年(一一七四)十月、厳島にて、(「伊都岐島千僧供養日記」)。
    安元元年(一一七五)十月十一日~十五日頃、福原にて、(『玉葉』)。
    安元三年(一一七七)三月十八日~二十日、福原にて、(『玉葉』『百錬抄』)。
    安元三年(一一七七)十月、厳島にて、(「厳島千僧供養日記」)。

    平家納経を考えるときに香川県本紫紙銀地彩色見返絵法華経八巻は関連性が高いが、ここでは両者の様式的共通点の検討とその意味の考察には立ち入らず別稿を期す。

    徳子の年齢については二説があり、『皇代暦』『女院次第』によれば平家納経時には八歳、『女院記』『華頂要略』『山槐記』では十歳となる。『女院小伝』は「承安元年十五歳」とするが、傍注をして「十七歟」としている。一般には『山槐記』治承二年(一一七八)六月二十八日条に「中宮 徳子、御歳廿四、六波羅入道前太政大臣二女、母贈左大臣時信公女、二品時子尼」とあることによって、久寿二年(一一五五)の生まれとされる。しかし、『山槐記』写本の状況はクリアではない(藤原重雄氏の御教示による)。また亀田孜氏は従来の徳子二女、盛子三女とするのに疑問をいだき、姉妹の順を逆にすると考える(亀田孜「平家納経の絵と今様の歌」、『仏教芸術』第一〇〇号、一九七五年。なお、前掲注(49)の文書は、徳子を「六波羅太政大臣三女」とする)。また田中重久氏は徳子生年を保元二年(一一五七)とする(田中重久「公卿平氏と伊賀平氏の分析」、『古代學』第十五巻第二号、一九六八年)。須田春子氏は、盛子(白河殿)を保元元年(一一五六)生まれ、徳子より一つ年長の異母姉とする(須田春子「女人入眼の日本国(一)―平氏・清盛傘下の女院―」、『古代文化論攷』第六号、一九八六年)。したがって徳子は保元二年生まれとしている。列記して後考に俟つ。

    前掲注(1)(2)拙稿。

    後藤丹治「源氏一品経と源氏表白」、『国語国文の研究』第四八号、一九三〇年。
    寺本直彦「源氏物語受容史の諸問題」第二節、『源氏物語受容史論考』後編所収、風間書房、一九七〇年。
    久保田淳「『源氏物語』と藤原定家、親忠女及びその周辺」、『藤原定家とその時代』所収、岩波書店、一九九四年。

    『今鏡』巻十「つくり物がたりのゆくゑ」(藤原為経寂超著、嘉応二年一一七〇成立か)が源氏物語狂言綺語感の初見である。「妄語などいふべきにはあらず。わが身になき事を、あり顔にげにげにといひて、人のわろきをよしと思はせなどするこそ、そらことなどはいひて、罪得る事にはあれ」とある。ついで『宝物集』巻五(平康頼著、治承年間成立)には、「マチカクハ紫式部カ夢ニ虚言ヲ以源氏物語ヲ造シ故ニ 地獄ニ堕テ苦ヲ受タリト見ヘシ故ニ 早源氏物語ヲ破リ捨テゝ 一日經ヲ書テトブラヘシト云ケルトテ 歌読共集テ務ナシアヒタリシ也」とあり、やや降って『今物語』(藤原信実著、仁治元年一二四〇頃成立)に、「ある人の夢に、その正体もなきもの、影のやうなるが見えけるを、「あれは何人ぞ」と尋ねければ、「紫式部なり。そらことのみ多くし集めて、人の心をまどはすゆゑに、地獄におちて、苦を受くる事、いとたへがたし。源氏の物語の名を具して、なもあみだ仏という歌を、巻ごとに人々に詠ませて、我が苦しみをとぶらひ給へ」と言ひければ、「いかやうに詠むべきにか」と尋ねけるに、きりつぼに迷はん闇も晴るばかりなもあみだ仏と常にいはなんとぞ言ひける。」とある。『宝物集』以外は親忠女の前の夫とその間の孫であることに注意。

    『源氏一品経 導師同前』(『拾珠抄』第一所収)澄憲著
    「(前略)紫式部亡霊昔託人夢 告罪根重 爰信心大施主禪定比丘尼 一爲救彼制作之幽魂 一爲済其見聞之諸人 殊勸道俗貴賤 書寫法華二十八品之眞文 巻々端圖源氏之一篇 蓋轉煩惱爲菩提也 經品々即宛物語篇目(中略)今比丘尼濟物 飜數篇艶詞之過 歸一實相之理 爲三菩提之因 彼一時此一時也 共離苦海同登覺岸」

    『新勅撰集』巻第十釈教の藤原宗家の歌。宗家は治承三年(一一七九)権大納言、文治五年(一一八九)没。

    『藤原隆信朝臣集』下釈教の歌。隆信(一一四二~一二〇五)は正四位下左京大夫に至る。

    久保田氏前掲注(61)著書三〇〇頁。

    寺本氏前掲注(61)著書「後編第二節 中世歌壇における詠源氏物語和歌」の六八八頁から六九七頁から引用すると、

    (1)『長秋詠藻』中、恋歌(一一七八献進)
     寄源氏名恋
     恨みてもなほたのむかな澪標深き江にある印と思へば

    (2)『千載集』巻十四、恋四(一一八七成立)
     寄源氏物語恋といふ心をよみ侍りける
     見せばやな露のゆかりの玉かづら心にかけてしのぶけしきを
     逢坂の名を忘れにし中なれど堰きやられぬは涙なりけり

    (3)『清輔朝臣集』(清輔、一一〇四~一一七七)
     寄源氏恋
     逢ふ事はかたびさしなる槇ばしらふす夜も知らぬ恋もする哉

    (4)『頼政卿集』(頼政、一一〇四~一一八〇)
     寄源氏恋 歌林苑
     人しれず物をぞ思ふ野分してこ簾吹く風にひまはみねども

    (5)『忠度朝臣集』(忠度、一一四四~一一八四)
     寄源氏恋
     あふとみる夢さめぬればつらきかな旅ねの床にかよふ松かぜ

    (6)『経正朝臣集』(一一八二作進)
     寄源氏恋
     おもひかねこひなぐさめのゑあはせにきみがすがたをうつしけるかな

    (7)『実家卿集』下、恋(一一四五~一一九三)
     源しのまきによする
     むねにたくおもひぞたぐふかがり火のかけはなれたつ人をこふとて

    (8)『小侍従集』(一一二一ごろ~一二〇一)
     源氏によする恋(寄源氏恋)
     帚木のありしふせやを思ふにもうかりし鳥の音こそ忘れね

    (9)『明日香井和歌集』恋(雅経、一一七〇~一二二一)
     寄源氏恋
     もらすなよ只手ならひとことよせてかき流したる水茎のあと

    (10)『信生法師集』(一一七二~一二五九)
     寄源氏名恋
     ほに出ぬかずならぬ身やうき舟のしたにこがれて世をわたるらん

    など

    谷山茂「平家の歌人」、『和歌文学の世界・第一集』、一九七三年。
    平氏の人々と御子左家及び藤原為忠の家系は、『源氏物語』を通じて近しい関係にあったと思われる。
    なお、忠盛の詠歌の「明石の浦風」とは、『源氏物語』「明石巻」の明石の入道が舟を仕立てて須磨浦に光源氏を迎えに来るという設定と対応している可能性がある。

    寺本氏前掲注(61)論文を参照。

    住吉明神とは、表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神であり、記紀に伊弉諾尊が黄泉の国の汚穢を清めるため、筑紫の日向で禊祓をしたときに海から生まれた神とされる。『日本書紀』では神功皇后に神威をあらわしたとされる。摂津・住吉神社にはこの三神を祀り、のちに神功皇后をも祀った。『万葉集』巻第十九(四二四五)には、「天平五年贈入唐使歌一首」があり、海上往来の安全を祈る神として早くから信仰さたことが知られる。

    藤原克己「たけき宿世―明石の君の人物造型―」、『国文学解釈と鑑賞』別冊、一九九八年五月。
    多田一臣「須磨・明石巻の基底―住吉信仰をめぐって―」、『国文学解釈と鑑賞』別冊、一九九八年六月。

    石川徹「光源氏須磨流謫の構想の源泉―日本紀の御局新考―」、『平安時代文学論』所収、笠間書院、一九八〇年。

    石川氏前掲(72)論文の二七七頁に、「夜光玉」とは龍王の女の持物であるとの解釈について詳説がある。
    なお、柳井滋「源氏物語と霊験譚の交渉」(『源氏物語研究と資料―古代文学論叢第一輯―』所収、武蔵野書院、一九六九年)にも言及がある。

    光源氏の六条邸は春夏秋冬の四季を強く意識したものであり、それは四方に四季を配した海龍王の館と同じ意味を持つ。石川徹「明石の上論」(『平安時代文学論』所収)を参照。

    『弘安源氏論義』に『源氏物語』は。「世にもてなすことは、すべらぎのかしこき御代にはやすくやはらげる時よりひろまり(中略)古よりかく伝はれるなかにも、堀川の院の御時よりぞもてなされける」とある。

    『長秋記』元永二年(一一一九)十一月二十七日条によれば、白河院政、鳥羽天皇の時に源氏物語絵巻が制作が企図された。
     「午刻参院、加賀権守忠基於中宮御方申昇殿慶。平等院僧正被参、依中宮御惱平癒、昨日被給院御馬云々、基次語云、今於除目、三位中将可任中納言給(中略)入夜参東面御方、上皇毎事有思□云々、参中宮御方、以中将君被仰云、源氏絵間紙調進、申承由、又上皇仰云、画図可進者、同申承由」

    稲賀敬二「『源氏秘義抄』附載の仮名陳情―法成寺殿・花園左府等筆廿巻本源氏物語絵巻について―」、『国語と国文学』、一九六四年六月号。
    寺本直彦「源氏絵陳状考(上)(下)」、『国語と国文学』一九六四年九月号・十一月号。
    伊井春樹「院政期源氏学の諸相―『源氏物語注釈』所収古注逸文の性格―」、『源氏物語注釈史の研究 室町前期』所収、桜楓社、一九八〇年。

    秋山光和「源氏物語絵巻の構成と技法」、『平安時代世俗画の研究』所収、吉川弘文館、一九六四年。
    秋山光和「源氏物語の情景選択法と源氏絵の伝統」、『平安時代世俗画の研究』所収、吉川弘文館、一九六四年。
    秋山光和『源氏物語絵巻』(新修日本絵巻物全集)、角川書店、一九七五年。
    秋山光和「院政期における女房の絵画制作―土佐の局と紀伊の局―」、『古代・中世の社会と思想』所収、三省堂、一九七九年
    徳川義宣「『源氏物語絵巻』成立の背景とその形態」、『日本絵巻大成1』所収、中央公論社、一九七七年。
    なお、『長秋記』にあらわれた源氏物語絵巻と、建礼門院右京大夫の女院御所に伝来した源氏物語絵巻との関係、更には現存の徳川黎明会及び五島美術館本の源氏物語絵巻との関係については、別稿を要する。

    池田亀鑑『源氏物語大成』巻七第二章第四節、中央公論社、一九五六年。

    糸賀きみ江「恋と追憶のモノローグ」、『新潮日本古典集成建礼門院右京大夫集』解説、新潮社、一九七九年

    須田春子「女人入眼の日本国―平氏・清盛傘下の女院―」、『古代文化史論攷』第六号、一九八六年。

    『兵範記』仁安元年九月七日条。
    「取御願文 内蔵権頭長光朝臣作之 宮内少輔伊行清書 用紫裏白色紙 無薄 有北政所御署」

    『兵範記』保元三年(一一五八)十二月十八日条。

    『兵範記』長寛二年(一一六四)閏十月十七日条。

    『兵範記』久寿二年(一一五五)十月二十三日条。
    於法性寺殿最勝金剛院、被行故北政所御法事
    「御願文、挿鳥口、倚立御経机西方、散位実重朝臣作進之、宮内小輔伊行清書之、用紫無薄色紙、皇嘉門院別当左衛門督重通卿加署」

    久保田淳「平家文化の中の『源氏物語』」、『文学』第五十巻第七号、一九八二年。

    『世尊寺現過録、懐雅記』(貞治元年=一三六二年成立)による。

    白畑よし『藤原伊行筆倭漢朗詠抄下絵解』、私家版、一九八九年。

    生澤喜美恵「平家文化とその周辺」、『日本文学史』第四巻変革期の文学一所収、岩波書店、一九九六年。

    小松茂美『小松茂美著作集』第十三巻、平家納経の研究五(四四三~四四五頁)、旺文社、一九九六年。

    田中塊堂『書道全集』第十八巻解説、平凡社、一九五六年
    ただし、これに対して後に小松氏は清盛自筆とされている(小松氏著作集第十三巻四八〇頁)。

    島谷弘幸「一品経の白眉「平家納経」の書」、『平家納経と厳島の捧物』所収、広島県立美術館、一九九七年。

    岩波文庫本『建礼門院右京大夫集』の七八番歌。

    白畑よし「平家納経の歌絵と芦手―梁塵秘抄による今様の歌―」、『美術史論集』1号、神戸大学美術史研究会、二〇〇一年。
    白畑氏の諸論攷から得るところがたいへんに多かった。記して学恩に感謝したい。

    白畑よし「松平伯爵家蔵法華経見返絵に就いて」、『美術研究』一三七号、一九四四年。

    『女院次第』に「元暦三五廿八爲尼 廿九歳 眞如覺」、『后宮略伝』に「文治元年出家 法名眞如覺」とある。
    なお、橋村愛子氏(兵庫県立歴史博物館)は、香川県本色紙法華経を建礼門院の所持本と解釈している。

    注(49)及び、「建春門院神宝注文」(野坂文書三一六、『神道大系』神社編厳島所収)。

【謝 辞】
 厳島社の野坂元良宮司には、当館の特別展に際して平家納経の御出陳を再三お許しいただきました。ここに深甚の謝意を表します。また一九九七年に広島県立美術館で開催された「平家納経と厳島の宝物」展からは多くの示唆を得ました。併せて企画者に感謝申し上げます。

(かじたに りょうじ 当館学芸課長)

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