拙稿「法華経見返絵の展開」、『法華経―写経と荘厳』所収、奈良国立博物館、一九八七年。
拙稿「我が国における仏教説話絵の展開」、『仏教説話絵』所収、奈良国立博物館、一九九六年。
河田貞「法華経絵意匠の展開―平家納経経箱の装飾文を中心として―」、『仏教芸術』一三二号、一九八〇年。
内藤栄「密観宝珠形舎利容器について」、『鹿園雜集』創刊号、一九九九年。
『東長大事』 高崎・慈眼寺蔵 嘉暦二年(一三二七)成立。
杉橋隆夫「四天王寺所蔵「如意宝珠御修法日記」・「同」紙背(富樫氏関係)文書について」、『史林』第五三巻三号、一九七〇年。
阿部泰郎「宝珠と王権―中世王権と密教儀礼―」、『岩波講座東洋思想』第一六巻日本思想二所収、岩波書店、一九八九年。
大覚寺聖教・文書研究会「大覚寺聖教・文書」、『古文書研究』第四〇号、一九九五年。
田中貴子『外法と愛法の中世』、砂子屋書房、一九九三年。
舎利と宝珠同体のことを明確に述べる(『秘抄』巻十四)。
『大日本史料』四-四、建久三年四月八日条に関係史料が掲載されている。
『胡宮神社文書』、写真版が赤松俊秀『平家物語の研究』(法蔵館、一九八〇年)にある。
文書「仏舎利相承次第」は清盛白河院皇胤説の根拠となる史料であり価値は高い。清盛皇胤説には諸説があるがここで深くはふれず、ただ竹内理三氏の肯定的研究(『日本の歴史』六武士の登場、中央公論社、一九六五年)にしたがいたい。『平家物語』は清盛の父は白河院、母は祇園女御であるとする。
『今鏡』に関連の正盛・忠盛説話、『古事談』に忠盛説話がみえる。
以下、和田英松『国史国文之研究』(有山閣、一九二六年)による。
『中右記』長治二年十月二十六日条。
『中右記』嘉祥元年七月五日条。
『中右記』天仁元年二月十六日条。
『一条法眼記』等(杉山信三『院家建築の研究』、吉川弘文館、一九八一年)。
なお、『永昌記』天治元年(一一二四)五月二十五日条百躰愛染供養の記録があるが、これは白河院のために仁和寺寛助が導師となる。寛助は晩年は平忠盛の寄進を受けて東南院を開創し、等身の尊勝仏頂尊、大威徳明王を安置した。
『殿暦』永久元年十月一日条。『長秋記』同日条。
六波羅蜜堂はこれより先、天永元年(一一一〇)に完成供養された。導師は範俊である(『江都督納言願文集』)。範俊弟子の範延は正盛の男(高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆―』、平凡社、一九八四年)。
『長秋記』大治四年七月十六日条。
『中右記』大治四年閏七月二十五日条。
『二十二社註式』には承平五年(九三五)の太政官符を掲げている。村山修一「祇園社の御霊神的発展」、『本地垂迹』所収、吉川弘文館、一九七四年。
京都・大蓮寺蔵。
伊東史朗「祇園社舊本地観慶寺薬師如来立像について」、『國華』一一三二号、一九九〇年。
『中右記』大治二年六月十四日条。
『中右記』大治四年六月十四日条。
『中右記』長承二年六月十四日条。
『山槐記』治承三年六月十四日条。
『続古事談』第四「神社仏寺」に、「祇園ノ宝殿ノ中ニハ龍穴アリトナムイフ。延久ノ焼亡ノ時、梨本ノ座主ソノフカサヲハカラムトセラレケレバ、五十丈ニヲヨビテ猶ソコナシトゾ(下略)」とある。
『★★(ホキ)内伝金烏玉兎集』所収の「祇園牛頭天王縁起」(西田長男「祇園牛頭天王縁起の諸本」、『神道史研究』第十巻第六号、一九六二年)にテキストと解説がある。
また、河原正彦「祇園御霊会と少将井信仰―行疫神と水神信仰との抵触―」、『日本文化史論集』、一九六二年。脇田晴子『中世京都と祇園祭』、中央公論新社、一九九九年など。
『女神たちの日本』、サントリー美術館、一九九四年。
『台記』久安三年六月十五日条。『本朝世紀』同日条。
後年、建礼門院徳子の御産時には大神宮、今熊野、伊都岐島とともに祇園社にも祈られた。清盛が晩年住した福原和田京の雪御所北東近傍にも祇園社が坐すことも看過できない。
田中氏前掲著一五七~一六〇頁。
赤松俊秀「平清盛の信仰について」、『平家物語の研究』所収、法蔵館、一九八〇年。
武笠朗「平清盛の信仰と平氏の造寺・造仏」上下、『実践女子大学美學美術史學』第一三・一四号、一九九八・一九九九年。
なお、その後「仏舎利相承次第」に清盛から舎利を伝授したとある観音房の実在が確認される(静岡・願成就院蔵、木像不動三尊及毘沙門天立像胎内納入五輪塔形銘札に「執筆南無観音」とあるのがその人だろう。当館の岩田茂樹氏から御教示を得た)。観音房は清盛重臣の平盛国の子か孫である。さらに舎利は観音房から高倉局に相伝したとする別伝(「牙舎利分布八粒」『来迎寺文書』、高倉局は澄憲女)があって、この相伝には醍醐寺有縁の尼真阿弥陀仏(信西孫、一説に阿波内侍と同一人)が関わる(土谷恵「願主と尼」『シリーズ女性と仏教1 尼と尼寺』所収、平凡社、一九八九年。田中前掲書など)。真阿弥陀仏は鎌倉初期の造仏結縁者としてしばしば名が見える。これ以上煩瑣を避けるが文書「仏舎利相承次第」の価値・意味は看過できない。
『日本後記』巻二十一、弘仁二年七月己酉日条。
『日本三代実録』巻一貞観元年正月二十七日条、同巻二貞観元年三月二十六日条、同巻十四貞観九年十月十三日条。
松岡久人『安芸厳島社』、法蔵館、一九八六年。
『左経記』寛仁元年十月二日条。
『平家物語』大塔建立、『古事談』第五神社仏事、『大塔興廃日記』など。
「願文」。
「藤原成範等連署書状写」(赤松氏の前掲35論文にテキストがある)。
『山槐記』保元四年正月二十一日条。
赤松氏前掲35論文。
『山槐記』永暦元年八月五日条。
承安元年(一一七一)の「伊都岐島社神宝調進状」(野坂文書三一五、『神道大系』神社編「厳島」所収)。
「女御殿御衣奉納日記」(新出厳島文書七二、『神道大系』神社編厳島所収)。
『本朝文集』(『神道大系』神社編厳島所収)。
「御手摺書正躰供養日記」(野坂文書三二〇、『神道大系』神社編厳島所収)。
『山槐記』治承二年十一月十二日条。
治承四年(一一八〇)の「高倉院厳島御幸記」(『神道大系』神社編厳島所収)。
『愚管抄』同巻五「安徳」。
『平家物語』巻第三「大塔建立」では「さては安芸の厳島、越前の気比の宮は、両界の垂跡」とあり、『古事談』第五神社仏事には「日本国之大日如来ハ伊勢大明神ト安芸之厳島也 太神宮ハアマリ幽玄也 汝適為国司 早可奉仕厳島」とある。さらに『法暦間記』(『群書類従』巻四五八)には「安芸厳島ハ胎蔵界也」とある。いずれも鎌倉時代成立の資料だが、伊都岐島神の本地仏は胎蔵界の大日如来としている。ちなみに胎蔵界大日の三昧耶形は五輪塔である。
『山槐記』治承二年十月十四日条。
高橋昌明「福原の夢 清盛と対外貿易」、『歴史のなかの神戸と平家』所収、神戸新聞総合出版センター、一九九九年。
なお、清盛の千僧供養は、次の通りである。
仁安四年(一一六九)三月二十一日、福原にて、(『兵範記』)。
承安元年(一一七一)十月二十三日、福原にて、(『玉葉』)。
承安二年(一一七二)三月十五日~十七日、福原にて、(『百錬抄』『玉葉』)。
同年十月十五日~十七日、福原和田浜にて、(『百錬抄』『玉葉』)。
承安三年(一一七三)三月十四日~二十日頃、福原にて、(『玉葉』)。
承安四年(一一七四)十月、厳島にて、(「伊都岐島千僧供養日記」)。
安元元年(一一七五)十月十一日~十五日頃、福原にて、(『玉葉』)。
安元三年(一一七七)三月十八日~二十日、福原にて、(『玉葉』『百錬抄』)。
安元三年(一一七七)十月、厳島にて、(「厳島千僧供養日記」)。
平家納経を考えるときに香川県本紫紙銀地彩色見返絵法華経八巻は関連性が高いが、ここでは両者の様式的共通点の検討とその意味の考察には立ち入らず別稿を期す。
徳子の年齢については二説があり、『皇代暦』『女院次第』によれば平家納経時には八歳、『女院記』『華頂要略』『山槐記』では十歳となる。『女院小伝』は「承安元年十五歳」とするが、傍注をして「十七歟」としている。一般には『山槐記』治承二年(一一七八)六月二十八日条に「中宮 徳子、御歳廿四、六波羅入道前太政大臣二女、母贈左大臣時信公女、二品時子尼」とあることによって、久寿二年(一一五五)の生まれとされる。しかし、『山槐記』写本の状況はクリアではない(藤原重雄氏の御教示による)。また亀田孜氏は従来の徳子二女、盛子三女とするのに疑問をいだき、姉妹の順を逆にすると考える(亀田孜「平家納経の絵と今様の歌」、『仏教芸術』第一〇〇号、一九七五年。なお、前掲注(49)の文書は、徳子を「六波羅太政大臣三女」とする)。また田中重久氏は徳子生年を保元二年(一一五七)とする(田中重久「公卿平氏と伊賀平氏の分析」、『古代學』第十五巻第二号、一九六八年)。須田春子氏は、盛子(白河殿)を保元元年(一一五六)生まれ、徳子より一つ年長の異母姉とする(須田春子「女人入眼の日本国(一)―平氏・清盛傘下の女院―」、『古代文化論攷』第六号、一九八六年)。したがって徳子は保元二年生まれとしている。列記して後考に俟つ。
前掲注(1)(2)拙稿。
後藤丹治「源氏一品経と源氏表白」、『国語国文の研究』第四八号、一九三〇年。
寺本直彦「源氏物語受容史の諸問題」第二節、『源氏物語受容史論考』後編所収、風間書房、一九七〇年。
久保田淳「『源氏物語』と藤原定家、親忠女及びその周辺」、『藤原定家とその時代』所収、岩波書店、一九九四年。
『今鏡』巻十「つくり物がたりのゆくゑ」(藤原為経寂超著、嘉応二年一一七〇成立か)が源氏物語狂言綺語感の初見である。「妄語などいふべきにはあらず。わが身になき事を、あり顔にげにげにといひて、人のわろきをよしと思はせなどするこそ、そらことなどはいひて、罪得る事にはあれ」とある。ついで『宝物集』巻五(平康頼著、治承年間成立)には、「マチカクハ紫式部カ夢ニ虚言ヲ以源氏物語ヲ造シ故ニ 地獄ニ堕テ苦ヲ受タリト見ヘシ故ニ 早源氏物語ヲ破リ捨テゝ 一日經ヲ書テトブラヘシト云ケルトテ 歌読共集テ務ナシアヒタリシ也」とあり、やや降って『今物語』(藤原信実著、仁治元年一二四〇頃成立)に、「ある人の夢に、その正体もなきもの、影のやうなるが見えけるを、「あれは何人ぞ」と尋ねければ、「紫式部なり。そらことのみ多くし集めて、人の心をまどはすゆゑに、地獄におちて、苦を受くる事、いとたへがたし。源氏の物語の名を具して、なもあみだ仏という歌を、巻ごとに人々に詠ませて、我が苦しみをとぶらひ給へ」と言ひければ、「いかやうに詠むべきにか」と尋ねけるに、きりつぼに迷はん闇も晴るばかりなもあみだ仏と常にいはなんとぞ言ひける。」とある。『宝物集』以外は親忠女の前の夫とその間の孫であることに注意。
『源氏一品経 導師同前』(『拾珠抄』第一所収)澄憲著
「(前略)紫式部亡霊昔託人夢 告罪根重 爰信心大施主禪定比丘尼 一爲救彼制作之幽魂 一爲済其見聞之諸人 殊勸道俗貴賤 書寫法華二十八品之眞文 巻々端圖源氏之一篇 蓋轉煩惱爲菩提也 經品々即宛物語篇目(中略)今比丘尼濟物 飜數篇艶詞之過 歸一實相之理 爲三菩提之因 彼一時此一時也 共離苦海同登覺岸」
『新勅撰集』巻第十釈教の藤原宗家の歌。宗家は治承三年(一一七九)権大納言、文治五年(一一八九)没。
『藤原隆信朝臣集』下釈教の歌。隆信(一一四二~一二〇五)は正四位下左京大夫に至る。
久保田氏前掲注(61)著書三〇〇頁。
寺本氏前掲注(61)著書「後編第二節 中世歌壇における詠源氏物語和歌」の六八八頁から六九七頁から引用すると、
(1)『長秋詠藻』中、恋歌(一一七八献進)
寄源氏名恋
恨みてもなほたのむかな澪標深き江にある印と思へば
(2)『千載集』巻十四、恋四(一一八七成立)
寄源氏物語恋といふ心をよみ侍りける
見せばやな露のゆかりの玉かづら心にかけてしのぶけしきを
逢坂の名を忘れにし中なれど堰きやられぬは涙なりけり
(3)『清輔朝臣集』(清輔、一一〇四~一一七七)
寄源氏恋
逢ふ事はかたびさしなる槇ばしらふす夜も知らぬ恋もする哉
(4)『頼政卿集』(頼政、一一〇四~一一八〇)
寄源氏恋 歌林苑
人しれず物をぞ思ふ野分してこ簾吹く風にひまはみねども
(5)『忠度朝臣集』(忠度、一一四四~一一八四)
寄源氏恋
あふとみる夢さめぬればつらきかな旅ねの床にかよふ松かぜ
(6)『経正朝臣集』(一一八二作進)
寄源氏恋
おもひかねこひなぐさめのゑあはせにきみがすがたをうつしけるかな
(7)『実家卿集』下、恋(一一四五~一一九三)
源しのまきによする
むねにたくおもひぞたぐふかがり火のかけはなれたつ人をこふとて
(8)『小侍従集』(一一二一ごろ~一二〇一)
源氏によする恋(寄源氏恋)
帚木のありしふせやを思ふにもうかりし鳥の音こそ忘れね
(9)『明日香井和歌集』恋(雅経、一一七〇~一二二一)
寄源氏恋
もらすなよ只手ならひとことよせてかき流したる水茎のあと
(10)『信生法師集』(一一七二~一二五九)
寄源氏名恋
ほに出ぬかずならぬ身やうき舟のしたにこがれて世をわたるらん
など
谷山茂「平家の歌人」、『和歌文学の世界・第一集』、一九七三年。
平氏の人々と御子左家及び藤原為忠の家系は、『源氏物語』を通じて近しい関係にあったと思われる。
なお、忠盛の詠歌の「明石の浦風」とは、『源氏物語』「明石巻」の明石の入道が舟を仕立てて須磨浦に光源氏を迎えに来るという設定と対応している可能性がある。
寺本氏前掲注(61)論文を参照。
住吉明神とは、表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神であり、記紀に伊弉諾尊が黄泉の国の汚穢を清めるため、筑紫の日向で禊祓をしたときに海から生まれた神とされる。『日本書紀』では神功皇后に神威をあらわしたとされる。摂津・住吉神社にはこの三神を祀り、のちに神功皇后をも祀った。『万葉集』巻第十九(四二四五)には、「天平五年贈入唐使歌一首」があり、海上往来の安全を祈る神として早くから信仰さたことが知られる。
藤原克己「たけき宿世―明石の君の人物造型―」、『国文学解釈と鑑賞』別冊、一九九八年五月。
多田一臣「須磨・明石巻の基底―住吉信仰をめぐって―」、『国文学解釈と鑑賞』別冊、一九九八年六月。
石川徹「光源氏須磨流謫の構想の源泉―日本紀の御局新考―」、『平安時代文学論』所収、笠間書院、一九八〇年。
石川氏前掲(72)論文の二七七頁に、「夜光玉」とは龍王の女の持物であるとの解釈について詳説がある。
なお、柳井滋「源氏物語と霊験譚の交渉」(『源氏物語研究と資料―古代文学論叢第一輯―』所収、武蔵野書院、一九六九年)にも言及がある。
光源氏の六条邸は春夏秋冬の四季を強く意識したものであり、それは四方に四季を配した海龍王の館と同じ意味を持つ。石川徹「明石の上論」(『平安時代文学論』所収)を参照。
『弘安源氏論義』に『源氏物語』は。「世にもてなすことは、すべらぎのかしこき御代にはやすくやはらげる時よりひろまり(中略)古よりかく伝はれるなかにも、堀川の院の御時よりぞもてなされける」とある。
『長秋記』元永二年(一一一九)十一月二十七日条によれば、白河院政、鳥羽天皇の時に源氏物語絵巻が制作が企図された。
「午刻参院、加賀権守忠基於中宮御方申昇殿慶。平等院僧正被参、依中宮御惱平癒、昨日被給院御馬云々、基次語云、今於除目、三位中将可任中納言給(中略)入夜参東面御方、上皇毎事有思□云々、参中宮御方、以中将君被仰云、源氏絵間紙調進、申承由、又上皇仰云、画図可進者、同申承由」
稲賀敬二「『源氏秘義抄』附載の仮名陳情―法成寺殿・花園左府等筆廿巻本源氏物語絵巻について―」、『国語と国文学』、一九六四年六月号。
寺本直彦「源氏絵陳状考(上)(下)」、『国語と国文学』一九六四年九月号・十一月号。
伊井春樹「院政期源氏学の諸相―『源氏物語注釈』所収古注逸文の性格―」、『源氏物語注釈史の研究 室町前期』所収、桜楓社、一九八〇年。
秋山光和「源氏物語絵巻の構成と技法」、『平安時代世俗画の研究』所収、吉川弘文館、一九六四年。
秋山光和「源氏物語の情景選択法と源氏絵の伝統」、『平安時代世俗画の研究』所収、吉川弘文館、一九六四年。
秋山光和『源氏物語絵巻』(新修日本絵巻物全集)、角川書店、一九七五年。
秋山光和「院政期における女房の絵画制作―土佐の局と紀伊の局―」、『古代・中世の社会と思想』所収、三省堂、一九七九年
徳川義宣「『源氏物語絵巻』成立の背景とその形態」、『日本絵巻大成1』所収、中央公論社、一九七七年。
なお、『長秋記』にあらわれた源氏物語絵巻と、建礼門院右京大夫の女院御所に伝来した源氏物語絵巻との関係、更には現存の徳川黎明会及び五島美術館本の源氏物語絵巻との関係については、別稿を要する。
池田亀鑑『源氏物語大成』巻七第二章第四節、中央公論社、一九五六年。
糸賀きみ江「恋と追憶のモノローグ」、『新潮日本古典集成建礼門院右京大夫集』解説、新潮社、一九七九年
須田春子「女人入眼の日本国―平氏・清盛傘下の女院―」、『古代文化史論攷』第六号、一九八六年。
『兵範記』仁安元年九月七日条。
「取御願文 内蔵権頭長光朝臣作之 宮内少輔伊行清書 用紫裏白色紙 無薄 有北政所御署」
『兵範記』保元三年(一一五八)十二月十八日条。
『兵範記』長寛二年(一一六四)閏十月十七日条。
『兵範記』久寿二年(一一五五)十月二十三日条。
於法性寺殿最勝金剛院、被行故北政所御法事
「御願文、挿鳥口、倚立御経机西方、散位実重朝臣作進之、宮内小輔伊行清書之、用紫無薄色紙、皇嘉門院別当左衛門督重通卿加署」
久保田淳「平家文化の中の『源氏物語』」、『文学』第五十巻第七号、一九八二年。
『世尊寺現過録、懐雅記』(貞治元年=一三六二年成立)による。
白畑よし『藤原伊行筆倭漢朗詠抄下絵解』、私家版、一九八九年。
生澤喜美恵「平家文化とその周辺」、『日本文学史』第四巻変革期の文学一所収、岩波書店、一九九六年。
小松茂美『小松茂美著作集』第十三巻、平家納経の研究五(四四三~四四五頁)、旺文社、一九九六年。
田中塊堂『書道全集』第十八巻解説、平凡社、一九五六年
ただし、これに対して後に小松氏は清盛自筆とされている(小松氏著作集第十三巻四八〇頁)。
島谷弘幸「一品経の白眉「平家納経」の書」、『平家納経と厳島の捧物』所収、広島県立美術館、一九九七年。
岩波文庫本『建礼門院右京大夫集』の七八番歌。
白畑よし「平家納経の歌絵と芦手―梁塵秘抄による今様の歌―」、『美術史論集』1号、神戸大学美術史研究会、二〇〇一年。
白畑氏の諸論攷から得るところがたいへんに多かった。記して学恩に感謝したい。
白畑よし「松平伯爵家蔵法華経見返絵に就いて」、『美術研究』一三七号、一九四四年。
『女院次第』に「元暦三五廿八爲尼 廿九歳 眞如覺」、『后宮略伝』に「文治元年出家 法名眞如覺」とある。
なお、橋村愛子氏(兵庫県立歴史博物館)は、香川県本色紙法華経を建礼門院の所持本と解釈している。
注(49)及び、「建春門院神宝注文」(野坂文書三一六、『神道大系』神社編厳島所収)。