『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行


─研究ノート─

平家納経雑感

梶谷 亮治



 一 平家納経の問題


 平清盛(一一一八~八一)の「願文」によれば、法華経が形となって顕れたものが観音菩薩であり、その観音菩薩が神となって化現したのが厳島社の祭神である伊都伎島大明神であるという。清盛は因縁あってこの伊都伎島神を欽仰し、現世の栄華を感謝し来世の妙果を願い、法華経一部二十八品、無量義・観普賢・阿弥陀・般若心等経各一巻を書写しこれを金銅篋一合に納めて宝殿に安置した(ただしこのうち現存の般若心経は、奥書にある通り、仁安二年(一一六七)清盛が太政大臣に任じた折りに新たに書写、奉納したものであり、清盛願文に云う当初の般若心経とは取り替わったものである)。さらには爾後法華三十講を年事として開莚し、社殿を「真如之宮」と荘厳し、供物を捧げるなど厳島社への帰依を誓い、重ねて往生極楽を願っている。

 法華経見返絵のなかで、この平家納経の見返絵は変化にとんでいてまことに興味深い存在である。『法華経―写経と荘厳』(注1)や『仏教説話絵』(注2)でとり上げ、私なりにいささかの考察を続けてきたが、最近になって清盛の生涯やその信仰に注目して、平家納経の成立にかかわる新たな可能性を推測するようになった。こうした考えを、機会を得て平成十一年六月四日に国文学研究資料館「絵本の会」研究会で報告した。

 平家納経の見返絵は、表現の内容や技法からしていくつかのグループに分類することができる。そのことには何度もふれてきたが、簡単に記すと細密技法で法華経各本の経意を描いたグループと、物語絵の表現をかりて宮廷の信仰生活を描いたグループ、それに蓮池図・獅子図・荘厳具などの人事以外を表現したグループとがある。また経意絵グループの中はそれまでの我が国の紺紙経見返絵にも描かれてきた図様の系統上にあるものと、新たに中国・宋から紹介されたと推測される宋風様式の図様によるものとがある。平家納経にはこのように一見不統一な多種多様の見返絵が描かれていて、そのことが常に気がかりなしこりとなって意識のかたすみに浮遊する。そうした不統一の中で、いわゆる物語絵様に描かれた見返絵の意味するものは何か、考えてみたい。なぜ宮廷生活という(それが信仰生活の表現であったとしても)、経典から離れた現世のモチーフに引き寄せて見返絵が描かれたのだろうか。しかも、平家納経ではこうした見返絵をそなえる経巻は金銀荘経篋に納められており、その経篋は(側面で)宝珠を持つ龍が次第に上昇しつつ、ついには(蓋表で)二頭ながら霊気の中にその宝珠を五輪塔中に奉献したごとくであり、宝珠と舎利(を納める塔)とを同視したと思われるきわめて密教的なモチーフに荘厳されていて、さらに複雑な信仰背景が想像されるのである。


 二 祇園女御と清盛の信仰


 平家納経経篋の荘厳について河田貞氏は、それが法華経提婆品の龍女成仏の表現であろうとされながら、蓋表に二頭の龍が向き合いその上方に五輪塔が浮かぶという異例の図様に注目され、如意宝珠法の本尊画像である摩尼宝珠曼荼羅との形式の近似に注意された(注3)。摩尼宝珠曼荼羅の現存最古の作例とみなされる仁和寺の白描図像本は長寛から承和年間の成立であり、平家納経当時にこうした図様がすでに成立していたことを示されたのは新しい知見である。また最近の内藤栄氏の宝珠に関する研究(注4)によると、平安時代末期から鎌倉時代にかけての醍醐寺では、如意輪観音と宝珠とを同体と見る特別な宝珠信仰が行われていたが、その内容を伝える『東長大事』(注5)には興味深い「如意宝珠曼荼羅」が掲載されている(内藤氏前掲論文の図13)。空海に仮託された能作性の宝珠観を図示したものとみられるが、蓮華上五鈷杵に安置される宝珠を雲上の双龍が見上げる図である。さらに『東長大事』には醍醐寺の勝覚(一〇五七~一一二九)が建立した三尊図(同前の図21)を示している。これは中央に五輪塔、左右に不動明王と愛染明王を配したものである。記述によればこの五輪塔の水輪には二顆の宝珠が納められ、「中尊五輪ハ此如意輪ノ三形也」とする。その後勝賢(一一三八~一一九八)はこれを「三仏如意輪法」と称し秘密に伝えた。注目されるのは「塔婆宝珠一躰異名也」とする記述があることで、これにしたがえば容易に平家納経経篋の意匠が思い浮かぶことになる。五輪塔は如意輪観音であり玉女(皇后・中宮)のイメージと重なり合うであろう。経篋蓋表のモチーフが平安後期の小野流における宝珠信仰を強く意識したものであることは疑いない。清盛がこうした宝珠信仰を知るについては、勝賢が清盛と交誼の深い藤原通憲(信西)(一一〇六~五九)の子息であり、別にはまだ若年だがのちに安徳帝護持僧となる醍醐寺僧良弘(良勝方、一一四二~?)の存在が何らかの役割を果たした可能性も考えられる。

 ところで杉橋隆夫氏(注6)や、阿部泰郎氏(注7)の研究、「大覚寺聖教・文書」(注8)や、田中貴子氏の研究(注9)などによれば実際に平安後期から鎌倉初期の醍醐寺ではさまざまな場面で如意宝珠が修法に用いられていた。駄都(舎利・宝珠)への特別な信仰が真言小野流で勃興したのである。すなわち範俊(一〇三八~一一一二)は承暦四年(一〇七七)に如法愛染法、天仁二年(一一〇九)に如法尊勝法を、勝覚は大治二年(一一二七)に如意宝珠法などの宝珠を中心に据えた修法を始修している。降って勝賢(注10)は元暦元年(一一八四)に如法尊勝法を修し、建久二年(一一九一)歳末には後白河院のために如意宝珠法を修したが霊験なく、はやく鳥羽勝光明院宝蔵に宝珠を返還すべきところしばらくの間住房に安置したようであり、『玉葉』建久三年(一一九二)四月八日条によると、兼実は人を遣ってその宝珠を宮中に取り戻している。記事によればもともと如意宝珠は空海が唐より請来したもので、これは室生山精進峯に埋納され、別に大師所造の宝珠は範俊に相伝されさらに白河院に進められ、法勝寺円堂の本尊愛染明王に籠められた。範俊はさらに別に一つの宝珠を白河院に進め、これを相伝した鳥羽院は寵臣である藤原家成に預け、かの没後これを召返して勝光明院宝蔵に安置したとある。かくしてこの勝光明院宝蔵の如意宝珠は古代を通じて王権の象徴として機能した。さて吉田経房は件の宝珠についてきわめて興味深い説を述べている。『吉部秘訓抄』によると、勝賢から宮中への如意宝珠返還時に蔵人権大夫光綱から聞き及んだこととして、この宝珠は白河院が祇園女御にしばらく預けたものであり、唐櫃中の銀筥には宝珠の外に舎利百粒も同梱されていたという事実を明らかにしている(注11)。ここで想起すべきは「仏舎利相承次第」(注12)である。

 文書「仏舎利相承次第」は、白河院が中国明州・育王山と雁塔山(長安・大慈恩寺か)から各一千粒請来した舎利の相伝系図である。冒頭部分は文暦二年(一二三五)には成立していた。白河院の時に小野流(勧修寺流)で勃興した舎利・宝珠(駄都)への特殊な信仰と関連して興味深い。白河院は没するときにその舎利を祇園女御に相伝し、祇園女御はそれを平清盛に渡したという記述が重要である(注13)。祇園女御は白河院晩年の寵人であったが、『平家物語』が言う清盛の生母ではない。事実はその妹が生母であり、白河院の皇胤をやどしたまま平忠盛(一〇九六~一一五三)に嫁し清盛を生んだが(一一一八年)、清盛三歳の時にわかに没した。祇園女御はこの清盛を猶子として養育した。祖父・正盛、父・忠盛が白河院と同時に祇園女御にも近しい関係であったことは事実である(注14)

 ここで祇園女御の事績を簡単に振り返ると(注15)、長治二年(一一〇五)十月二十六日には祇園社の巽(辰巳)に一堂を建立し丈六阿弥陀仏を安置した。供養導師は範俊であり、公卿殿上人女房等美麗過差の人多数が参列した(注16)。『源平盛衰記』にその邸宅を祇園社巽とするのと関連があろう。嘉祥元年(一一〇六)七月五日、鳥羽御堂で五日十座の五部大乗経講筵を催した。白河院も参じ、女房等は華麗な様子であった(注17)。その後天仁元年(一一〇八)二月十六日に院近臣藤原顕季(一〇五五~一一二三)が建立した仁和寺真乗院で逆修供養をした(注18)。また仁和寺に七間堂宇の威徳寺を建立し百躰の大威徳明王像、半丈六像一躰、等身像五十九躰を安置した(注19)。住坊を伴う大規模な結構であった。永久元年(一一一三)十月一日には正盛の六波羅蜜堂にて一切経供養をした(注20)。公卿殿上人女房等多数が参じた。大治四年(一一二九)七月十六日、白河院葬儀の際に女房四人の筆頭で素服を給された(注21)。その四十九日である大治四年閏七月二十五日には白河新阿弥陀堂にて仏経の供養を主催する。等身釈迦阿弥陀木像、金泥経一部、色紙経二十部等を供養した。この他香隆寺、本住所三箇所で供養した(注22)。年未詳だが『覚禅抄』千手敬愛法(小野秘事)には、「先跡事 白河院御時権僧正範俊被修之 有法験云々 祇園女御奉為院不和之時令修云々」「三形宝珠」などとある。仏事が目立つのが特色である。祇園女御は伝説上の人などではなく白河院晩年に近侍した有力な人物であったことが明らかである。猶子には清盛のほかに、待賢門院璋子(一一〇一~四五)、僧禅寛(安芸阿闍梨)、源有仁(一一〇三~四七)らがいた。ところで上記の事績のうち、範俊の名が二度みえるのが注目される。すでにふれたが範俊は白河院に近い小野流の僧である(晩年鳥羽に住し宝珠法を修して白河院を護持)。白河院をめぐって祇園女御と範俊、そして実は正盛も互いに近しい関係にあったと推測される。白河院から祇園女御への舎利相伝と如意宝珠相伝には範俊の存在が影響を与え、また祇園女御と正盛とを通じて範俊の宗教的規範が清盛の精神に流れ込んだのだろう。

 次には祇園女御の出自に深く関わる祇園社について簡単にふれておく。祇園社の創立には諸説があるが『二十二社註式』には承平五年(九三五)の太政官符を引いて藤原基経建立の観慶寺(字祇園寺、薬師三尊、観音、二王等を安置)に神殿一宇(祇園社)が附属し天神(牛頭天王)、婆利女(婆梨采女)、八王子が祀られており、これが定額寺とされたことを記している(注23)。基経は当地に天神の霊威を感じて居宅を観慶寺としたといい、創建以後はじめ疫神であり後に防疫除災神とされた祇園天神(牛頭天王)が朝野に崇敬された。なお旧観慶寺の木像薬師如来立像(平安中期)と木像十一面観音立像(平安中期)などが伝来する(注24)。同官符によればこれに先立つ貞観十八年(八七六)十禅師円如が託宣によって社を建立したと伝える(一説に承平四年(九三四)興福寺僧円如が春日水谷社(龍神)を移して成立した)。

 祇園御霊会は白河院の頃から後白河天皇にいたる間にもっとも隆盛したように思われ、大治二年(一一二七)には、白河院、鳥羽院が三条室町の桟敷から見物(注25)、大治四年(一一二九)には三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)が三条烏丸の桟敷から見物(注26)、長承二年(一一三三)には鳥羽院と待賢門院が三条京極殿で見物(注27)、治承三年(一一七九)には後白河院が三条室町の桟敷から見物している(注28)。御霊会の花は祇園神の三神輿還御であり、なかでも女神婆梨采女の神輿(少将井神輿)の強い霊威が畏れられた。婆梨采女神輿の御旅所は少将井であるところから龍神信仰との関係が認められる。なお鎌倉初期の『続古事談』には明らかに祇園社と龍神信仰との関連がうかがわれ(注29)、祇園社社家が鎌倉末期に編した『★(ホ)〈竹カンムリ+甫+皿〉★(キ)〈竹カンムリ+艮+皿〉内伝金烏玉兎集』所収の「祇園牛頭天王縁起」には、牛頭天王が南海龍宮の娑竭羅龍王女である龍女(婆梨采女)を娶る説話がみえ、婆梨采女と龍女を同視している(注30)。祇園神の本地仏は牛頭天王が薬師如来、婆梨采女が十一面観音である。福井・八坂神社には婆梨采女と思われる木像十一面女神坐像(平安後期)が伝来する(注31)。久安三年(一一四七)六月十五日、清盛は「宿願」のために祇園臨時祭に田楽を奉納している(注32)。祇園闘諍事件としても知られるが、清盛が祇園社を尊崇したことは事実として認めねばならない(注33)。祇園女御を介して祇園社を深く尊するに至ったのだろう。祇園女御はこうした祇園社に有縁の人であったことに留意すべきである。田中氏の言う「水辺巫女」としての祇園女御の位置が思い浮かぶ。すなわち白河院から宝珠と舎利を相伝された祇園女御は龍女のイメージと重層し「白河院を水界の王たる龍王に宛てれば、その寵を受けた女御姉妹を介して〈王〉の血統が清盛に流入する」(注34)。かくして祇園女御(あるいは換言すれば清盛の実の母である祇園女御の妹)は宗教的に清盛に強い影響を与えたとはみられないだろうか。清盛の祇園神信仰を通した龍女信仰の可能性を強調したい。なお周知の如く清盛の信仰については赤松俊秀氏の研究があり(注35)、最近では武笠朗氏の整理された広範な研究があり示唆に(注36)とむ(注37)

 それでは清盛の龍女信仰は平家納経といかに関わるのだろうか。伊都岐島神に注目してみたい。瀬戸内海中央部の厳島に鎮座する伊都岐島神は、航海や漁撈を守護する神として早くから尊崇されたとみられるが、平安初期弘仁二年(八一一)条にはじめて「伊都岐島神」が文献に顕れ(注38)、ついで貞観元年(八五九)にははじめ伊都岐島神がついで伊都岐島中子天神が、貞観九年(八六七)には伊都岐島宗像小専神が位階を叙せられた(注39)。伊都伎島神を海神・龍神である宗像三神の一、女神市杵島姫命と同一視する説もこの頃には萌芽した(注40)。寛仁元年(一〇一七)には後一条天皇の大奉幣にあずかるほどの有力な存在となる(注41)。清盛は久安二年(一一四六)に安芸守となり保元元年(一一五六)まで在任するが、この間高野山大塔の修理に関わり老僧によって厳島社への奉仕を促されたという(注42)。清盛自身は「往年之頃 有一沙門 相語弟子曰 願菩提心之者 祈請此社 必有発得 自聞斯言 偏以信受 帰依本意」と語っている(注43)。仁安二年(一一六七)から承安四年(一一七四)の間に厳島社に参詣した藤原成範・澄憲・静賢兄弟は消息を残し(注44)、亡父信西と厳島内侍との思い出を語るが、そもそも保元四年(一一五九)正月二十一日の内宴(注45)(に厳島内侍出仕)を実現させたのは信西と清盛の厳島信仰を介した連携が前提となる(注46)。さて清盛社参は永暦元年(一一六〇)の「年来之宿願」によるものが記録上の初見である(注47)。これに長寛二年の法華経奉献が次ぐ。以下諸記録に清盛の参詣がみえる。

 一方、伊都伎島神は平安中期頃から習合したとされるが、本地仏を明確に観音とするのは長寛二年(一一六四)の清盛願文が初例である。承安元年(一一七一)の「伊都岐島社神宝調進状」には、「御正躰鏡参面 大日 十一面 毘沙門」とある(注48)。この時点では本地仏が三躯並び立っていたかと想像される。建礼門院徳子(一一五五/五七~一二一三)は承安二年(一一七二)に「御唐衣 赤色 羅御裳 腰ニ色々絲ニテ祝哥を置 白色 御扇小松重薄様裹之」などを奉納した(注49)。徳子が帰依したのは明らかに女神とみられる。承安四年(一一七四)の「建春門院詣厳島願文」(注50)は、後白河院・建春門院一行が厳島に詣でたときのもの。厳島を賞して「知龍宮之近苔□ 可以採不死之薬 可以得如意之珠」などと龍宮に擬し、「廼奉鑄顕大明神本地御正躰御鏡三面(中略)大日真言百遍 十一面真言百返 毘沙門真言百返」「夫当社者 尋内證者則大日也 有便于祈日域之皇胤 思外現者 亦貴女也 無疑于答女人之丹心」とある。本地仏御正躰の大日如来・十一面観音・毘沙門天の鏡像を奉献した。本地仏は内々は大日だが、実際には貴女として現ずると解釈できよう。女人の願いにこたえるという貴女とは十一面観音を言うのであろう。安元三年(一一七七)には高倉天皇が「大日如来像三百六十躰 十一面観音像三百六十躰」を摺写し厳島神にすすめた(注51)。治承二年(一一七八)十一月の建礼門院御産時には「等身十一面」が「伊都岐島御正躰」として供養されている(注52)。治承四年(一一八〇)の「高倉院厳島御幸記」には厳島社夜の神事で「あるひはけだかき女房うしろの障子にうつりて、宝殿に向ひ給へる姿を見たるなど申す人もあり」などと、女神の影を想像している(注53)。要するに、厳島神本地仏は大日如来と十一面観音が内・外の関係であり現実には女神として意識されていたことが分かる。厳島が龍宮に比されたように、海浜に接して鎮座する女神のイメージは釈迦に宝珠を奉献する龍女に重層するであろう。実際『愚管抄』は「コノイツクシマト云フハ龍王ノムスメナリト申ツタヘタリ」(注54)、『平家物語』巻第二「卒都婆流」では「宮人こたへけるは『是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり(胎蔵界は胎蔵界大日如来の言い)』」としている(注55)。結局、伊都岐島神の本地仏は胎蔵界大日如来であるとも信じられていたことが分かる。おそらく胎蔵界大日如来と十一面観音が表裏の関係に重ねて理解されていたのではないだろうか。

 ところで清盛が勧請した伊都伎島神は六波羅御所の巽角に祀られたのであり(注56)、龍神信仰との関わりがここでも想像される。なお清盛が仁安四年(一一六九)以降、福原和田浜や厳島でしばしば法華経千僧供養(千部法華経供養)を主催したのは海神(龍神、龍王)を慰撫し(提婆品)、海の平安を祈る(普門品)願いによるものとの指摘がある(注57)

 清盛の平家納経発願の含意の一つには、自らの龍女(あるいは龍神)信仰をモチーフにして、それを法華経提婆品の龍女信仰に投影しようという強い願いがあったのではないだろうか。それではここで平家納経のうち、提婆品をあらためて見ることにしたい。

 提婆品第十二の表紙は丁子で染め藤黄を引いた料紙に海浜の情景を表している。三方に配される洲浜形は、銀砂子地をほどこしたほぼ同型の紙形を貼付け、その間は銀泥で描いたあらあらしい海波でうめつくし、そこに諸色で描いた怪魚を七匹表している。シャチやエイ、サメなどを想像させる姿だが平安時代の人々が海にいだいたイメージを髣髴させる。これらを海龍族と称してよいかもしれない。題簽の瑠璃の深い碧色は「海」を意識したものだろう。見返絵は、丁子染の料紙に緻密な銀砂子地をほどこし、その上に明るい顔料で「龍女成仏」の図様を表す。上方やや左に寄せて楼閣が虚空に浮かび、空中には楽器や散り蓮華が舞い、その前で説法をする釈迦と囲繞衆を描く。下方には海中からいましも出現した龍女が、釈迦の前に宝珠を捧げながら進み出たところを表す。海中に住む娑竭羅龍王の八歳になる童女は、修行を積み知恵も感覚もすぐれていたが、自身の持つ三千大千世界の価値があるという宝珠を釈尊に納め、釈尊がそれをすみやかに納めるやいなや、龍女はさらにすみやかに成仏したという。女人成仏へのあこがれが込められている。図では龍女は二人の侍女を引きつれるが、これときわめてちかい図様を描くのが平家納経に先行する香川県(重要文化財、松平公益会旧蔵、香川県歴史博物館現蔵)の紫紙銀地彩色見返絵法華経(注58)で、その巻五には唐服を着し宝珠を捧持する龍女が、翳をかかげた侍女を引きつれて出現する図様が見える。天衣を長く引いているところに平家納経と近似感がある。なお釈迦の楼閣の大棟の中央部に、金泥で描かれた大きい宝珠が見えるのが注意される。この宝珠は五輪塔と同一であるとして、胎蔵界大日如来(三昧耶形は五輪塔)を含意するとみることも可能であろう。かくして同時に平家納経経篋蓋表の図様も、胎蔵界大日如来に重層するであろう。だとすると経篋は一面で法身仏(胎蔵界大日如来=五輪塔)と法舎利(法華経)の同体を表し、それを連絡する(法舎利を法身仏にもたらす)のが龍王(龍女)であることになる。なお提婆品経巻軸端には水晶五輪塔をつけていることも看過できない。龍女・宝珠・龍神に関わる平氏の特別な信仰の反映が推測されることを重ねて指摘しておきたい。長寛二年(一一六四)時には徳子は八歳か十歳である(注59)。もし八歳であれば娑竭羅龍王の娘と同じ年齢となる。すなわち徳子が龍女に見立てられた可能性が想像されよう。


 三 一品経供養、源氏供養と見返絵


 さてここで視点を変えて平家納経中の物語絵様の図様について考えてみたい。平家納経の物語絵様の見返絵をはじめ、他の同様の見返絵の成立についてかつて考察したことがある。平安後期の法華経一品経供養に添えて作られた和歌、すなわち結縁一品経和歌の成立が物語絵様の一品経見返絵の成立に深く関わっていることを示したのである。物語絵様見返絵は、法会にともなって詠われることとなった一品経和歌という、経説をいったん離れた新たなテキストを介在させて成立・絵画化されたとする可能性を考えた。この場合には平安中期頃からきわめて盛んになったとされる歌合において、歌が絵に描かれたことが参考になる。法華経見返絵の場合は、テキスト(一品経和歌)が経説をいったん離れることによって、格段に自由なモチーフを獲得することが可能になったと考えたのである(注60)

 一品経和歌の近似例(結縁経和歌といえる)ではあるが、源俊頼の『散木奇歌集』に記される事例に、法文歌(和歌)と見返絵制作の緊密な関係を指摘したことがある。『散木奇歌集』に、
いみの程に結縁經供養しけるに 四卷をあたりたりけるに
身づから書て表紙に服なる男のなきたるを書きて あまの
むかひたるに經の文字より光をさゝせて尼の頂にかけたる
かたはらに あしでにてかける歌
君こふる 涙の瀧に おぼほれて ふりさけさけぶ 聲はきこゆや

とある。すでに別稿で言及したようにこれは寛治六年(一〇九二)に亡くなった、俊頼の母の追善のための結縁経の際の歌であり、俊頼は『法華経』の巻四に結縁し自ら書写したが、その見返絵には喪服の男と尼とを表し、経文からその尼に光が一条射すさまを描いたと解釈することができる。すなわち見返絵は俊頼の母が亡くなったという事件に重ね合わせて、法華経巻四の法師品に説かれる、法華経受持の比丘尼の成仏を表すものと考えられる。俊頼は結縁経を書写した際に、経意を表現したとみられる見返絵―ただし経意を表現するのに、比丘尼として母である出家せる尼上を配した―を描き、供養したことがわかる。俊頼のこの作善は記念すべき出来ごとである。これより以降、実際に物語絵様見返絵の作例が現存するようになることは周知である。

 一方、時代が降った平安末期(おそらく治承年間)の事例に「源氏供養」と称される一品経供養がある。「源氏供養」とは国文学研究の世界ではすでに戦前に注目された話題であって、その後の研究史が参考になる(注61)。紫式部が虚言をもって『源氏物語』を作ったがゆえに地獄に堕ちて苦しんだが、それを「歌読共集テ」和歌を詠じ一品経書写を催し供養するというものである(注62)。主催したのは藤原親忠女であり、はじめ藤原為経(寂超)の妻となり後に俊成の妻となった美福門院加賀の名で知られる老尼である。供養導師は澄憲(一一二六~一二〇三)である(注63)。その澄憲の表白によれば「信心大施主禅定比丘尼」が発願し「殊勧道俗貴賎 書写法華二十八品之真文 巻々端図源氏之一篇 蓋転煩惱為菩提也 経品々即宛物語篇目」などとあって、一品経の見返絵に『源氏物語』の一場面が描かれたことが明らかに知られて、きわめて興味深い。「信心大施主禅定比丘尼」を安元二年(一一七六)頃、夫である俊成に次いで出家した親忠女とされたのは後藤丹治氏であって、以下の二首の一品経和歌をこの源氏供養の時のものとされた。すなわち一首は藤原宗家の歌であり、他は藤原隆信の詠歌である。宗家は、

紫式部のためとて結縁供養し侍りける所に 薬草喩品を送り侍るとて   權大納言宗家
法の雨に 我もやぬれむ むつましき 若むらさきの 草のゆかりに

と詠じ(注64)、隆信は、

ははの紫式部がれうに一品経せられしにたらに品をとりて
夢のうちに まもるちかひのしるしあらは なかきねふりを さませとそおもふ

と詠っている(注65)。なお隆信は親忠女の前夫寂超の息であり、宗家は俊成との間の女である八条院按察の夫である。親忠女を中心とし、縁のある者を集めて供養されたことと推測される。久保田淳氏は「全くの想像が許されるならば、親忠女が施主となって紫式部のための一品経供養、いわゆる源氏供養には、夫俊成を始め、彼女所生の娘達、宗家や家通等その夫達、そして前夫との間の子である隆信、夫の猶子定長(寂蓮)、親忠女に連なる勝命、娘達の宮仕え先である前斎院式子内親王や八条院・高松院・上西門院などの女院の同輩の女房達が参加した、極めて女性色の濃厚な文学行事だったのではないであろうか。少なくとも、八条院三条(俊成卿女の母)・高松院新大納言・上西門院五条・八条院按察・八条院中納言・前斎院大納言など、親忠女を母とする俊成の娘達が加わっていた可能性は相当大であると思われる。」と主張される(注66)。ともかくもそうした源氏供養が催されたのだが、現存の一品経和歌から知られるように、宗家が薬草喩品第五を担当し、隆信は陀羅尼品第二十六を詠い描いたであろう。ところでこの宗家の歌は薬草喩品の三草二木のたとえを「若紫の草のゆかり」と詠って『源氏物語』「若紫」巻との関係を予想させ、一方、隆信の歌は「夢のうちに」とあるがこれは陀羅尼品の「乃至夢中 亦復莫惱」にしたがっている。「長き眠り」とあるがこの句と『源氏物語』との関わりは今ひとつ明確とは言えない。

 院政期には『源氏物語』の巻名を詠じたいわゆる源氏物語巻名和歌が散見するようになる。『長秋詠藻』『千載集』『清輔朝臣集』『頼政朝臣集』『忠度朝臣集』『経正朝臣集』『実家卿集』『小侍従集』『明日香井和歌集』『信生法師集』などにみられるというが(注67)、院政後期の『源氏物語』理解を背景に次第に盛んとなった。上記の歌集のうち、「寄源氏恋」と題書きのあるものは、俊恵法師の歌林苑で行われた月例歌会で詠じられたものと推測されている。清輔、忠度、経正、小侍従の歌は同じ機会に詠じられたものであり、同一の巻名を用いていない。このうちに平忠度と、平経正の名があるのが注意される。両名ともに藤原俊成と近しい関係にあり師事したと思われる。平氏の人々の名が『源氏物語』との関わりで見えるのは注意しておいてよい。また忠度の父である忠盛が、白河院・鳥羽院に仕え重用されたことは周知である。平氏全盛の基礎を築く一方、文雅の才をもあわせもち家集『忠盛集』を遺している。藤原為忠(寂超の父)とは和歌を通じて親しくその女を妻ともした。『金葉集』等の勅撰集に十七首入る。『忠盛集』の一首、

あき はばきよりのぼりておはしましけるに 殿上人人あかしの月はいかがととひければ
ありあけの月もあかしのうらかぜに なみばかりこそよると見えしか

は、『源氏物語』の「明石巻」にかけているかとも想われ、忠盛の
なみなみならぬ教養がにじむ(注68)

 さて再度源氏供養に注目すれば、一品経書写と一品経和歌、それに源氏物語絵が三者一体となり制作・供養されていることがわかる。その前提として見返絵の側では、例えば源俊頼の事例や久能寺経や平家納経のような物語絵様彩色見返絵の出現・展開があり、そこに『源氏物語』がモチーフとして採用されるに際しては、上記のような源氏研究を基盤にしたと思われる源氏物語巻名和歌の成立が必要であったのだろう。

 それでは源氏供養では、法華経二十八品各章と『源氏物語』五十四帖はどのように対応したのだろうか。推測を重ねることになるが敢えて考えたい。さきの宗家の歌はおそらくまず探題により薬草喩品をとった。歌の内容からは「若紫巻」との関連が考えられる。隆信は陀羅尼品をとったが対応する一品経は不詳である。かつて寺本氏はその対応について藤原伊行の『源氏釈』にみえる「並の巻」の概念を引き合いに出して一考されているのでその説にしたがうと次表のような対応関係が考えられる(注69)

桐壷 序品第一
二  帚木(並一空蝉、二夕顔) 方便品第二
若紫(並末摘花) 譬喩品第三
紅葉賀 信解品第四
花宴 薬草喩品第五
授記品第六
化城喩品第七
八  花散里 五百弟子受記品第八
須磨 人記品第九
明石 法師品第十
十一 澪標(並蓬生、二関屋) 宝塔品第十一
十二 絵合 提婆品第十二
十三 松風 勧持品第十三
十四 薄雲 安楽行品第十四
十五 朝顔 涌出品第十五
十六 乙女 寿量品第十六
十七 玉鬘
(並初音、二胡蝶、三螢、四常夏、五篝火、六野分、七御幸、八藤袴、九真木柱)
分別功徳本第十七
十八 梅枝 随喜功徳品第十八
十九 藤裏葉 法師功徳品第十九
二十 若菜 常不軽品第二十
二十一 柏木 神力品第二十一
二十二 横笛(並鈴虫) 囑累本第二十二
二十三 夕霧  薬王品第二十三
二十四 御法 妙音品第二十四
二十五 普門品第二十五
二十六  雲隠 陀羅尼品第二十六
二十七 匂兵部卿(並一紅梅、二竹河) 厳王品第二十七
二十八  宇治十帖
(一橋姫、二椎本、三角總、四さわらび、五宿木、六東屋、七浮舟、八かげろふ、九手習、夢の浮橋)
勧発品第二十八

『源氏物語』五十四帖を並の巻を考慮に入れて順序立て、さらに題名のみ伝来したという「雲隠巻」を加え、宇治十帖は全体で一つに数えるという整理である。必ずしも整合性のあ整理ではないことは例えば源氏「若紫巻」と法華経薬草喩品が対応していない点からも考えられよう。若紫巻を例外とみてしばらく置けば陀羅尼品二十六は「雲隠巻」に対応することになる。「雲隠巻」は光源氏が没する物語とされるので隆信の「長き眠り」に対応するように思われる。伊行の『源氏釈』が源氏供養に引用されたことは十分に考えられることである。

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