『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行



唐代琵琶雜攷

―正倉院の「秦漢」琵琶―

外村 中



 一 はじめに


 

琵琶を演奏する状況を画いた、いささか奇妙な絵がある。

 どの絵がそうかといえば、唐代の伝統を伝えるといわれる正倉院の琵琶の捍撥に画かれたものがそうである(口絵1、図1、2)(注1)

 では、そのどこが奇妙かといえば、そこに画かれた琵琶の型がそうで、なかなか見ることができない型をしている。あるいは、琵琶をよく知らない者が適当に画いたら、たまたまそのようになっただけのものかもしれないが、実は一方その琵琶こそ、近年ではその存在すら忘れられている、いわば幻の琵琶ともいえる、唐代に「秦漢」と呼ばれていた型の琵琶である可能性もある。

 では、なぜそのような可能性が残されているかといえば、唐代に演奏されていた琵琶の型については、いまだ必ずしも十分には検討がなされていないからである。たとえば、現在のところ日本の代表的な説としては、唐代には次のような三種類の琵琶があったとされる(注2)

阮咸(別名、秦漢子)、曲項、五絃。

 これに対して、中国では近年次のように四種類あったとする説が登場している(注3)

秦漢子、曲項、五絃(別名、秦漢)、阮咸(秦漢子とは異)

 以上の分類は、基本的にはともに唐代に著された『通典』の内容にもとづくものであるが、その解釈の仕方により相違が見られる。

 では、どちらが適切かといえば、実のところどちらにも難点がありそうである。というのは、『通典』には、どうやら次のような五種類の琵琶が説明されているのではなかろうかと、筆者は解釈するからである。

秦漢子、曲項、秦漢(五絃とは異)、五絃、阮咸(秦漢子とは異)

 そして、この「秦漢」こそ、正倉院の琵琶に画かれている型の琵琶ではなかろうかと、筆者は想像する。そこで、本稿では以上のように考えるわけを、『通典』の内容に沿って、それぞれの琵琶についての記録の内容を再確認しながら、整理してみようと思う。

 なお、たかが琵琶かとは思わないでほしい。なぜなら、南北朝の末頃、中国音楽は乱れに乱れていたが、隋代にそれを正し周代からの伝統に立ち戻るべく大いに議論が交わされたとき、本来あるべき正しい音を知るのに用いられた楽器こそ琵琶だからである(注4)。したがって、当時においては、琵琶こそ中国音楽の命の恩人であったといっても過言ではない。ちなみに、近年の説によれば、そのとき用いられた「亀茲琵琶」あるいは「胡琵琶」という琵琶は「五絃」であったとされるが(注5)、実はそうではなかった可能性がある。そこで、本稿ではこの点についてもあわせて検討してみることにしたい。




 二 『通典』琵琶の起源


 『通典』は、唐の杜佑が八〇一年頃に完成させた、古代よりそれまでの諸制度の変遷をまとめた文献で、正倉院の琵琶とはかなり近い時代の資料である。とくにその樂典巻一百四十四樂四、八音、絲五に見られる「琵琶」と「阮咸」の項は、中国の琵琶を検討するとき、おそらくまず最初に目にするもので、それは『隋書』音樂志に見られる内容とならんで、琵琶についての最も代表的な古くて詳しい記録である。

 『通典』の「琵琶」の項には、まず琵琶の起源がよくわからないことについて、大方次のようなことが記されている。(なお、段落分けは、筆者の判断による。)

(『通典』通釈)琵琶、晉の傅玄の「琵琶賦」に曰く。「前漢の武帝は、烏孫公主を西域の烏孫王昆彌に嫁がせることにしたが、公主が行く道で思い悲しむのをあわれに思った。それゆえ工匠に命じて箏と筑に手を加えて馬上で用いる楽器を作らせた。(あるいはこれが琵琶の起源かもしれない)。今、その楽器を見るに、中空となっているのは天地を象徴している。円型の槽(胴体)と直項(まっすぐのくび)は陰陽を表している。柱(絃を支えるところ)は十二あり六律六呂を割り当てている。四絃は四季の法則にしたがっている。その土地の人々がそれを「琵琶」と呼んだので、それを名とした。よその国でもわかりやすいように、その土地の言葉にしたがったのである。後漢の應劭の『風俗通』によれば、手を使って演奏をするのを「琵琶」というのにちなんで、それを名とした。後漢の劉煕の『釋名』によれば、手をおし前にやるのを「批」といい、手を引き返すのを「把」という。一方、三國魏の杜摯によれば、秦は長城之役で人々を苦しめたが、人々は★(トウ)〈兆カンムリ+鼓〉(ふり鼓)に絃を張りそれを鼓打って苦しみを紛らしたという。(あるいはこれが琵琶の起源であるとも考えられるが、)以上のいずれがまことであるかは、いまだ詳しくはわからない。」(ここまでが傅玄の言か。)その楽器は、朝會の楽器としては用いられていない。

(原文)琵琶。傅玄琵琶賦曰。漢遣烏孫公主嫁昆彌。念其行道思慕。故使工人裁箏筑為馬上之樂。今觀其器。中虚外實天地象也。盤圓柄直陰陽敘也。柱十有二配律呂也。四絃法四時也。以方俗語之曰琵琶。取其易傳於外國也。風俗通曰。以手琵琶因以為名。釋名曰。推手前曰批。引手却曰把。杜摯曰。秦苦長城之役。百姓絃★(トウ)而鼓之。並未詳孰實。其器不列四廂。

 以上を見るに、まず傅玄の「琵琶賦」というが、すでに知られているとおり、以上はその賦の序である。たとえば、『太平御覧』巻五百八十三には、傅玄「琵琶」序として以上の文が引かれている。

 また、『通典』の引くところによれば、琵琶の始まりは前漢の武帝の頃か、あるいは、秦の始皇帝の頃かよくわからないようである。ちなみに、『太平御覧』に引く「琵琶」序によれば、傅玄はどちらかといえば、前漢の頃かと考えていたようであるが、

『太平御覧』巻五百八十三

傅玄琵琶序曰。……以意斷之。烏孫近焉。

一方、『通典』の著者である杜佑は、そのようにはいいきれないと考えたようで、そのために傅玄の序を引くときにその箇所を削除したのであろう。また、杜佑がそのように疑ったのは、次に見られるように、「秦漢子」という琵琶が秦の制を伝えているものかもしれないと考えたためのようである。



 三 秦漢子(秦琵琶、円型直項四絃十二柱)


 『通典』は、次に「秦漢子」という琵琶について説明する。

(『通典』通釈、琵琶つづき)今すなわち唐代の清楽では琵琶が演奏される。その琵琶は俗に「秦漢子」と呼ばれ、円型の槽で長い項(くび)をしており小型である。あるいは秦の絃★(トウ)(鼓に絃を張ったもの)の制を残したものであるかもしれない。傅玄が円型直項で十二柱といっている(のが、それである。)一方、その他(すなわち以下にあげる「曲項」と「秦漢」と「五絃」)は、みな充上鋭下(一方が膨らみ一方が尖ったすなわち梨型)をしている。

(原文)今清樂奏琵琶。俗謂之秦漢子。圓體修頸而小。疑是絃★(トウ)之遺制。傅玄云體圓柄直柱有十二。其他皆充上鋭下(注6)
 以上を見るに、さきにあげた琵琶の起源についての傅玄の「琵琶賦」序を参考にすると、「秦漢子」は、中国起源の琵琶で円型直項四絃十二柱であり、遅くとも晉代には登場していたことになる。なお、それが「秦の絃★(トウ)の制を残したもの(絃★(トウ)之遺制)」という点にもとづき絃★(トウ)が三絃なので「秦漢子」も三絃であったとする説もあるが(注7)、傅玄はさきで見たように「四絃は四季の法則にしたがう(四絃法四時)」といっているので、四絃であったと解釈すべきであろう。また、賦のタイトルから見て、晉代に琵琶といえば「秦漢子」であったことが理解されよう。

 また、梁の沈約の『宋書』には、当時の琵琶についての説明があるが、『通典』に同じく、傅玄の賦が引かれるほかは「その楽器は、朝會の楽器としては用いられていない(其器不列四廂)」という句が記されているだけである。(あるいは、「其器不列四廂。」という句も傅玄の序に述べるところであったかもしれない。) 『宋書』巻十九

琵琶。傅玄琵琶賦曰。漢遺烏孫公主嫁昆彌。念其行道思慕。故使工人裁箏筑為馬上之樂。欲從方俗語。故名曰琵琶。取其易傅於外國也。風俗通云。以手琵琶。因以為名。杜摯云。長城之役。弦★(トウ)而鼓之。並未詳孰實。其器不列四廂。

したがって、南朝の宋においても琵琶といえば「秦漢子」のことであったようである。その後、唐代には琵琶といえば「曲項」を意味するようになるようだが、どうやらそれまでは琵琶といえば「秦漢子」であったように思われる。

 また、『通典』によれば、「秦漢子」は清楽に用いられていたというが、清楽に用いられていた琵琶としては、ただ「秦琵琶」があげられるだけである。

『通典』巻一百四十六清樂
樂用鐘一架。……秦琵琶一。

これにより、「秦漢子」が「秦琵琶」とも呼ばれていたことが知られる(注8)。なお、清楽は、『隋書』によれば、漢以来の楽曲で、隋は陳を滅ぼした後にそれを得たといわれる。

『隋書』巻十五

清樂其始即清商三調是也。並漢來舊曲。樂器形制。歌章古辭。與魏三祖所作者。皆被於史籍。屬晉朝遷播。夷羯竊據。其音分散。苻永固平張氏。始於涼州得之。宋武平關中。因而入南。不復存於内地。及平陳後獲之。

 その後、『通典』によれば、清楽は唐に伝わったが、則天武后の長安年間(七〇一-七〇五)以降廃れたようである。

『通典』一百四十六、清樂

隋室以來日益淪缺。大唐武太后之時。猶六十三曲。…自長安以後。朝廷不重古曲。工伎轉缺。

おそらく、それにともない「秦漢子」もあまり用いられなくなったのであろう。武后の時代に「秦漢子」に類似した「阮咸」が墓中より見いだされたときに、誰もそれが何であるかわからなかったという話(後述)は、そのことを伝えているもののようにも思われる。


 四 曲項(梨型曲項四絃四柱)


 『通典』は、次に「曲項」という琵琶について説明する。

(『通典』通釈、琵琶つづき)「曲項(くびが曲がった琵琶)」は、作りがやや大型で、胡中(すなわち西域)起源の琵琶である。俗に漢の制といわれる。(この箇所は「秦漢」の説明が挿入される。)『梁史』によれば、侯景は梁の簡文帝を殺すとき、太楽令の彭雋に曲項琵琶をもたせ帝が酒盛りするのにしたがわせたといわれる。(これは南朝における「曲項」についての一番古い記録である。)したがって、南朝にはそれまで「曲項」はなかったようである。

(原文)曲項。形制稍大。本出胡中。俗傳是漢制。(兼似兩制者謂之秦漢蓋謂通用秦漢之法)梁史稱。侯景之害簡文也。使太樂令彭雋齎曲項琵琶。就帝飲。則南朝似無曲項者。

以上を見るに、「曲項」は西域起源で、また、さきで見たとおり梨型であった。さらには、すでに指摘があるとおり、また、以下に見るように、唐代においては琵琶といえば「曲項」(注9)のことであったようで、それは梨型四絃四柱であった。

 まず、この点をしめすものとして、七五六年に記された『東大寺獻物帳』以来「琵琶」の名称をもって正倉院に伝わる琵琶が梨型四絃四柱の「曲項」であることがあげられよう(図3)(注10)。また、当時の中国における同型の琵琶の流行は、考古学資料によっても確認が可能である(注11)

 また、唐代において一般に琵琶と呼ばれていたものが、「五絃」や「阮咸」ではなかったことは、唐の段安節の『樂府雜録』に「琵琶」、「五絃」、「阮咸」の項がそれぞれ見られることや、唐の白居易に「琵琶」、「五絃」、「阮咸」についてそれぞれ詩があることなどからも理解されよう。

 また、それが西域起源の「曲項」であり、中国起源の「秦漢子」ではなかったことは、たとえば、白居易の「聽曹剛琵琶兼示重蓮」という詩に「胡啼番語兩玲瓏」という句や李★(キョウ)〈山ヘン+喬〉の「琵琶」という詩に「本是胡中樂」という句が見られ、西域との関連が伺われることからも知られよう。

 また、それが「秦漢」ではなかったことは、「秦漢」の流行が他の型の琵琶と比べて考古学的に確認できないこと、あるいは宋になってからの文献かもしれないが『太平御覧』に引く『音律圖』に「「秦漢」は、その起源はよくわからない。「琵琶」と同様であるが、目を開かないところが異なっている」(後述)とあることなどからも察せられよう。

『太平御覧』巻五百八十四に引く『音律圖』
又曰。秦漢。未詳所起。與琵琶同。以不開目爲異。

 したがって、唐代において一般に琵琶と呼ばれていたものは、「五絃」でも「阮咸」でも「秦漢子」でも「秦漢」でもなかったようであるから、「曲項」であったということになろう。

 「曲項」の起源については、『通典』の以上の内容のほか、たとえば、『隋書』が西域起源であることを明言している。

『隋書』巻十五
今曲項琵琶。豎頭箜篌之徒。並出自西域。非華夏舊器。

 詳しくは考古学的研究により、「曲項」はペルシャ(イラン)起源であるとされる(注12)。どうやらそのとおりのようで、現在のところそれを否定する資料は見あたらない。

 また、近年、「碎葉琵琶」は「曲項」のことであるとする説が登場している(注13)が、あるいはそのとおりかもしれない。その説にいうごとく、たとえば、唐の劉商の「胡笳十八拍」の第七拍には「碎葉琵琶夜深怨。」という句が見られる。そして、宋の高承の『事物紀原』によれば、琵琶は「『事始』によれば、碎葉国が献じたものであると云われる」。

『事物紀原』巻二、琵琶
事始云。或云。碎葉國所獻。

 碎葉は、『新唐書』によれば、西域の国、康国にあった都市である。

『新唐書』巻二百二十一下、西域下、康
有碎葉者。出安西西北千里所。

 康国は、『隋書』によれば、琵琶、五絃で知られていた。

『隋書』巻八十三、康国
有大小鼓。琵琶。五絃。

 そして、唐代には「曲項」の名手として康崑崙という人物がおり、その姓から考えて康国との関わりがありそうなので、「曲項」と康国、碎葉との関連が考えられるわけである。

 ちなみに、康崑崙は、『新唐書』によると、西涼が献じた涼州曲を徳宗の貞元年間(七八五-八〇五)のはじめに琵琶で演奏したことで知られる。

『新唐書』巻二十二

涼州曲。本西涼所獻也。其聲本宮調。有大遍小遍。貞元初。樂工康崑崙寓其聲於琵琶。奏於玉宸殿。因號玉宸宮調。合諸樂。則用黄鍾宮。

 唐の元★(シン)〈禾ヘン+眞〉の「琵琶歌」という詩では賀懐智、段師とともに康崑崙は琵琶の名手としてあげられている。

「琵琶歌」
…玄宗偏許賀懐智。段師此藝還相匹。自後流傳指撥衰。崑崙善才徒爾爲。…

 元★(シン)は白居易の親友で同様な詩を多く作っているので、その「琵琶歌」にいう琵琶も「曲項」であろうと考えられ、これにより康崑崙らが弾いていたのは「曲項」であったらしいことが知られる。また、康崑崙の演奏については、『新唐書』には「おし下げる音が多く、引き上げる音が少ない。いまだ五十四絲の大絃は弾けない」という李★(ウ)〈王ヘン+禹〉による批評が見られる。

『新唐書』巻八十一
又聞康昆崙奏琵琶曰。琵聲多。琶聲少。是未可彈五十四絲大絃。

この「五十四絲大絃」を「阮咸」のこととし、康崑崙は「阮咸」が弾けなかったとする説もあるが(注14)、これは「曲項」のいずれかの絃について述べている可能性もあるかもしれない。後考を待ちたい。
 
 また、『樂府雜録』の「琵琶」の項には、鄭中丞は「胡琴」が得意であったという記事が見られるが、

『樂府雜録』琵琶
文宗朝有内人鄭中丞。善胡琴。内庫有二琵琶。…飲於花下。酒酣。不覺朗彈敷曲。…曰此鄭中丞琵琶聲也。

以上は「琵琶」の項にある記事であり、また、文脈上からも「胡琴」は「曲項」のことであるように思われる。ちなみに、日本において「曲項」が「胡琴」とも呼ばれていたことについては、すでに『古事類苑』樂舞部二十八琵琶に詳しい。

 なお、南北朝末から隋にかけての記録に散見する「亀茲琵琶」、「胡琵琶」と呼ばれていた琵琶も、「五絃」であるとするのが近年の説であるが、実は「曲項」のことであろうと、筆者は考えている(「五絃」に後述)。


 五 秦漢(梨型直項四絃四柱無目)


 『通典』は、次に「秦漢」という琵琶について説明する。なお、「秦漢」が独自の型をした琵琶であったことは本稿でとくに指摘しておきたい点である。

(『通典』通釈、琵琶つづき)両制すなわち秦と漢の制を兼ねあわせたようなものを「秦漢」という。思うに、秦と漢の奏法が通用するのであろう。
(原文)兼似兩制者謂之秦漢。蓋謂通用秦漢之法。

 以上を見るに、秦の制とは「秦漢子」で見たような円型直項十二柱の制で、漢の制とは「曲項」で見たような梨型曲項四柱の制であろう。また、さきで『通典』は、「秦漢子」の他(すなわち「曲項」と「秦漢」と「五絃」)は、みな充上鋭下(すなわち梨型)であるといっているので、柱についてはわからないが、「秦漢」は梨型直項であっただろうと想像される。なお、秦漢が十二柱ではなく四柱であったことは次の資料により知られる。

『太平御覧』に引く『音律圖』
「秦漢」は、その起源はよくわからない。「琵琶(おそらく「曲項」)」と同様であるが、目(「曲項」に見られる半月のようなものか、図4)を開かないところが異なっている。四絃で四隔(したがって四柱)で、散聲(押さえないでの音)四、隔聲(柱間を押さえての音か)十六、あわせて二十の聲をもち、律呂にかなった調べをなす。
『太平御覧』巻五百八十四に引く『音律圖』
又曰。秦漢。未詳所起。與琵琶同。以不開目爲異。四絃四隔。合散聲四。隔聲十六。惣二十聲。隨調應律。

 以上は、「秦漢」を知る上で貴重な資料である。すなわち、「秦漢」は、当時琵琶と呼ばれていたらしい「曲項」とは同じものではないようで、また、四柱というので十二柱の「秦漢子」でも十三柱の「阮咸」(詳しくは後述)でもなく、さらには、四絃というから「五絃」でもないこと、明白である。したがって、近年見られる『通典』にある「秦漢」という言葉は「秦漢子」の説明であるとみなす説(注15)や、「秦漢」は「五絃」であるとする説(注16)は、明らかに不適切である。

 また、『音律圖』は目を開かないのが「曲項」との違いであるとするが、もし「秦漢」が「曲項」のように梨型曲項四柱であれば、秦の制である円形直項十二柱のいずれをも襲っていないことになってしまう。それでは、『通典』の説明は成り立たない。したがって、「秦漢」は、秦の直項と漢の梨型四柱の両制を兼ねたようなものであったと、筆者は想像する。そして、さらに四絃で無目の琵琶を探してみるに、正倉院の琵琶の捍撥に画かれている琵琶が、あるいはそうではなかろうかと考える。なお、それは有目のようにも見えないことはないが、赤外線写真を見るに無目のようである(図5)(注17)。また、四柱であるかどうかは確認できないが、「曲項」の実例と比較してみるに四柱である可能性は大いにあるのではなかろうか。

 ついでだが、「秦漢」は、すでに元の頃には廃れ忘れられていたらしく、元の馬端臨の『文獻通考』には「秦漢子」との混乱が見られる(注18)

『文獻通考』巻一百三十七秦漢琵琶
本出於胡人。絃★(トウ)之制。圖體修頸如琵琶而小。柱十有二。惟不開目爲異。蓋通用秦漢之法。四絃四隔。合散聲四。隔聲十二。惣二十聲。



 六 五絃(梨型直項五絃四柱一孤柱あるいは五柱)


 『通典』は、次に「五絃」という琵琶について説明する。

(『通典』通釈、琵琶つづき)五絃琵琶は、作りがわずかに小型で、おそらく北国起源であろう。
(原文)五絃琵琶稍小。蓋北國所出。

 以上を見るに、「五絃」はわずかに小型であったといわれるが、この点は考古学資料によって確認が可能である(図6)。また、すでに考古学的研究により、「五絃」の起源はおそらくインドであろうことがわかっているが(注19)、唐代の中国人は少なくともそのようには思っていなかったらしく、とりあえず北国起源とするものの、よくわかっていなかったようである。したがって、この点は、「五絃」が西域音楽の一大中心都市であった亀茲を大いに代表する楽器として中国に導入されたとする近年の説を疑ってみる理由になるのではなかろうか。

 その前に「五絃」の型をみるに、さきで『通典』がいうところや正倉院に伝わる「五絃」(図7)や、さらには次にあげる資料などにより、「五絃」が梨型直項四柱一孤柱(あるいは五柱)であったことが知られる。

 たとえば、諸橋轍次『大漢和辭典』の「五絃(五弦)」に引く『樂苑』には「「五絃」は、その起源はよくわからない。形は「琵琶」のようで、五絃四隔(したがって四柱)あり孤柱が一、散聲(押さえないでの音)五、隔聲(柱間を押さえての音か)二十、柱聲(孤柱を押さえての音)一、あわせて二十六聲をもち、律呂にかなった調べをなす。」とある。

『樂苑』
五絃未詳所起。形如琵琶。五絃四隔。孤柱一。合散聲五。隔聲二十。柱聲一。總二十六聲。随調應律。

 ちなみに、以上は、「五絃」の型についての最も詳しい説明である。なお、『樂苑』は逸書で、『文獻通考』巻一百八十六には「樂苑五巻。崇文總目。不著撰人名氏。敘樂律聲器凡二十篇。」とあるほかは、『太平御覧』引書目、『宋史』藝文志などに書名が見えるくらいで、『舊唐書』、『新唐書』には記載は見られない。したがって、『大漢和辭典』所載の内容は貴重である。

 また、唐代の「五絃」の実例として伝わる正倉院の「五絃」は五柱であるが、もとは四柱一孤柱であったらしく、後世の修理の際に孤柱が一柱に改められ五柱になったらしいことは、近年の指摘のとおりであろう(注20)

 なお、五柱の「五絃」もあったらしいことをしめす資料も見られる(注21)。河南省安陽市にある隋の張盛の墓より発掘された伎楽俑がその例である(図8)。

 ところで、「亀茲琵琶」は「五絃」のことであるとするのが近年の説である(注22)。また、「亀茲琵琶」は「胡琵琶」とも呼ばれていたといわれる。「亀茲琵琶」が「胡琵琶」とも呼ばれていたことはすでに明らかで、たとえば、『通典』によれば、祖父の代からの「亀茲琵琶」の奏法を受け継いだ曹妙達は北齊の文宣帝に重く用いられたというが、

『通典』巻一百四十六
龜茲樂者。…後魏平中原。復獲之。有曹婆羅門。受龜茲琵琶於商人。代傳其業。至於孫妙達。尤為北齊文宣所重。常自撃胡鼓和之。

『北史』によれば、彼は「胡琵琶」が得意であったといわれる。

『北史』巻九十二
其曹僧奴。僧奴子妙達。以能彈胡琵琶。甚被寵遇。倶開府封王。

以上により、両者が同じものであったことが理解されよう(注23)

 一方、「亀茲琵琶」は「五絃」のことであるとされるが、そうではなく「曲項」であった可能性もありそうである。

 たとえば、『通典』によれば、北魏の宣武帝の時代以降、西域の音楽が流行しはじめ、北魏末の遷都の頃には「屈茨琵琶五絃」などの楽器を用いた音楽が人々を大いに感動させていたといわれる。

『通典』巻一百四十二

自宣武已後。始愛胡聲。★(キ)〈サンズイ+自〉於遷都。屈茨琵琶五絃。箜篌。胡★(ショク)〈竹カンムリ+直〉。胡鼓。銅★(ハツ)〈金ヘン+跋のツクリ〉。打沙羅。胡舞。鏗鏘★(トウ)〈金ヘン+堂〉★(ソウ)〈金ヘン+荅〉。(上音湯。下音塔。)。洪心駭耳。

 以上の「屈茨」は、『通典』によれば、「亀茲」のことであろう。

『通典』巻一百九十一 
龜茲。一曰邱茲。又曰屈茨。

したがって、「屈茨琵琶五絃」とは「亀茲琵琶」と「五絃」のことであると考えることができよう。すなわち、「亀茲琵琶」と「五絃」は異なるものと解釈できよう。「亀茲琵琶」を「五絃」のこととする説では、以上の「屈茨琵琶五絃」はテキストの混乱、あるいは「亀茲琵琶すなわち五絃」と読むべきとするが(注24)、無理があるようにも思われる。

 また、『淵鑑類函』巻一百八十九琵琶三に見られる「曲項、屈茨」を対としてとらえる解釈によれば、「屈茨琵琶五絃」は「屈茨」「琵琶」「五絃」とそれぞれ異なる三つの楽器と解釈することも可能だが、「屈茨」という楽器の存在は確認できない。

 また、『新唐書』によれば、唐代の南蛮の楽器に「獨絃匏琴」というものがあったが、それは「亀茲琵琶」のように四柱であったという。

『新唐書』巻二百二十二下
有獨絃匏琴。…有四柱如龜茲琵琶。

さきで見たとおり、「五絃」は四柱一孤柱(あるいは五柱)で、一方「曲項」は四柱である。したがって、以上は「五絃」の一孤柱を無視して比較し似ていたというよりは、むしろ「曲項」のように四柱であったといっているのではなかろうか。

 また、亀茲という都市が西域音楽の一大中心地であったことは、たとえば、『隋書』音樂志に見られる西域音楽についての記事のなかで、亀茲の音楽に関わる内容が最も多く詳しいことなどからも理解されるが、「五絃」のみならず「曲項」も亀絃の代表的な楽器であったことは、たとえば『隋書』に、亀茲の楽器として「琵琶、五絃」があげられていることからも明らかである。

『隋書』巻十五
龜茲者。…其樂器有豎箜篌。琵琶。五絃。…

ちなみに、「亀茲琵琶」を「五絃」とする近年の説の主たる根拠は、考古学的に見て当時の亀茲で最も流行していた楽器が「五絃」であったことにあるようだが、はたして当時の亀茲の状況が、そのまま当時の中国人が亀茲に対していだいていたイメージになっていたかどうかはわからない。『通典』によれば、さきで見たとおり、当時の中国人は、「曲項」は明らかに西域起源で、一方「五絃」はよくわからなくおそらく北国起源であろうと思っていた。そうだとすれば、「五絃」よりはむしろ「曲項」のほうが、当時の中国人にとっては西域の都市である亀茲の名を冠するにふさわしい楽器であった可能性もあろう。『通典』に見るように「曲項」は唐代の俗伝に漢の制といわれていることなどから判断して、漢代に中国に伝わったとし(注25)、そして、北魏の時代に「五絃」が「亀茲琵琶」という名をもって中国に伝わったとするのが近年の説のようであるが(注26)、さきで見たとおり晉代と宋代に琵琶と呼ばれていたものが「秦漢子」であったらしいことを考えると、「曲項」が大々的に中国に伝わったのは、実は南北朝とくに北魏宣武帝以降の西域音楽の流行に伴うものであったように思われる(注27)。おそらく「五絃」も同じ頃に伝わったが(注28)、「曲項」ほど大規模には伝わらなかったので、その起源がよくわからなかったのではなかろうか。南北朝の頃までは、琵琶といえばもっぱら中国起源の「秦漢子」を意味していたが、そこに亀茲から「曲項」が大量にもたらされ流行しはじめ、当時琵琶と呼ばれていた「秦漢子」と区別するために「亀茲琵琶」あるいは「胡琵琶」と称され、さらに流行した。そして、唐代に「秦漢子」が廃れるにかわり、「曲項」こそが琵琶と称されるようになったのではなかろうかと、筆者は琵琶の流行を解釈する。


 七 ★(シュウ)〈手ヘン+芻〉琵琶(手弾の法)


 『通典』は、次に琵琶の奏法のひとつである「★(シュウ)琵琶」の流行について説明する。

(『通典』通釈、琵琶つづき)以前は琵琶を弾くとき、誰しもが木の撥を用いて弾いていた。唐の太宗の貞観年間(六二七-六四九)になって、はじめて手で弾く方法が現れた。今にいう「★(シュウ)琵琶」がそれである。しかしながら、後漢の頃に記された『風俗通』には、「手を使って演奏する(以手琵琶之)」とあり、撥を用いない奏法のあったことが知られる。したがって、すでにはるか昔から★(シュウ)琵琶の方法はあったのではなかろうか。(注、手で弾く方法は近い時代すでに廃れていたが、裴洛兒が再び始めたのである。)
(原文)舊彈琵琶。皆用木撥彈之。大唐貞觀中。始有手彈之法。今所謂★(シュウ)琵琶者是也。風俗通所謂以手琵琶之。知乃非用撥之義。豈上代固有★(シュウ)之者。(手彈法近代已廢。自裴洛兒始為之。)

 以上の★(シュウ)琵琶は、『新唐書』には「五弦」の奏法として記されているが、 

『新唐書』巻二十一
五絃。如琵琶而小。北國所出。舊以木撥彈。樂工裴神符初以手彈。太宗悦甚。後人習為★(シュウ)琵琶。

『通典』のこの内容は、必ずしも「五絃」に限って述べているものではないようである。というのは、『通典』が引く『風俗通』の内容は、さきで見た傅玄の「琵琶賦」序を参考にすれば、四絃の琵琶についても該当するものらしいからである。なお、『通典』にいう裴洛兒とは、『新唐書』にいう裴神符のことであろうか。

 ついでだが、正倉院の「五絃」には撥による掻き傷のあることが報告されている(注29)


  八 阮咸(秦琵琶、円型直項四絃十三柱)


 『通典』は、「琵琶」の項に続けて別項を立て、「阮咸」という琵琶について説明する。

(『通典』通釈)「阮咸」もまた「秦琵琶」である。項が今の制(の「秦琵琶」すなわち「秦漢子」のことか)より長く十三柱である。武太后(則天武后)の時、蜀の人である★(kuai)〈萠+リットウ〉朗が古墓の中よりこれを得たが、晉の竹林七賢圖の阮咸が弾くものと類似していたので、「阮咸」と名付けた。阮咸は晉の時代、琵琶が上手で音楽を理解していたことで知られていた。(注、★(kuai)朗がかつて銅でできたものを得たとき、それが何であるか知る者はなかった。太常(宗廟禮儀を司る官)の少卿であった元行沖が、「それは阮咸が造ったものである」といった。そこで、職人に改ためて木を用いて作らせたところ、その響きは実に清雅であった。)

(原文)阮咸。亦秦琵琶也。而項長過於今制。列十有三柱。武太后時。蜀人★(kuai)朗於古墓中得之。晉竹林七賢圖阮咸所彈與此類同。因謂之阮咸。咸晉世實以善琵琶知音律稱。(★(kuai)朗初得銅者時。莫有識之。太常少卿元行沖曰。此阮咸所造。乃令匠人改以木為之。聲甚清雅。)

 以上を見るに、まず「阮咸」も「秦琵琶」であったことが知られる。また、さきで見たように「秦漢子」も「秦琵琶」なので、「阮咸」と「秦漢子」は異名同琵琶とするのが日本における近年の説であるが(注30)、どうもそうではなさそうである。『通典』を見るに、「今制」とは当時清楽で用いられていた「秦琵琶」である「秦漢子」のことかと思われるが、「阮咸」はそれより項が長く十三柱であった。一方、「秦漢子」はさきで見たように十二柱であった。したがって、「阮咸」は「秦漢子」と近似したものではあったが、異なる特徴を有した琵琶であったようである。

 正倉院に伝わる「阮咸」は十四柱であるが(図9)、それが後世の修理によるものらしいことは、すでに指摘にあるとおりであろう(注31)

 また、近年の解釈の中には、「阮咸」は晉代に発明されたとする説もあるようである(注32)。おそらくそれは『通典』に見られる「阮咸」は晉の阮咸が作ったものであると明言する元行沖の説にもとづくものであろうかと思われるが、そのとおりであったかどうかはよくわからない。『通典』の著作である杜佑も元行沖の説を疑ったようで、『通典』の本文では類似していたことによるとし、阮咸の発明であるとする説はとっていない。『事物紀原』のように、あるいは咸豐肥の発明かとする説もある。

『事物紀原』巻二阮
或謂咸豐肥創此器。

また、『晉書』により、阮咸が琵琶が得意であったことは知られるが、

『晉書』巻四十九
咸妙解音律。善彈琵琶。

元行沖の説明以前に彼が琵琶を作ったという記録も見あたらない。したがって、あるいは「阮咸」が完成したのは、『通典』の以上の内容にある唐の則天武后の時代に墓中より銅製の琵琶が見出され、それをもとに木製の琵琶が作られた際、あるいはそれ以降のことであったかもしれない(注33)

 なお、『玉海』に引く『樂書』によれば、「阮咸」は玄宗の開元元年(七一三)に雅楽に編入されたといわれ、

『玉海』巻一百十唐阮咸
樂書云。本名月琴。自開元元年編入雅楽。

その後、『宋史』によれば、宋の太宗は至道元年(九九五)に、本来四絃の「阮咸」を五絃に改めたといわれる。

『宋史』巻一百二十六
太宗嘗謂。舜作五絃之琴。以歌南歌。後王因之。復加文武二絃。至道元年。乃増作九絃琴。五絃阮。…阮四絃。増之爲五。

 以上は、正倉院の「阮咸」と同じ型の「阮咸」が演奏されていた時代を知る参考になろう。


 九 おわりに


 正倉院の琵琶の捍撥に画かれている琵琶が、梨型直項四絃四柱無目といった特徴を有していたらしい、唐代に「秦漢」と呼ばれていた琵琶である可能性のあることを指摘した。「秦漢」の実物が日本に伝わっていたかどうかは、現在のところわからない。また、なんの手本もなく「秦漢」を知り画ける者が、当時の日本にいたかどうかもわからない。これらの点は今後、正倉院の琵琶が如何に唐代の伝統を伝えるものであるかを考えるとき、重要になってこよう(注34)。また、本稿ではあわせて、唐代を中心にそのころまでの琵琶の型についての若干の考察を行い、新たな解釈の可能性を指摘した。たとえば、「亀茲琵琶」あるいは「胡琵琶」と呼ばれていた琵琶は「五絃」ではなく「曲項」であった可能性があることなどを指摘したが、浅学のため誤りの多かろうことを大いに恐れている。また、もちろん以上は、音楽の理論などに関わる資料をもとにしたものではなく、どのようなものが作られ用いられていたかという技術史的な見地からの初歩的な考察であるため、さらに多くの検討が必要であろう。したがって、詳しいところは今後の課題である。



【注】

  1. たとえば、岸辺成雄は次の一二〇頁で、この正倉院の琵琶などについて「弘仁年間に補ったものだといわれるが、…唐代の実例として取り扱ってもさまたげあるまいと思う」といっている。なお、次は、若干の修正が必要かと思われるが、中国の琵琶についての第一にあげられるべきすぐれた論文である。

    岸辺成雄「琵琶の淵源」『唐代の楽器』音楽之友社、一九六八年 一一七-一五六頁。

  2. 前掲(1)岸辺 一一九頁。

  3. 牛龍菲『敦煌壁画楽史資料総録与研究』敦煌文芸出版社、一九九一年

  4. この点は『隋書』音樂志に詳しい。すなわち隋の鄭譯による七調十二律、合八十四調の確認のことを指す。この時、鄭譯は「胡琵琶」を用いたといわれる。また『舊五代史』巻一百四十五には「而沛公鄭譯。因龜茲琵琶七音。以應月律。」とある。

  5. 前掲(1)岸辺 一四六頁。

  6. なお、『全晉文』巻四十九は「體圓柄直」から以下「蓋謂通用秦漢之法」までを晉の傅玄の言葉とする。もしこれによれば、すでに晉代に「秦漢子」、「曲項」、「秦漢」がともに流行していたことになるが、以下に示すとおり、筆者は「曲項」の流行は南北朝以降と考えるので、『全晉文』には従えない。また、次の八頁は『全晉文』の文章をそのまま引いている。なお、次は文学の立場からの琵琶についての論文として注目されよう。

    石田博「中國の文學に現れた琵琶」『國學院雜誌』八一-一二 一九八〇年 一-二〇頁。

  7. 前掲(3)牛 二九五頁。

  8. 前掲(1)岸辺 一三一頁。

  9. 前掲(1)岸辺および次の五一-五四頁を参照。

    林謙三『正倉院楽器の研究』風間書房、一九六四年。

  10. 前掲(9)林 五一頁。

  11. 琵琶についての考古学的情報は、次によくまとまっている。

    河田貞「螺鈿紫檀五絃琵琶の語るもの」『日本美術工芸』六三八 一九九一年 一一-一八頁。

    中国芸術研究院音楽研究所『中国音楽史図鑑』人民音楽出版社、一九八八年。

  12. 前掲(1)岸辺を参照。

  13. 前掲(3)牛 三一八-三二四頁を参照。ただし、牛は「碎葉琵琶」は「曲項」のことで「亀茲琵琶」は「五絃」とするが、筆者はいずれも「曲項」のことであろうと考えている。

  14. 前掲(3)牛 三二四-三二五頁。

  15. 前掲(1)岸辺 一三三頁。

  16. 前掲(3)牛 三〇七-三一七頁。

  17. この点については、今後確認が必要であろう。なお、もし有目であることが確認されれば、画かれた琵琶は「秦漢」ではなく正体不明の例外的な琵琶であるということになってしまうが、かりにそうであっても、かつて「秦漢」という琵琶が存在していたということには、かわりはない。

  18. ちなみに、『文獻通考』のこの内容は、宋の陳暘の『樂書』巻一百二十九の内容をそのまま引いたものである。したがって、あるいはすでに宋代に「秦漢」は廃れていた可能性も考えられる。この点は、『樂書』のテキストとしての単なる混乱の可能性とあわせて、さらに検討する必要があろう。

  19. 前掲(1)岸辺を参照。

  20. 前掲(9)林 一六一頁および次の六〇頁を参照。

    林謙三「天平、平安時代の音楽」『雅楽』音楽之友社、一九六九年 四九-一二三頁。

  21. 前掲(11)河田 一三頁によるが、この指摘は「亀茲琵琶」を考えるとき重要である。

  22. 前掲(1)岸辺、前掲(3)牛 三〇七-三一八頁、および次を参照。

    Wolpert, Rembrandt. F.: The five-stringed lute in East Asia, Musica Asiatica 3, Oxford Uni. Press 1981 pp, 97-106

  23. この点は、すでに次で紹介されている。前掲(1)岸辺 一四五-一四六頁。

  24. 前掲(1)岸辺 一四八頁、前掲(3)牛 三一〇頁。なお、陳暘の『樂書』巻一百二十九は、「屈茨琵琶」の「屈茨」を「亀茲」とはとらず、琵琶の型を表す言葉であろうとし、「屈茨琵琶」は「琵琶が屈茨(折れた茨)の形をしているのでそういうのであろう(豈琵琶爲屈茨之形然也)」と述べている。「屈茨」を「亀茲」ととらないことには問題がありそうだが、これによっても、「屈茨琵琶」は、直項である「五絃」ではなく「曲項」のことのようである。

  25. 前掲(1)岸辺 一二〇頁。

  26. 前掲(1)岸辺 一三六頁。

  27. 前掲(20)林 五八頁は「曲項」がもたらされたのは六朝時代であろうかと考えているが、年代的にはその通りであろう。ただし、北朝以前に六朝すなわち南朝での流行は確認できないので、六朝ではなく北朝を含めて南北朝とするほうがよいであろう。また、前掲(20)五九頁で林は、「五絃」は六朝の末に中国に伝わったとするが、「五絃」が南朝に伝わったことを明確にしめす資料は見あたらないので、これも六朝ではなく南北朝とすべきであろう。

  28. 「曲項」と「五絃」が同時代に流行していたことは、前掲(11)河田一五頁が指摘するように、「曲項」と「五絃」の奏者が並座している考古学資料の例が多いことからも明らかである。

  29. 前掲(20)林 六〇頁を参照。なお、林は、正倉院の例をもって「五絃」はまったく指弾しなかったと考えているようだが、そうではなく奏法として指弾もあれば撥弾もあったが、正倉院の「五絃」に限っていえば撥弾したと解釈すべきであろう。

  30. 前掲(1)岸辺 一三一頁。

  31. 前掲(9)林 四九-五〇頁、一五六頁。

  32. 奈良国立博物館『平成八年正倉院展目録』一九九六年 八七頁。

  33. 前掲(9)林 四八頁は、「阮咸」は唐中宗代に前代の南朝系の琵琶を改造したものであるとする。すなわち、本稿でいう「秦漢子」を改造したものと考えているようである。林の解釈は、証明は難しいと思われるが可能性は大いにあろう。なお、林は南朝系というが、「秦漢子」はすでに晉代すなわち南北朝以前にあったことが知られ、また、それは中国起源と考えられていたので、中国系あるいは在来系といったほうがよいかもしれない。

  34. なお、琵琶にかけられた塗料について、次に重要な報告が見られる。

    松島順正「金漆と密陀絵」『MUSEUM』三六七、一九八一年、九-一三頁。



挿図出典

口絵1、図2・5は宮内庁正倉院事務所より写真提供を受けた。
図1 奈良国立博物館『平成八年正倉院展目録』一九九六年、九一頁。
図3 正倉院事務所『正倉院の楽器』、日本経済新聞社、一九六七年、図版一一二。
図4 『平成八年正倉院展目録』一九九六年、一二〇頁。
図6 中国芸術研究院音楽研究所『中国音楽史図鑑』人民音楽出版社、一九八八年 八二頁
図7 奈良国立博物館『平成三年正倉院展目録』一九九一年、八四頁。
図8 『中国音楽史図鑑』一九八八年、八五頁。
図9 奈良国立博物館『昭和六十年正倉院展目録』一九八五年、四二頁。



謝 辞


 最後ではあるが、本稿作成に際し阪田宗彦、横田容子、蓮沼龍子、吉田雅子の四氏他多くの方々にお世話になった。また、本稿脱稿後に中原健二先生より『大漢和辭典』に見られる『樂苑』の内容は『樂府詩集』巻九十六に所引であることをご教示いただいた。以上記して謝意を申し上げたい。

(そとむら あたる ヴュルツブルク大学東方文化研究所講師)

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