『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行


近世銭貨の生産と品質規格

─寛永通寳と長崎貿易銭の法量計測的研究─

高橋 照彦



 四 近世銭貨の生産と品質規格



 前章まで、古寛永・新寛永・長崎貿易銭の順に、検討結果を報告してきた。ここでは、改めてそれらを生産時期のうえで大きく四段階にグルーピングしなおし、その段階ごとに法量測定の成果をまとめ、文献史料や科学分析結果などのデータを加えて、近世銭貨の変遷と特質を抽出することにしたい。その四段階とは、次の通りである。

 第一段階は、古寛永の段階である。古寛永も鋳造年代から二分されるが、本稿で検討したものはそのうちの古い段階の一部に相当し、具体的には寛永一四年(一六三七)~寛永一七年(一六四〇)に鋳造されたものである。第二段階は、新寛永のうちの文銭と長崎貿易銭の段階である。文銭は寛文八年(一六六八)~天和三年(一六八三)、長崎貿易銭は万治三年(一六六〇)~貞享二年(一六八五)頃の発行であり、ほぼ生産期間が重なる。第三段階は、新寛永のうち各地で生産が行われていく段階で、正徳・享保・元文・寛保・延享期に当たる。具体的には、佐渡銭〔正徳四年(一七一四)~、測定資料は享保二年(一七一七)~〕、仙台背仙銭〔享保一三年(一七二八)~〕、足尾銭〔寛保元年(一七四一)~〕が挙げられ、背一銭や称秋田銭もこの段階のものであろう。第四段階は、新寛永でも新しい鋳造時期の段階で、明和期以降に鋳造のものを第三段階から分離した。この段階は、鉄銭や真鍮銭が発行されている段階に当たる。具体的には、長崎銭〔明和四年(一七六七)~〕、仙台背千銭〔明和五年(一七六八)~〕、久慈背久銭〔明和五年(一七六八)~〕、久慈背久二銭〔安永三年(一七七四)~〕が挙げられる。それでは、各段階ごとにこれまでの成果を再整理していきたい。


(一)第一段階(古寛永鋳造期〈十七世紀前半〉)


 まずこの段階には各地で鋳造がなされているが、輪外径および郭内幅は概ね一定値に集中していることが指摘できる。重量でも、ばらつきはあるが、後述の第三段階などと比較すると、まとまりがよい。それらに加えて、銭文の字体を取り上げてみても、古寛永と呼ばれるものは比較的近似している。

 これらの点を考えるうえで注意したいのは、銭貨生産の開始に至る過程である。各地での鋳銭開始を指示する寛永一四年の幕府による鋳銭所増設の制令(『教令類纂』諸集)には「寛永之新銭本を差越候間、如此鋳させ可申事」とある。すなわち、この段階には、幕府が各地の鋳銭所に対して、手本銭を送って鋳造させているとみられるのである(注31)。法量や銭文の近似は、単なる書面等での規制だけでは困難であり、手本銭の一括配布により達成されやすい内容であるのは、容易に納得されよう。手本銭の配布が単なる法令上の文言ではないことは、仙台の鋳銭の場合、実際に手本銭が寛永一四年九月に渡されていることが確認される(注32)が、本稿の結果は、その他の各地でも現実に手本銭配布が行われていたことを追証するものとなる。

 当該段階において、銭貨の法量が比較的一定に保とうとされていることからすれば、幕府の規制が鋳銭事業に比較的強く働いていたことを窺わせるであろう。このような幕府側の姿勢は、中世段階から撰銭行為が著しく、経済が混乱していた時代状況において、銭貨の品位や様式など質の揃った銭貨が求められていたことを強く意識していたのであろう。

 ただし、法量分布を細かくみると、輪外径および郭内幅と比較して、輪内径や郭外幅には各地の銭種により差異が大きい。文銭に比べて銭径や重量にばらつきが多いことは従来からも指摘されており、その要因として以下のような母銭の使用という鋳造方法と関連を持つものと指摘されている。すなわち、彫母銭から鋳込んで作られた母銭は、金属工具によって鋳肌の荒れを浚われる(鋳浚母銭(いざらいぼせん))が、その鋳浚の程度によって、微妙な差異を来たすとみるのである(注33)。この鋳造法は、銭径や重量のばらつきよりも、輪内径や郭外幅あるいは銭文の変異の要因と評価すると理解しやすい。

 ただ、鋳造法以外の側面も想定しておくべきかもしれない。後述する段階にみられるように、この古寛永段階にも手本銭だけでなく文書によっても規格の指定がなされていたものと思われるが、その規定はおそらく重量(量目)、輪外径(径)、郭内幅(目戸の差渡)であったことが考えられる。残念ながらこの段階の製作過程の実態を裏付ける史料はないようだが、本稿の結果を重視すれば、手本銭を基本とはするものの、輪内径や郭外幅は文書などによる厳密な規制がなされていなかったために、変異の幅が大きくなりやすかったということも考慮すべきであろう。

 銭貨の品質の上では、法量規格(注35)とともに原料配合の問題も重要である。この点について、化学的分析の結果から若干の補足をしてみることにしよう。ただ、残念ながら、これまでの成分分析では、どのような銭種の古寛永を分析したか詳細が不明であるため、厳密な位置付けはできないが、ある程度の参考にはなろう(注34)。主な分析結果を列挙すると以下のようになる(以下の数値はいずれも%)。

 まず、佐野有司氏らの分析(注36)では、

銅六七・二、鉛二五・八、錫六・三、鉄〇・一一
銅七五・三、鉛一九・九、錫四・二、鉄〇・一三
銅七九・〇、鉛一七・二、錫三・九、鉄〇・〇六
銅八九・五、鉛 六・五、錫三・四、鉄〇・一七
馬淵久夫氏らの分析では、 銅九〇・五、鉛 六・二、錫五・四
甲賀宜政氏の分析(注37)では、古寛永の浅草銭背星として、
銅七三・九八〇、鉛一〇・〇七四、錫一四・八五四、
鉄〇・一八九

となっている。

 これらが産地差や時代差を含むのかなどは、不明と言わざるをえないが、成分組成の上ではかなりばらつきが大きい。単純には比較できないものの、銭質は法量ほどには厳格に規制されていなかったと言ってよかろう。先にも挙げた『教令類纂』諸集の寛永十四年八月の史料には、手本銭の配布は明らかなものの、銭質には具体的な指示が認められない。金属配合にそれほどの厳密さが求められていなかったのか、あるいは規制があっても十分に達成されていなかったものと推測しておきたい。

 ただし、そうはいうものの、中世銭貨と比べると、成分組成上での特徴も指摘できる。例えば、中世末に当たる十六世紀末から十七世紀初め頃にかけて現在の鹿児島県の加治木地方で作られていたとされる加治木銭(注38)では、鉛や錫の量が少なく、銅が主成分であり、また鉄などの不純物とでもいうべきものがかなりの量で含まれている(注39)。数値は以下の通りである。

銅八五・六四、鉛一・八六、錫二・〇八、鉄三・〇〇四
銅八四・七四、鉛二・二一、錫三・一一、鉄四・八八四

また、中世末の堺で作られていた無文銭では、鉛や錫をほとんど含まず銅の純度が高かったり(注40)、日本で作られた可能性のある筑前洪武(降共)は銅と同じ程度に鉛が大量に含まれていたりしている(注41)

 それに対して、古寛永では、当該期の日本で産出量がそれほど多くなかった錫が五%前後というように一定量加わっており、また鉄などもあまり含まれておらず精錬の進んだ原料を用いている。その点でみると、古寛永は宋銭や明銭など中国銭の金属組成比と近い。つまり、古寛永は成分的に変異が大きいと言えども、日本の中世末段階に作られていた銭貨と比較すると、銭質は中国銭に近くかなり良好なものであったと言える。

 よく知られているように、中世末段階には、日本で鋳造された悪質な銭貨などが流通することによって経済活動が混乱をきたしていたが、それを克服するうえでは、金属成分の個体間変異を少なくするといった水準の厳密さよりも、銅を主原料に一定量の錫・鉛を含み、その他の不純成分は排除するといった緩やかなレベルでの均質化がなされていたと判断される。中世末において、文字が読めなかったり、銭径が小さかったり、厚さが薄かったりという物理的な欠陥銭も多い中で撰銭行為が頻発していた状況では、銭文が明瞭で、法量がほぼ一定の銭貨がまず求められるところであって、金属成分としては質を維持する成分組成を満たすことが求められたとも言えるであろう。

 次に古寛永の法量上のモデルの問題について、少し検討してみたい。まず指摘できるのは、古寛永に先行する慶長通寳とは法量において大きく異なっている点である。既に知られているように、慶長通寳はその多くが永楽通寳の鋳写しを基本に加刀して鋳型が製作された(注42)のに対し、寛永通寳は明らかに新規に母銭を製作している。また、慶長通寳は発行時の記録が残されておらず、詳細不明な銭貨である。慶長通寳と古寛永は、同じように日本の年号を銭文名に持ちながらも、両者はまったく別の理念のもとに製作されたもので、おそらく発行主体と鋳造組織の差異もその中に内包するものと判断される。

 次に、中国からの輸入銭と寛永通寳とを比較した結果、両者は近似した値を取るが、細かくみると古寛永は永楽通寳よりも少し小さく、宋銭を代表する皇宋通寳により近似することが明らかとなった。よく知られているように、永楽通寳は東国などでは、古銭一般よりも何倍かの高い価値が付与されており、江戸幕府段階の慶長一三年(一六〇八)でも永楽一貫文が鐚銭の四貫文という設定がなされている。また、古寛永はその発行当初において古銭、すなわち宋銭を初め古くより中国などから輸入されてきた銭と等価扱いで混用されていた。そうだとすれば、古銭と等価の寛永通寳が発行されるに当たり、価値の高い永楽通寳よりもその法量がわずかなりとも小さめであるのが自然であろうし、寛永通寳が北宋銭などの古銭の平均的な法量規格を勘案して設定された可能性を考えるほうが妥当ではなかろうか。そう考えることによって、上記の法量計測の結果は整合的に捉えることができるであろう。むろん、この問題は単にモデルとなる中国銭が何かというだけでなく、当該期の日本における度量衡ともからむ問題でもあり、より包括的な検討を今後要するところであろう。


(二)第二段階(文銭鋳造期〈十七世紀後半〉)


 文銭は、古寛永よりも法量としてまとまりが強い。その点は、先述の通り近年の考古学的研究である川根正教氏による論文でも指摘されており、川根氏はその背景として錫母銭の使用という鋳造技術の側面を重視している(注43)。古銭学の立場からは、この文銭が古寛永にくらべて銭容も精巧さを増しており、その銭文の種類としてもきわめて少ない点が既に指摘されているが、その要因とされているのも鋳造技術であり、その見解を川根氏も継承していることになる。ここで想定されている鋳造技術の差とは、古寛永段階ではすべて鋳浚母銭を使用して鋳造されたのに対し、この文銭段階からは新たに錫母銭が開発され、鋳造技術が著しく進歩したという点である(注44)。確かに、輪内径・郭外幅などの法量や銭文の偏差が少ない要因としてそのような技術的側面も忘れてはいけない。しかし、次の第三段階以降における銭貨の法量や銭文のばらつきをみるならば、錫母銭の採用だけでは説明が不足であろう。

 そこで注目しておきたいのは、この文銭の金属組成である。佐野有司氏らの分析(注45)では、以下のような結果が示されている(数字はいずれも%)。

銅六九・四、鉛二二・九、錫七・一、鉄〇・〇三
銅六七・一、鉛二四・一、錫八・一、鉄〇・一四
銅六六・六、鉛二四・〇、錫八・二、鉄〇・二六
銅六八・三、鉛二三・三、錫七・九、鉄〇・〇七

 このように、文銭は銅・鉛・錫の金属組成においても、きわめて近似した値を示し、均質な品位が保たれていたことがわかる。これらの点からすると、法量の均一化は、法量だけの問題に留めることはできず、むしろ成分組成を含めた銭貨の品質全体の統一が図られていたということになる。

 そういう状況から考えれば、法量分布のまとまりは、単なる鋳造技術の進展の問題よりも、文銭の鋳銭所が江戸の亀戸に限定されていたことが重要であり、その厳しい管理下で鋳銭が行われていたことに起因する側面をより重視すべきではなかろうか。幕府は当時まだ流通していた中国からの渡来銭や模鋳銭などの通用を禁止し、寛永通寳への一元化を図ろうとしており、そのような銭貨政策への幕府側の積極姿勢が、江戸亀戸の鋳銭所における集中的な管理生産や、法量の均一性が強い良質な銭貨の鋳造に結び付いたといえるだろう。

 また、重量において新寛永は古寛永より全体的にやや重い。それは、法量として古寛永よりもやや大きいのと対応しており、その意味でも古寛永以上に良質品であると判断される。

 ただし、法量分布のまとまりがよい文銭であるが、重量についてみると、三・〇~四・五グラム程度の分散傾向を示している。この点からすると、文銭は古寛永に比べて重量による偏差が小さいとは必ずしも言えないが、それは鋳造に起因する不可避的な分散と判断しておきたい。

 なお、文銭の金属組成比は、中国銭と比較すると明銭の永楽通寳ではなく、むしろ皇宋通寳などの宋銭の金属組成と一致している(注46)。古寛永は成分のばらつきが大きいので単純に比較は難しいが、この文銭に寛永通寳の目指すべき方向が示されているとすれば、先に古寛永で検討したように、寛永銭が永楽通寳よりも宋銭を目指していたことの反映を読み取れるかもしれない。

 一方、長崎貿易銭は、幕府より寛永通寳以外の銭文を強制されたことが知られているが、法量においても寛永通寳の規格外であり、重量も同時期に鋳造された文銭の平均値よりも軽い。先述の通り、法量・重量の双方において、長崎貿易銭は元豊通寳などの宋銭を基準とするものとみられる。文銭に比較すると法量にばらつきが大きい点は、おそらく長崎での技術水準や生産体制において文銭とは差異が存在したことに起因するのであろう。


(三)第三段階(新寛永鋳造期〈十八世紀後半〉)


 法量分布については、古寛永や文銭と比較して、各地鋳造銭の間でばらつきがかなり大きいことが指摘できる。重量としても、二・〇~四・三グラム程度のばらつきがある。

 この様相を呈する背景であるが、一つに鋳造期間の問題を想定しておく必要があるだろう。つまり、本稿で検討している古寛永は寛永一四年(一六三七)から寛永一七年(一六四〇)の比較的短期間の鋳造とみられるのに対して、新寛永は各鋳造地によってかなりの生産年代幅が存在し、それが法量分布に影響していないかを検討すべきということになる。必ずしも同一年に鋳造を開始しているわけではないので単純に比較できないが、近い時期のものを比較してみることとしたい。輪外径でみると、仙台背仙銭(一七二八~一七三六)では二四・五ミリメートル、佐渡銭(一七一四~幕末。計測分は一七四〇年頃か)では二三・五ミリメートル、足尾銭(一七四一~一七四五)では二二・五ミリメートルというように、近い鋳造時期にありながら法量差が著しい。輪の内径においても、それは同様である。重量としても、仙台背仙銭では三・五~四・三グラム、佐渡銭は二・三~三・〇グラム、足尾銭は二・〇~二・八グラムとなり、やはり差異が大きい。これらの点からすると、必ずしも鋳造年代だけによって、法量や重量の差が生じているのではないことになるであろう。そうすると、輪外径でみる限り、古寛永はかなり一定の数値とする規範が存在していたのに対し、第三段階(十八世紀後半代)の新寛永はそのような規制があまり働いていないことになる。

 一方、各産地と推測される新寛永の銭文の字体についてもみてみると、古寛永と比較すれば概してかなり差異が大きい。それは、古寛永と新寛永の法量分布のあり方と対応している。とすれば、それは古寛永と正徳期以降の新寛永の規制内容とその規制の徹底度を反映している可能性が推測され、その生産体制を窺う資料ともなるであろう。

 そこで、この段階における幕府の鋳銭に対する対応を、文献史料から少し再整理してみることにしたい。まず、正徳四年(一七一四)における貨幣鋳造の際の「入札注文」によれば、その一項に下記の通りの記載がみられる。

一 銭位之義ハ文銭之通ニ仕、壱銭之重ハ壱匁、大サ指渡八分、めどの広サ弐分四方ニ可仕候。尤手本銭差上御吟味ヲ請、鋳立可申候。若手本銭ニ少も仕候ハバ、幾度も吹直可申候。

 各地の銭座が、幕府の示した素材配分、量目、径や郭(めど)の寸法に従って制作した手本銭を幕府へ提出し、厳重な検査に合格すれば、それをもとに鋳銭を行うといった方法がとられたことがわかる(注47)。これは、明らかに古寛永段階の手本銭の配布とは異なるあり方になっている。この変化がどのような結果をもたらしたかは、元文四年(一七三九)五月の幕府の通達により知ることができる。それによれば、近時銭座を願い出るものが手本銭を造り願書と併せて提出するが、向後は手本銭の鋳造を禁止し、手本銭を提出する必要があれば当局より指示するとしている。すなわち、銭座志望者が勝手に幕府側の指定に沿わない手本銭を鋳造して銭座の許可を出願するようになり、手本銭配布のいわば古寛永方式に戻したことになる。

 元文以前の鋳銭の開始状況を窺える享保期の佐渡銭の場合、当時江戸で鋳造されている新銭の原材料の合金割合が不明で、江戸の銭座の呉服師も秘事として報告しないため、老中に上申することによりようやくその割合を知ったという。そして、その割合を記した書き付けとともに、呉服師より新銭三文を得たらしい。これは、やはり古寛永段階とは異なる鋳造形態であろうし、新銭を受け取るものの手本銭としてきっちりと配布されるようなものではなかったことになる。このような状況であれば、本稿で明らかなような、法量のばらつきが起こるのも当然であろう。先の元文四年における禁令の背景も、既に小葉田淳氏が推測するように、通用銭においても形量銭位ともに区々のものが実際に多く流通するようになったという情勢を反映するものであろうし、本稿の法量計測結果はまさにこの状況を裏付けるものとなっている。

 一方、元文の禁制以降の状況も問題になる。禁制よりは少し遡るものの、元文二年(一七三七)の秋田の銭座許可に際しては、勘定組頭より量目八分、径八分、目戸の差渡四分などと記した書付と手本銭を与えており、元文頃には鋳銭に対して幕府が積極的に介入していることがわかる(注48)。しかし、寛保元年(一七四一)に秋田鋳銭は目方八分であり、地がね値段・吹方諸経費が高騰したため目方の軽減を計画していたが、その際に大坂表の銅山の鋳銭では目方六分五厘というすこぶる軽量であることを知った旨の記録が残されている(注49)。要するに、各鋳銭場の情勢に従い、規格にずれが生まれており、元文期に企図したような規格統一は実際には達成されなかったものと推測できる。それは、本稿の称秋田銭以外も含めた結果からもやはり裏付けられるところであろう。

 次に、金属組成の面について取り上げたい。まず、関連する文献史料から確認しておく(注50)。先に挙げた正徳四年(一七一四)の「入札注文」によれば、銭位は文銭を基準にするとされている。また、元文二年(一七三七)の秋田における鋳銭では、銭百貫目一吹に銅七〇九〇〇目、錫九二〇〇目、鉛一九九〇〇目をもって吹きたてたとされる。銅/鉛比を仮に取れば、三・五六となり、銅・鉛・錫の三成分による比率は、七〇・九%、一九・九%、九・二%である。享保二年(一七一七)の相川の鋳銭(佐字銭)では、耳白銭(文銭)に準じて、銭一万貫文につき、銅一万貫、白目錫三〇〇貫、上錫一〇〇〇貫、鉛二八〇〇貫を用いた。銅/鉛比では、三・五七となり、秋田の例とほぼ一致する。また、白目錫と上錫を単純に錫として加算すると、銅・鉛・錫の三成分による比率は、およそ七〇・九%、一九・九%、九・二%となり、やはり秋田銭と一致していることになる。このように文献史料からみる限り、一定の規格が目指されていたことになろう。

 文献史料と対応する寛永銭について、金属組成分析がなされているわけではないが、確認できるこの段階の新寛永の分析学的研究(注51)では、成分組成が必ずしも一致しない(以下の数値はいずれも%)。例えば寛保元年(一七四一)より鋳造が行われている足尾銭では、

銅八三・二〇五、鉛五・三八一、錫 七・五四三、鉄〇・八〇五
銅八一・一四二、鉛四・六七二、錫一三・〇六六、鉄〇・七一五
銅八一・八二〇、鉛九・九三五、錫 六・二一五、鉄一・〇〇八

 それに対して今回は計測を行っていないが、足尾銭と同様に寛保年間に鋳造されたとみられる背元銭(称高津銭)では、

銅七七・四四〇、鉛九・一八〇、錫三・五五五、鉄 四・五〇〇
銅七五・七三〇、鉛四・三五二、錫一・六五九、鉄 九・八〇〇
銅七三・五六〇、鉛七・三四四、錫二・九二三、鉄一一・〇〇〇
銅七四・三六、鉛三・六六、錫一八・七二、鉄〇・六九(種銭)

となっており、銅が七五%程度と少なく、錫も三%以下と少ない。また、種銭を除くと、他の銭貨に比べて、鉄や砒素が多いのも特徴である。鉄や砒素については精錬との関連もあるとみられるが、明らかに足尾銭と成分において異なっている。

 このように、近い発行年代のものに限って比較しても、新寛永は法量分布も成分組成もいずれも大きな差があることが明確である。この段階では、寛文一〇年(一六七〇)に寛永通寳以外の銭貨が通用禁止となっていたこともあり、既に全国的に銭貨はほぼ寛永通寳しか流通していない状況になっていたと考えられる。このため、以前にみられたような撰銭行為の防止を目指し、他の銭貨との優位性などを配慮する必要もなくなったと考えられ、法量や銭位などの縛りも緩やかなものになったと思われる。さらに、このような地域差の顕在化には、時代状況による規制の緩和とともに、各地での財政事情や原材料の価格の騰落といった個別事情により、小型軽量化や品質低下をもたらさざるを得なかったという内因も存在したであろう。


(四)第四段階(鉄銭・真鍮銭鋳造期〈十八世紀後半〉)


 まず法量分布については、輪外径でみてみると、長崎銭が二三・二~二三・六ミリメートル、仙台背千銭Bが母銭で二三・一~二三・八ミリメートル、通用銭で二三・三~二三・七ミリメートル、久慈背久銭が母銭で二三・六~二三・九ミリメートル、通用銭で二三・四~二三・七ミリメートル、久慈背久二銭が母銭で二三・五~二四・〇ミリメートル、通用銭で二三・六~二四・一ミリメートル程度である。鉄銭の場合、計測数が少ないためか母銭に比較して通用銭が必ずしも小さい径を持たない結果になっており、鉄サビによる膨張なども含めて少し検討を要する。ただ、鉄銭が通用銭である仙台背千銭B・久慈背久銭・久慈背久二銭の銅母銭は長崎銭より概ね一回り大きめで、上記三銭の通用銭はほぼ長崎銭と一致していることが明らかとなる。そうすると、第四段階の銭貨群は、新寛永でも第三段階に比較すると全体にばらつきが小さいことになる。

 この背景としては、明和期前後というように鋳造時期がほぼ一致していることも挙げられるであろうが、第三段階でも鋳造時期が近いとみられるものが必ずしも一致しているとはいえない点からすると、別の側面、特に鋳造体制そのものをより重視すべきであろう。そこで注目されるのは、明和二年(一七六五)に、江戸鋳銭定座が設立され、それから後の地方鋳銭に対しては江戸鋳銭定座から手本銭が送付されることとなった点である。これは、古寛永と同じ体制である。既に検討したように、古寛永には各地で鋳造が行われているのにもかかわらず、サイズにある程度のまとまりがみられるが、その背景には手本銭の配布による鋳造体制が重要である点を指摘した。この明和段階も手本銭配布という方式が採用されたことが上記のような法量的な集中をもたらすことになったのであろう。

 また、その手本銭配布方式は元文四年段階にも再び採用されたはずだが、今回の法量計測からすると現実には必ずしも十分に達成されなかったようである。そう考えると、この第四段階の明和期以降は、江戸鋳銭定座の設立を初めとして、幕府側がかなり鋳銭事業全体にわたり管理体制を強化し、それが機能していたことが窺い知れるであろう。

 ただこの場合も、法量計測結果をみると、古寛永などでも指摘できたように、輪内径の方が輪外径よりも少しばらつきが大きい。したがって、手本銭の配布は存在したであろうが、第三段階の新寛永における書面上の規定にもあるように、厳密な検査の対象になっていたのは法量では輪外径と郭内幅で、その他は規制が弱かったと考えるべきであろう。

 なお、この段階に鋳造された可能性がある仙台背千銭Aについては、母銭で二四・七~二五・〇ミリメートル、通用銭で二三・五~二四・三ミリメートルとなっており、長崎銭や仙台背千銭B・久慈背久銭・久慈背久二銭よりも径が明らかに大きく、異質な存在である。鉛同位体比分析の結果においても、この段階の他の銭貨と比較して、この仙台背千銭Aのみ様相が異なっている(注52)。その評価は、仙台背千銭Aが明和期以前の鋳造である可能性も含めて、今後の検討課題とせざるをえない(注53)

 一方の成分については、本稿でも検討を行ってきた長崎銭について分析が行われている(注54)。その結果は、

銅五九・九五五、鉛一六・九七五、錫一三・八五二
銅五六・四六五、鉛二〇・四一九、錫一八・二〇三

である。明らかに、銅の成分比が小さくなっていることが指摘できる。この点は、長崎銭がこれ以前の寛永銭と比較して、法量的にも径が小さくなっており、重量も二・四~二・九グラムであり、三グラムを切っている点とも呼応させることが可能であろう。これは、先述のように、銅生産が伸び悩み、輸出銅の確保などのために、鋳銭用銅が十分に確保しがたい状況に陥っていたことの反映と推測されよう。なお、成分組成において、測定品は二点ながらも、それほどばらつきはないようである。これは法量において比較的まとまっている点とも呼応していると言えよう。

 このようにみてくると、この第四段階では、この前の段階よりは銭貨の法量規格が守られているようであり、手本銭の配布をはじめ、幕府が鋳銭所に対し厳格な鋳造体制を求めた可能性を指摘できる。当該期は金銀貨に悪鋳が続き、銭相場が相対的に騰勢を続けていたこともあり、銭貨鋳造がもたらす膨大な収入を求めて、各地の商人が銭貨鋳造を幕府に願い出るケースが多くみられたようである。幕府はこうした動きを抑制するためにも、鋳銭事業の管理体制を強化し、銭貨流通の安定化を図ろうとしたのではなかろうか。


 五 結語


 本稿では、日本の近世銭貨である寛永通寳と長崎貿易銭を主たる研究対象として、法量や金属成分組成などに着目し、検討を試みた。本稿の主な検討結果を時間軸に沿って改めて整理してみると、以下のようになる。

 第一段階 古寛永鋳造期(十七世紀前半)

 この段階は、法量分布が概ね一定値を示すことが明らかとなった。それは、幕府側から手本銭を配布する方式が現実に採られたことに起因するものとみられる。ただし、輪外径や郭内幅に対して輪内径や郭外幅にやや変異が大きいのは、鋳浚などによる改変の結果や法量規定により厳格に規制された部位か否かと関連するものと判断した。また、銭貨の品位では、かなりばらつきが大きいものの、中世日本で作られていた模鋳銭などと比べて、明らかに良質のものと言える。法量の規格化や銭位の向上には、中世からの悪銭流通による経済混乱の解消への幕府側の姿勢が読み取れよう。さらに、古寛永は法量として慶長通寳とは大きく異なり、両者には明らかに異質の発行主体を考えるべきである。また、法量上における古寛永のモデルは、従来指摘のある永楽通寳よりも宋銭を考えるのが妥当とみられ、古寛永が宋銭などの古銭と等価で流通していた状況と矛盾しない。

 第二段階 文銭鋳造期(十七世紀後半)

 文銭の法量分布は非常にまとまりが強い。この要因を鋳造技術に求める考えもあったが、それだけでは十分な説明とはならない。この文銭は金属組成をみてもきわめて均質であることから、法量と品位の規格性は江戸亀戸において厳格な品質管理のもとに鋳銭が行われたという生産体制の側面が重要だとみるべきであろう。また、そこには寛永通寳一元化への幕府側の強い意向も現れていると推測した。一方の長崎貿易銭は、寛永通寳と法量の規格が異なり、むしろ長崎貿易銭の銭文にも採用されている元豊通寳などとほぼ一致することが指摘できた。また、長崎貿易銭が文銭ほどには法量分布がまとまっていないのは、文銭の生産組織との差異を反映するものとみられる。


  第三段階 新寛永鋳造期(十八世紀前半)


 法量分布においては、ほぼ同時期の鋳銭であっても、銭座によってばらつきが非常に大きいことが明確となった。これは、銭座が各々で見本銭を鋳造のうえ、それを幕府に提出して検査を受ける方式が主に採られるなど、管理体制が甘くなったことが反映していると推測した。この段階には、一時期ながら、手本銭を幕府から配布する方式などを採り、管理強化を目指すことが史料から知られるが、本稿の計測結果からみて、その実効性は乏しかったと判断される。成分組成についてみても、同時期の鋳銭であろうと、やはり産地によってかなり差異が大きい。この背景には、既に寛永銭のみが潤沢に流通する時代状況のもと品質規制が以前ほど必要でなくなったことや、各産地における財政事情や原料価高騰などにより質の低下が避けざるをえなかったことを想定すべきであろう。

  第四段階 鉄銭・真鍮銭鋳造期(十八世紀後半)

 一文銭の法量は以前より縮小しつつも、かなりまとまりのある分布を示していることが明瞭となった。この法量のまとまりは、江戸鋳銭定座から手本銭が配布されたという生産方式に起因しているものとみなされる。また、銭位としては、銅の成分比がかなり小さいということも指摘できた。このような銭径の縮小や銅品位の低下は、銅生産が頭打ちとなり、輸出銅を確保する必要性などのために、鋳銭用銅が十分に確保しがたい状況に陥っていたことの影響であろう。

 以上、法量計測の結果などから得られたデータをもとに推論を加え、考え得る背景についての仮説も列挙してみた。本稿により、近世銭貨の品質規格に関する考古学的研究の方向性と、その一定の見通しを得ることはできたのではなかろうか。今後、本稿の結論を検証するためには、文献史料等からのさらなるアプローチが必要不可欠である。また、今回調査した銭種としては、鋳造地がかなり確かなものに対象を限定し、さらに文銭を除くと基本的に地方鋳銭を取り上げたのであるが、今後は鋳造地不詳の銭種などにも検討範囲を広げることが必要になるであろう。加えて、鋳造地の確実な銭座からの発掘資料なども調査対象として検討することは重要である。これら残された種々の課題達成を念じつつ、本稿を終えることとしたい。



 【註】

  1. 出土銭貨研究会『出土銭貨』創刊準備号~第一二号、一九九三~一九九九年。国立歴史民俗博物館編『お金の不思議―貨幣の歴史学―』山川出版社、一九九八年、ほか。

  2. 鈴木公雄『出土銭貨の研究』、東京大学出版会、一九九九年、ほか。

  3. 日本銀行調査局『図録日本の貨幣』二、一九七三年。甲賀宜政「古銭分析表」『考古学雑誌』第九巻第七号、一九一九年、ほか。法量計測などは古銭学的な立場から言及されているが、甲賀宜政氏の研究や後述の奈良国立文化財研究所による報告など、むしろ自然科学的な立場からこれまで推進されてきたものともいえる。

  4. 奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査報告』Ⅳ、一九七四年。永井久美男「古銭の計測」『中世の出土銭―出土銭の調査と分類―』、一九九四年、ほか。

  5. デジタル式ノギスは、Mitutoyo CD‐S20C、電子天秤ばかりは、Shinko Denshi HG‐2000を用いた。

  6. 川根正教「寛永通宝銭の径・重量における特徴」『考古学研究』第四三巻第二号、一九九六年。

  7. 齋藤努・高橋照彦・西川裕一「近世銭貨に関する理化学的研究-寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析-」『IMES DISCUSSION PAPER』No.2000-J-1、日本銀行金融研究所、二〇〇〇年。

  8. 高橋照彦「日本における銭貨生産と原料調達」『国立歴史民俗博物館研究報告』第八六集、二〇〇一年。

  9. 鋳造地比定の根拠の認められる古寛永といえども、銭貨の外容から鋳造地比定を行うことには問題を内包している。例えば長門や備前の銭座が発掘調査されており、そこからさまざまな鋳放銭などが出土しているが、それらは必ずしも単一種ではないのである。つまり、ある銭座で幾つかの種類の銭を鋳造しており、しかもほぼ同じタイプの銭を別の銭座で鋳造している場合も存在する。ただし、本稿で抽出した銭貨は、古寛永でも特徴的な銭文のもので、鉛同位体比分析の結果からもほぼ各産地のものと推定して矛盾しない結果が得られているので、とりあえずその産地の銭貨とみなしておきたい。また、銭貨の名称として鋳造地名を冠するよりも、異永などの細かな分類名を用いるのが本来はふさわしいと考えられるが、必ずしも現状では統一的に分類されているわけではなく、分類も複雑であるため、本稿では地名を冠した名称を採用することとした。池田善文「長門銭屋の鋳銭所跡と問題点」『近世の出土銭Ⅰ 論考篇』、兵庫埋蔵銭調査会、一九九七年。神谷正義「岡山市二日市遺跡の発掘  寛永通寳鋳銭場の一例」『近世の出土銭Ⅰ 論考篇』、兵庫埋蔵銭調査会、一九九七年。齋藤努・高橋照彦・西川裕一「近世銭貨に関する理化学的研究-寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析-」『IMES DISCUSSION PAPER』No.2000-J-1、日本銀行金融研究所、二〇〇〇年。高橋照彦「日本における銭貨生産と原料調達」『国立歴史民俗博物館研究報告』第八六集、二〇〇一年、ほか。

  10. 古寛永の分類とその識別基準については、東洋鋳造貨幣研究所の古田修久氏に全面的に御教示を受けた。ここに記して謝意を表したい。分類は本論の主旨ではないため、特徴的な点のみをかいつまんで記すに留める。

  11. 田中啓文「寛永一四年長門鋳造銭の確定」『貨幣』一七二号、一九三三年。同「毛利家所蔵の手本銭に就て」『貨幣』一七三号、一九三三年。

  12. 山口県埋蔵文化財センター『銭屋』、一九八七年。

  13. 東洋鋳造貨幣研究所「長門銭を窓として─鋳造地比定に盛行した古寛永通寳から」『方泉處』八号、一九九四年。

  14. 神谷正義「岡山市二日市遺跡の発掘─寛永通寳鋳銭場の一例」『近世の出土銭Ⅰ 論考篇』、兵庫埋蔵銭調査会、一九九七年。

  15. 松本市『市民タイムス』一九八八年八月二一日版、一九八八年。東洋鋳造貨幣研究所「今後の古寛永通寳研究―実証的資料と新しい分類法の模索」『方泉處』八号、一九九四年。

  16. 三上香哉「常陸国に於ける鋳銭座の調査報告(中)」『貨幣』二八号、一九二一年。東洋鋳造貨幣研究所「今後の古寛永通寳研究  実証的資料と新しい分類法の模索」『方泉處』八号、一九九四年。

  17. 赫 璋「称仙台銭の濶字高頭通の背刔輪など」『収集』第二三巻第九号、一九九八年。

  18. 木村 智「寛永期陸奥仙台鋳銭座考」『貨幣』第九巻第一号、一九六五年。東洋鋳造貨幣研究所「古寛永通寳の鋳造地と名称に関する疑問―近世~現代の寛永銭分類譜から」『方泉處』八号、一九九四年。

  19. 東洋鋳造貨幣研究所『新寛永通寳図会』一九九八年を参照。なお、他の銭種についても、同書を全面的に参照している。

  20. 山村信榮「太宰府天満宮参道鳥居出土の銭貨」『近世の出土銭Ⅱ―分類図版篇―』、一九九八年。

  21. 小葉田淳「元文・寛保期の鋳銭について―秋田の鋳銭―」『日本銅鉱業史の研究』、思文閣出版、一九九三年。

  22. 齋藤努・高橋照彦・西川裕一「近世銭貨に関する理化学的研究-寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析-」『IMES DISCUSSION PAPER』No.2000─J─1、日本銀行金融研究所、二〇〇〇年。高橋照彦「日本における銭貨生産と原料調達」『国立歴史民俗博物館研究報告』第八六集、二〇〇一年。

  23. 小葉田淳「元文・寛保期の鋳銭について―秋田の鋳銭―」『日本銅鉱業史の研究』、思文閣出版、一九九三年。

  24. 小葉田淳「近世、佐渡の鋳銭と産銅」『日本銅鉱業史の研究』、思文閣出版、一九九三年

  25. 齋藤努・高橋照彦・西川裕一「近世銭貨に関する理化学的研究-寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析-」『IMES DISCUSSION PAPER』No.2000―J―1、日本銀行金融研究所、二〇〇〇年。高橋照彦「日本における銭貨生産と原料調達」『国立歴史民俗博物館研究報告』第八六集、二〇〇一年。

  26. 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室の調査。兵庫埋蔵銭調査会『日本出土銭総覧』、一九九六年

  27. 高橋照彦「千葉県市原市菊間出土銭」『出土銭貨』第八号、一九九七年。

  28. 川根正教「寛永通宝銭の径・重量における特徴」『考古学研究』第四三巻第二号、一九九六年。

  29. 例えば、島田保彦氏は足尾銭の中の飛び離れて大振りなものについて、鋳銭開始時に幕府に稟申したときの稟議銭と考えている。現在の資料ではこの点の解決などを図ることは難しいが、多面的な検討が必要である。島田保彦「足尾銅山と寛永通寳」『ボナンザ』一月号、一九七八年。

  30. 川根正教「寛永通宝銭の径・重量における特徴」『考古学研究』第四三巻第二号、一九九六年。

  31. 小葉田淳『日本の貨幣』、至文堂、一九五八年。

  32. 石垣 宏「仙台藩の貨幣鋳造」『宮城の研究』第三巻、一九八三年。

  33. 日本銀行調査局『図録日本の貨幣』第三巻、一九七四年。このほか、各地ごとに製作された鋳型(砂型)の原料の違いにより収縮率が異なり、輪内径や郭外幅に影響を及ぼした可能性なども考慮する必要があるかもしれない。

  34. 本文中に掲げたデータは、厳密に言えば化学分析の方法が異なるため、単純に同列に置いて比較すべきではないが、大枠をみる上では支障はないであろう。

  35. 佐野有司・野津憲治・富永健「多変量解析法を用いる古銭の化学組成の研究」『古文化財の科学』二八、一九八三年。

  36. 馬渕久夫・山口誠治・菅野等・中井敏夫「原子吸光法による東洋の古銭の化学分析」『古文化財の科学』第二二号、一九七八年。なお、鉄については分析値が示されていない。

  37. 甲賀宜政「古銭分析表」『考古学雑誌』第九巻第七号、一九一九年。

  38. 背面に「加」「治」「木」のいずれか一字を鋳出した銭貨。鉛同位体比分析の結果でも国産原料の値が示されている。齋藤努・高橋照彦・西川裕一「中世~近世初期の模鋳銭に関する理化学的研究」『金融研究』第一七巻第三号、一九九八年、参照。

  39. 佐野有司・野津憲治・西松重義・不破敬一郎・井山弘幸・富永健「多変量解析法を用いる古銭の化学組成の研究」『古文化財の科学』二八、一九八三年。馬渕久夫・山口誠治・菅野等・中井敏夫「原子吸光法による東洋の古銭の化学分析」『古文化財の科学』第二二号、一九七八年。咲山まどか・赤沼英男・櫻木晋一・佐々木稔「中世出土銭の形態的特徴と材質の比較研究」『出土銭貨研究会第四回大会報告要旨集』、一九九七年。

  40. 富沢威・横山哲也・米沢仲四朗・薬袋佳孝・富永健・嶋谷和彦「中世銭貨の化学組成」『堺市文化財調査概要報告』第六一冊、一九九七年。嶋谷和彦「中世の無文銭とその成分組成」『季刊考古学』第六二号、一九八八年。

  41. 櫻木晋一・赤沼英男・市原恵子「洪武通寳の金属組成と九州における流通問題-黒木町の出土備蓄銭を中心に-」『九州帝京短期大学紀要』第七号、一九九五年。櫻木晋一「洪武通寳の出土と成分組成」『季刊考古学』第六二号、一九九八年。鉛同位体比分析については、齋藤努・高橋照彦・西川裕一「中世~近世初期の模鋳銭に関する理化学的研究」『金融研究』第一七巻第三号、一九九八年、参照。

  42. 齋藤努・高橋照彦・西川裕一「中世~近世初期の模鋳銭に関する理化学的研究」『金融研究』第一七巻第三号、一九九八年、参照。

  43. 川根正教「寛永通宝銭の径・重量における特徴」『考古学研究』第四三巻第二号、一九九六年。

  44. 日本銀行調査局『図録日本の貨幣』第二巻、一九七三年。

  45. 佐野有司・野津憲治・富永健「多変量解析法を用いる古銭の化学組成の研究」『古文化財の科学』二八、一九八三年。

  46. 佐野有司・野津憲治・富永健「多変量解析法を用いる古銭の化学組成の研究」『古文化財の科学』二八、一九八三年。

  47. 小葉田淳『日本の貨幣』、至文堂、一九五八年。

  48. 小葉田淳『日本の貨幣』、至文堂、一九五八年。

  49. 小葉田淳「元文・寛保期の鋳銭について―秋田の鋳銭―」『日本銅鉱業史の研究』、思文閣出版、一九九三年。

  50. 小葉田淳『日本の貨幣』、至文堂、一九五八年。

  51. 古い分析結果なので、その結果を単純に用いてよいかは問題とされるかもしれないが、本稿でみるような巨視的把握には差し支えないであろう。甲賀宜政「古銭分析表」『考古学雑誌』第九巻第七号、一九一九年。

  52. 齋藤努・高橋照彦・西川裕一「近世銭貨に関する理化学的研究-寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析-」『IMES DISCUSSION PAPER』No.2000―J―1、日本銀行金融研究所、二〇〇〇年。高橋照彦「日本における銭貨生産と原料調達」『国立歴史民俗博物館研究報告』第八六集、二〇〇一年。

  53. 仙台では、実際に発行に至ったかは不明ながら、宝暦期に鉄銭の鋳造を示唆する記事があるらしい。仙台背千銭Aが、明和期以前の鋳造であれば、法量の矛盾は解消することになるが、その点は後考に委ねたい。東洋鋳造貨幣研究所『新寛永通寳図会』、一九九八年。

  54. 甲賀宜政「古銭分析表」『考古学雑誌』第九巻第七号、一九一九年。


(たかはし てるひこ 当館研究員)

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