『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行


近世銭貨の生産と品質規格

─寛永通寳と長崎貿易銭の法量計測的研究─

高橋 照彦



 一 はじめに ―本稿の目的と方法―


 近年、古代の富本銭や中世の模鋳銭あるいは大量出土銭など、新たな発掘成果が次々に報告されており、考古学の分野において出土銭貨の研究が盛んである。そのような研究の活況は、考古学だけにとどまらず、文献史学(日本史ならびに東洋史)や民俗学あるいは分析科学などの多くの分野を巻き込んで、新たな段階の貨幣(銭貨)史の研究に向かおうとしていると言っても過言ではない(注1)。本稿も、計測という手法を用いて、銭貨に考古学的な検討を加え、文献史学あるいは古くから収集家によって培われてきた古銭学の成果と付き合わすことで、銭貨を巡る歴史を少しでも豊かに描き出そうとする試みの一つである。

 さて、本稿で対象とするのは、日本近世における銭貨である。近世銭貨といえども、周知の通り、その中には各種のものが含まれる。本稿では、銭種相互の比較検討を行うため、その内でも最も一般的な一文銭に対象を絞ることにする。近世の一文銭には、よく知られている寛永通寳、それに長崎貿易銭や仙臺通寳(せんだいつうほう)鉄銭などがある。仙臺通寳は、撫角(なでかど)銭とも呼ばれる方形に近い特殊な形態のものでもあるため、本稿では通例の円形方孔銭である寛永通寳と長崎貿易銭のみを検討対象とすることにした。言うまでもないが、寛永通寳は、寛永十三年(一六三六)に初めて鋳造されて以来、二百年以上の長い期間にわたって、小額決済用の貨幣として全国的に使用された銭貨である。一方の長崎貿易銭は、国内流通の一般的な銭貨と異なり、万治三年(一六六〇)から長崎において鋳造された輸出用銅銭である。

 これら近世銭貨については、古代・中世に比べるとまだまだ考古学的な側面での研究が立ち遅れているものの、それでも墓出土の六道銭の検討を初めとしていくつかの貴重な成果が上がっている(注2)。本稿は、そのような近世考古学で研究が進捗しつつある近世銭貨の流通や使用形態の側面ではなく、むしろその生産の側面に焦点を当てることにした。その際、先にも触れたように法量計測の結果に基づいて検討を進めた。

 法量計測とは、銭貨の各部位の幅や厚さなどを計測することである。従来の研究でも、重量や銭貨の直径を測定することは行れており(注3)、特に重量は古銭学的な立場から最も重視されてきた要素の一つである。しかしながら、銭貨は鋳造という製作方法上、個体による重量のばらつきが生じざるをえない。また、後に掲げる測定結果からも確認できるように、銭貨は金銀貨とは異なり、重量の厳密な均一化よりは、母銭に基づく法量や銭文の規格化の方がその企図を反映しやすいものと判断される。従来の研究においても、重量を重視しすぎたために銭種による変化が不明瞭になったと思われる研究例もある。それらを克服するため、重量(量目)を無視するものではないが、量目よりも法量(寸法)に重点を置いて本稿では検討することにした。

 一方、法量の測定に当たっては、単に銭貨の外径だけでなく、もう少し細かく計測場所を設定することによって、より微細な検討に耐えるようにした。計測部位は、銭貨外周の縁部である輪の外径と内径、銭貨の方孔の縁をなす郭の外幅と内幅、それに輪の厚さである。径や幅はそれぞれ縦と横の二方向で計測し、輪の厚さも二箇所を測った(図1)。また、計測結果の検討を行う際には、それぞれ二箇所の計測の平均値を用いた。

 このような計測方法は、既に奈良国立文化財研究所や永井久美男氏などにより、古代・中世銭貨について一部行われている(注4)。永井久美男氏による測定では、計測の簡略化のために郭については計測していないが、後述するようにその箇所は重要な要素のため、計測部位に含めている。また永井氏は、輪内径などの計測箇所は、銭文があり計測が困難なものもあるために、銭貨の縦横方向ではなく、斜め方向としている。確かにその点は永井氏の指摘の通りであるが、そのような銭貨については、随時計測可能な二箇所を測定することで対応することにした。

 今回の計測において、採寸はデジタル式ノギスを用いて上記各部位を〇・〇一ミリメートル単位で行い、重量は電子天秤ばかりを用いて〇・〇一グラム単位で測定した(注5)。今回の計測によってかなり正確な数値データを提示できたはずである。加えて、個別銭貨のばらつきの度合いを明らかにし、基礎的な資料としても今後の活用に生かせるように、一つの銭種でも五~六点の銭貨について測定することにした。

 これまでの法量計測的な研究において全般的に指摘できるのは、計測結果から歴史的な読み取りを行う作業が十分ではない点である。特に、近世銭貨の法量に関しては、小判などとは異なり、これまで総括的な検討がほとんどなされてこなかった。考古学的に検討された近世銭貨の若干の研究例(注6)についても、検討対象範囲が限られていたこと、重量や銭貨外径のみが測定されていることなどから、後述のように問題の残る結論や十分に検討が及んでいない側面がある。

 また、一口に寛永通寳と言っても各地で各時期に作られているため、それらを踏まえた検討を行わねば歴史的な意味を汲み出しがたい。ところが、それに見合った研究はこれまでなされてこなかった。そこで本稿では、古銭学的な細分類を最近の考古学的知見で検証した上で、その細分された各種銭貨ごとに検討を行う方法を採った。

 本稿では、上述のような視点に立った法量・重量の計測法に基づいて、寛永通寳や長崎貿易銭の製作上における規格の厳格性を吟味し、断片的な文献史料や科学分析結果などと重ね合わせることによって、近世における銭貨の生産体制がどのように変化していったのかを跡付けてみることにしたい。

 なお、本研究は、もともと日本銀行金融研究所所蔵銭貨の理化学的研究のために、国立歴史民俗博物館の齋藤努氏ならびに日本銀行金融研究所の西川裕一氏と共同に進めていたものである。筆者は、理化学的調査対象の銭貨について考古学的な観点からも基礎的なデータを取っておくことが必要であると考え、採拓と法量計測を行っていたが、本稿はその結果に基づくものであり、いわば副産物とでも言うべきものである。そのような経緯により成稿したため、本稿における計測対象資料はいずれも日本銀行貨幣博物館の所蔵品である。

 また、その共同研究の結果については、既に別に詳細な報告をまとめているが(注7)、文献としても入手の難しいものであるため、そのうちの法量計測の検討部分のみをここに抄出することにした。内容的にはそれと本稿は重複しているものの、報告後の指摘をふまえた補訂や金属成分組成の追加検討なども加えている。

 計測作業に当たっては、西川裕一氏のご助力を得ており、研究全般にわたっては日本銀行金融研究所から多大のご援助を受けた。あらかじめ、その点をここに明記し、感謝の意を表したい。近世銭貨の鉛同位体比分析結果については、日本銀行金融研究所における共同研究報告のほかに、『国立歴史民俗博物館研究報告』においても発表しているので、参照願いたい(注8)


 二 計測資料の分類


 対象として選択した銭種は、先述のとおり、大きくは寛永通寳ならびに長崎貿易銭に分けられ、その比較資料として中国銭などについても併せて計測を行った。そのうち寛永通寳一文銭は、「古寛永」と通称されるものと「新寛永」と通称されるものとに大別される。その二種は銭文の字体に特徴があり、古寛永では、「寛」字の十二画と十三画が頭の部分で接していて、「寳」字の十八画と十九画がやはり頭で接している(その形状から、一般に「ス貝寳」と呼ばれる)。それに対し、新寛永は「寛」字の十二画と十三画の頭の部分が離れていて、「寳」字の十八画と十九画もやはり頭が離れている(その形状から、一般に「ハ貝寳」と呼ばれる)。

 以下、法量計測による検討に先立ち、かなり煩瑣ではあるものの、計測資料に関する基礎的情報を提示するため、「古寛永」「新寛永」「長崎貿易銭」の順に、その銭貨の概要ならびに本稿で採用する細分類とその研究現状などについてまとめておきたい。


(一)古寛永


 寛永通寳は、寛永十三年(一六三六)から、江戸・近江坂本・建仁寺(京都)・大坂で鋳造が開始される。翌十四年(一六三七)には、水戸・仙台・吉田・松本・高田・長門・備前・豊後での鋳造も行われ、さらに寛永十六年(一六三九)には駿河の井之宮でも鋳銭が行われている。その後、寛永十七年(一六四〇)に一旦鋳銭が停止したものの、明暦二年(一六五六)から万治二年(一六五九)まで、江戸浅草鳥越と駿河沓谷で再び寛永通寳の鋳造が行われている。これらの時期に鋳造されたと想定されている寛永通寳が、一般に「古寛永」と呼称される銭貨群に相当する。

 本稿で取り上げるのは、古銭収集界の分類でいうところの「長門銭」「備前銭」「松本銭」「水戸銭」「称仙台銭」の五種である。言うまでもなく、できるだけ多くの種類を検討するのが望ましいが、微細な分類は識別において変動の幅も大きく、かなりの数にも上るため、全種を網羅して検討するのは現実的な作業とは言いにくい。しかも、古銭収集界の分類により比定された鋳造地名はほとんどが確実な根拠を伴うものではないため、その比定に沿って分析を進めるのは問題 が多い。したがって、多くの銭種を悉皆的に調査するのは今後の研究に委ねることとし、まずは計測対象を絞りこむことにした。すなわち、鋳造地比定の根拠が比較的伴っていると判断される先に挙げた五種を基準資料として計測対象に取り上げることにする。(注9)

 それでは、以下、本稿で計測を行った銭貨の種類ごとに、若干の補足説明を行っておく(注10)


a 長門銭


 長門で鋳造された寛永銭については、田中啓文氏が毛利家所蔵銭の調査を行った結果、その概要の推測が可能となっている(注11)。寛永年間より藩地の宝庫に納められていたという紐に貫かれたままの古寛永通寳のうち、「不仕立銭四貫文」と記された箱内には、異永・奇永・麗書・裕字・勁文・星文様・正字様・俯永様・太細様が確認され、「手本銭五貫文」と記された箱内に「長門銭」と木札のついたものは、先の銭の種類と一致した。そのことから、長門銭には、上記の種類が含まれていた可能性が高くなった。なお、古銭界では一般に、長門銭は白みを帯びた銭質を持っていると指摘されている。
 
 また、長門銭の鋳造を行っていた山口県美祢郡美東町の銭屋遺跡の発掘調査も行われており(注12)、そこから出土した銭は、毛利家所蔵銭によって長門鋳造として指摘されていた奇永・麗書・勁文・俯永様・太細様と、毛利家所蔵銭に含まれていなかった明暦大字であった(注13)。明暦大字は収集界では駿河国の沓谷銭と比定されていた古寛永だが、沓谷銭とする根拠は乏しい。

 このような研究現状を踏まえ、本稿では、異永・麗書と呼ばれるものを長門銭として取り上げた。異永は、独特の書風を持つものとされ、以下の特徴を持つ(資料番号1~5)。寛字の十一画、いわゆる爪の左端が郭左辺の延長線近くに位置する。また、永字の三画目の屈曲部であるフ肩は、四・五画の接する部分、接画よりもかなり上に位置し、また四画のノ画は長くて、五画すなわち末画の長さと差があまりない。麗書については、永字の二画目の縦棒、いわゆる柱がやや左に傾き、二画目の屈曲部の右肩端が郭下辺のほぼ中央の真下に位置しており、通字は八画目の点と一・二画のコ通左端の間隔が狭い(資料番号6)。


b 備前銭


 これまでに、岡山市の二日市遺跡、すなわち岡山銭座が調査されており、そこからは鋳造関係資料などが出土している(注14)。二日市遺跡出土の鋳放銭としては、縮寛・太細・高頭通・正字・不草点と呼ばれるものが含まれ、研磨途中銭として俯永が確認されている。このうち、縮寛・高頭通以外は、先に触れた毛利家所蔵銭のうち江戸から長門へ送られたと考えられる手本銭にも含まれている。また、毛利家所蔵銭のうち木札に「備前ノ新銭百文」と付いた手本銭は、俯永中字の類であることがわかっている。

 本稿では、備前銭として縮寛を抽出することにした(資料番号7~12)。縮寛は、寛字が縦に縮む点に特徴があり、寛字と郭の上辺との間隔が広い。寛字の七画目の前柱が十一画目の下梁と接し、寳字の尓の前点と後点がほぼ横に位置する。また、黒茶系の色調のものが多くみられるといわれている。この縮寛は、これまで収集界では駿河井之宮銭とされていたものだが、井之宮銭とする根拠は特に見い出すことができない。


c 松本銭 


 松本銭座の枝銭の伝世例が確認されたことによって、松本において斜寳縮寳が鋳造されていたことが明らかとなっている(注15)。そこで、本稿でも松本銭として斜寳系を取り上げることにした(資料番号13~17)。斜寳系は、寳字の貝の部分が郭左辺に対して右に傾く特徴を持つ。また、寳字の末画である後足の下端と郭左辺との間隔が大きくなっている。この斜寳系は、収集界においてこれまで豊後竹田銭とみなされてきたものに相当する。従来竹田鋳としていた理由は、銭質や銭容などが長崎貿易銭に類似することなどが挙げられているが、具体的な要素としては根拠に乏しいと言わざるを得ない。


d 水戸銭 


 茨城県水戸市の水戸向井町銭座跡からは、鋳放銭が中川近禮氏により発見されており、それらが長永狭足寛であることが確認されている(注16)。また、先から取り上げている毛利家所蔵銭のうち「水戸銭三十文」という札の付くものは、収集界で従来高田銭と分類されてきた笹手永であった。他に、仰永・浮永・流永などは、書風から長永と類似しているため、水戸鋳造ではないかと推測されている古寛永である。

 本稿では、長永系とされるものを水戸銭として検討対象とし(資料番号1822)、また中川近禮氏が水戸向井町銭座跡から収集した古寛永が現在日本銀行貨幣博物館で収蔵されているので、それらの資料も併せて調査することにした(資料番号23)。長永系には、長永の他に長永狭寛・長永狭足寛・長永長寛・長永濶字などが挙げられ、永字の二画の縦棒が長く延び、三画目の横棒であるフ頭がわずかに左下がりになる特徴がある。


e 称仙台銭


 これまで収集界で仙台銭と考えられてきたものとしては幾つかの種類が認められるが、跛寳・大永と呼ばれるものはその代表的なものである(資料番号24~28)。収集界において、跛寳・大永は、仙台銭と呼称されている銭貨群の中でも銭質や鋳上がりなどが同一のグループに属するとみなされているようである(注17)。跛寳は寳字の一八画目に当たる貝の前足が大きく開き、末画の後足が前足よりも大きく下方に延びる(資料番号24~27)。

 仙台鋳造の比定の理由としては、例えば平泉中尊寺の奉納額の中にみられる、直径一二センチメートルほどの大型の寛永通寳が、その書風において「跛寳」に似ていることなどがこれまで挙げられていた(注18)。しかし、これは銭座跡からの出土銭や枝銭が確認されている上記の四銭のような確実な根拠とはみなせず、仙台銭と仮称されてきた銭という意味で称仙台銭と呼ばれる(以下、称○○銭と呼ぶ場合、同様の呼称法に基づく)。ただし、筆者らによる鉛同位体比分析の結果、「跛寳」には仙台の鋳銭地に近接する細倉鉱山の鉛のデータが確認され、仙台に比較的近い水戸銭を初め、他の古寛永では細倉鉱山の鉛を確認できないことから、「跛寳」は仙台銭に含まれるものと判断される。「跛寳」を仙台銭というように名称統一してもよいだろうが、本稿では慣例に従っておく。


(二)新寛永


 先述のように、寛永通寳の鋳造は万治二年(一六五九)でいったん途絶するが、寛文八年(一六六八)以降に再開することになる。その時期以降に発行されたと想定されている寛永通寳が、「新寛永」と総称されている寛永銭である。この新寛永のうち、寛文八年(一六六八)~天和三年(一六八三)までは、江戸亀戸鋳銭所のみで集中的に鋳造されており、その鋳造貨には「文銭」と呼ばれる新寛永が比定されている。元禄一〇年(一六九七)以降には、再び江戸亀戸で鋳造が開始し、享保期には佐渡相川・江戸深川十万坪・京都七条・仙台石巻・摂津難波で寛永銭が増産され、その後さらに銭座が全国各地に広がることになる。また、元文四年(一七三六)以降には鉄一文銭も発行されるようになり、本稿では対象としないが、明和五年(一七六八)以降には真鍮四文銭が、万延元年(一八六〇)以降には鉄銭の四文銭が発行されている。

 新寛永もやはり細分すれば多種に及び、それらを逐一計測するのは困難であるため、さしあたり調査対象を限定することにした。その選定方針としては、古寛永と同様に、鋳造地がほぼ明瞭な新寛永、すなわち背面に鋳造地などを示す文字を持つものを中心に取り上げることにした。具体的には、「文銭」「佐渡銭」「仙台背仙銭」「足尾銭」「長崎銭」「仙台背千銭」「久慈背久銭」である。ただし、それ以外にも比較のために、「背一銭」ならびに「称秋田銭」も計測対象に加えた(注19)


a 文銭


 文銭は、背文として「文」字を持つことから、その名称がある(資料番号2940)。先に触れた通り、寛文八年(一六六八)~天和三年(一六八三)まで江戸・亀戸鋳銭所のみで鋳造されていたとされている寛永通寳である。背の「文」字はその鋳造開始時期である「寛文」の「文」に由来するものと想定されている。

 寛文八年~天和三年の寛永銭が文銭である点は、考古学的にも傍証が得られる。例えば、元禄九年(一六九六)に建立された太宰府天満宮参道の一の鳥居には石材の緩衝材として銭貨がはさまれ、創建当初の位置を保ったままの状態で確認された。その中には、古寛永や宋銭・明銭は認められるが、文銭以外の新寛永は確認されていない(注20)。このことから、元禄一〇年(一六九七)に寛永銭の鋳造が再開される以前は、文銭の鋳造のみが行われていたという状況が推測されることになる。

 なお、文銭は背文の変化に基づいて、収集家により様々に細かく分類されている。文銭は、時期的にもまた鋳造場所としても限定されているものであるから、その細分は本稿ではあまり意味を持たないので、ここでは一括して文銭として検討を行うことにする。


b 仙台背仙銭


 背面に「仙」という字があり、明らかに仙台で鋳造の銭貨である(資料番号41~45)。仙台では、陸奥国牡鹿郡石巻で享保一三年(一七二八)から安政期頃にかけて鋳銭が行われていたと考えられている。本稿で検討対象とする仙台背仙銭は、日本銀行貨幣博物館の分類名称(以下,日銀分類と略称する。表1も同じ)では享保一三年仙台とされており、古銭界でも一般的に享保期に比定されているものである。後述するが、陸奥での鋳銭の後半では鉄銭を鋳造しており、仙台背仙銭は享保一三~一七年(一七二八~一七三二)頃の鋳造と想定される。資料番号41~44は、通の一・二画がマとなる、いわゆる「マ頭通背仙」である。背面の「仙」字も「山」の下の横線がほぼ水平になっている。資料番号45は、通の一・二画をコの形状を呈する「コ頭通背仙」である。背面の「仙」字は「山」の下の横線が右上がりになっており、三画目が左上に跳ねるので、「跳ね仙」とも呼ばれる。


c 称秋田銭


 秋田では、元文三年(一七三八)から出羽国秋田郡川尻村で寛永銭の鋳造を開始したとされる。収集界では、永字の末尾が屈曲して跳ね上がる独特の面文を持つものを「秋田銭」と呼んでいる(資料番号46~51)。それらを本稿では称秋田銭として計測対象とするが、それらの資料は日銀分類でも元文三年秋田銭とされているものに相当する。また、寛保二年(一七四二)には小型のものに変化するとされており(注21)、本資料が秋田銭であれば、資料46・47・51などがそれに相当する可能性がある。なお、本資料は、鉛同位体比分析の結果、秋田産であるとは限定できないが、秋田藩内の鉱山から原料供給を受けていたとみても矛盾しない数値を得ている(注22)


d 佐渡銭


 背面に「佐」の字を持つことから、明らかに佐渡での鋳造であることがわかる(資料番号52~57)。佐渡では雑太郡相川において正徳四年(一七一四)から幕末にかけて鋳銭が行われていたものと考えられている。銭文としては、寛の十一画目が左側に長く突き出ている点に特徴がある。また、永の一画と二画がつながり、二画の屈折部が右に突き出ており、二画末の跳ねが認められない。この銭文は、古銭収集界では含二水永と呼ばれるタイプのものである。また、背文の「佐」字は、享保二年(一七一七)からは正徳四年からの鋳銭と区別するため字形が改められていることを文献史料より知ることができる(注23)。今回の計測資料は、日銀分類では元文五年(一七四〇)佐渡銭とされているものであるが、上記史料より享保二年以降のものであることが明らかである。


e 足尾銭


 背面に「足」字を鋳出すことから、足尾での鋳造銭であることが判明する銭貨である(資料番号5863)。寛保元年(一七四一)より下野国安蘇郡足尾村で銭貨の鋳造が行われている。日銀でも、寛保元年足尾銭と分類されている。この足尾の鋳銭は、経営不振に陥った足尾銅山の救済を目的にしたものとされている(注24)。銭文は、永の字の二画目の屈折部が右に少し突きだしていたり、寳の目の部分が大きい点などに特徴を認めることができる。


f 背一銭


 背面に「一」字が鋳出すか、あるいは「○」の中に「一」を加える形状の刻印を銭文側の輪部などに打つものがある(資料番号64~69)。これは、日銀では寛保三年(一七四三)長崎銭と呼称されており、場合によっては紀伊一之瀬銭とも俗称されており、鋳造地は不明といってよい銭貨である。なお、鉛同位体比分析の結果からは、やはり、産地までは特定できないものの、西日本の鉱山から鉛の供給を受けていたものと判断でき、西日本に鋳銭地が存在した可能性が強い(注25)


g 長崎銭


 背面に「長」が鋳出されており、長崎鋳造銭貨ということがわかる(資料番号70~75)。長崎では、明和四年(一七六七)から肥前国長崎浦上渕掛り稲佐郷で鋳造を開始したとされており、日銀分類も明和四年長崎銭とする。磁性が強く、鋳肌の粗いものが多いといわれている。面文として寛や永の字が縦長であることや、寛に十二画のノ爪が短く、寳の足も短い点などに特徴がある。


h 仙台背千銭


 仙台では、先にも触れたように、享保十三年(一七二八)から安政期まで断続的に鋳銭が行われているが、明和五年(一七六八)以降、鉄銭の鋳造を行っている。背面に「千」を持つ新寛永は通用銭が鉄銭で、明和五年以降に仙台で鋳造されたと想定される銭貨であり、計測対象である銅銭はその母銭ということになる(資料番号7689)。

 資料番号7682は日銀分類では元文四年仙台とされており、「明和大字」とも呼ばれるもの。本稿では、仮に「仙台背千銭A」と呼んでおきたい。そのうち76・79は、「寛」字の「見」の跳ねが、郭の右辺の延長線程度に間隔が広くなっている点に特徴があり、「寳」字の「貝」の五画がやや外にはみ出る「爪貝寳(そうばいほう)」に相当する。資料番号83~89は日銀分類では明和五年仙台とされており、「明和小字」とも呼ばれているものである。先のものと対比するために、本稿では「仙台背千銭B」と仮称する。


i 久慈背久銭・背久二銭


 背面に「久」字がみられることから、常陸の久慈鋳造銭であることがわかる(資料番号90104)。久慈背久銭については、明和五年(一七六八)に常陸国久慈郡太田村木崎で鋳造を開始されたものである(資料番号90~98)。同時期に鋳銭を開始した背千仙台銭と同様、通用銭は鉄銭で、本稿で計測を行う久慈銭の銅銭は母銭ということになる。面文は、背千仙台銭と類似するが、久慈背久銭はマ頭通である。久慈銭には背に「久二」を持つものも存在するため、それも調査対象に加えている(資料番号99104)。久慈背久二銭は、安永三年(一七七四)からやはり常陸国久慈郡の太田で鋳造されていた銭貨である。


(三)長崎貿易銭


 外国から日本に銅銭の供給を求められたことから、万治二年(一六五九)に長崎町年寄が輸出用の銅銭鋳造を幕府に出願した。その結果、万治三年(一六六〇)から、長崎の中島銭座において、元豊通寳・祥符元寳・天聖元寳・嘉祐通寳・治平元寳・熈寧元寳・紹聖元寳などの宋銭の銭文を持つ輸出用銅銭の鋳造を行っている。それらはヴェトナムなどへ輸出されたものとされ、「長崎貿易銭」と呼ばれる(資料番号105~112)。銭文としては、上記のうち圧倒的に元豊通寳が多い。銭文の字体は北宋銭と明らかに異なり、新規に種銭を製造している。鋳造の期間は、万治三年(一六六〇)~貞享二年(一六八五)の間とされている。長崎貿易銭は、なんらかの理由で国内にわずかに流通したのであろうか、北九州市の京町遺跡などで出土している例を確認できる(注26)。なお、本稿では、この長崎貿易銭との比較を試みるために、中国本銭である元豊通寳(資料番号113~120)を計測対象に加えている。


 三 法量計測結果とその検討


(一)古寛永(図2


 それでは、まず今回計測に取り上げた古寛永の各種銭貨の比較から始めることにしたい。まず、輪外径(図2)について全体を通して指摘できることは、称仙台銭のように多少のばらつきを示すものもあるが、各地の資料は概ね二四・〇~二五・〇ミリメートルの範囲にあり、特に二四・五ミリメートル前後に集中している点が挙げられる。また、称仙台銭などに認められる輪外径が二五・八ミリメートル前後のものは母銭と判断され、逆に二三・二ミリメートル前後のものは鋳写銭の可能性があるため、それを除外すると、先の集中度はより明確になるであろう。

 ところが、輪内径を採ると、輪外径と比較してかなりの偏差が存在することがわかる(図2)。例えば、備前銭では一八・〇~一九・〇ミリメートル前後、水戸銭では一九・〇~一九・五ミリメートル、長門銭では一九・六~一九・八ミリメートル程度、称仙台銭は二〇・〇ミリメートル前後に分布を認めることができる。この輪内径を比較することによって、例えば長門銭・備前銭・称仙台銭は相互識別がほぼ可能となっている。

 また郭については(図3)、外幅をみてみると、数値が小さいため輪内径ほどのばらつきは示さないが、六・二~七・三ミリメートル程度の範囲で分布し、やはり少しずつ各銭種でまとまりをもちながら相互に差異が存在することを確認できる。一方の郭内幅では、五・二~六・二ミリメートルの範囲で分布し、特に五・六~五・七ミリメートル程度となっており、郭外幅よりも集中度が高い。

 重量については、他の数値と飛び離れて非常に重い特殊なもの(四・六~五グラム程度)がみられるのを除外すると、概ね二・五~四・〇グラムの範囲に分布する。新寛永については後述するが、それと比較しても、必ずしもばらつきが大きくない。

 これらのことからすると、輪内径には銭種による差異が大きいのに対して、輪外径はかなり一定値に集中していることになる。つまり、古寛永銭の鋳造の規範となっていたものは輪外径であり、輪内径については規制をあまり受けることなく母銭が製作されたことを推測させるであろう。郭については、内幅と外幅で偏差にさほど変わりがないが、銭種によっては外幅の方が偏りが大きいため、内幅つまり孔の幅がむしろ規制の対象であった可能性を指摘できるであろう。

 それでは次に、古寛永とその発行の前段階に当たる中世~近世初めに流通していた銭貨との比較を試みることにしたい(図4)。まず、寛永通寳の前に日本で発行された銭貨を取り上げたい。近世初期頃の日本の年号を冠することで知られる銭貨に、慶長通寳と元和通寳があるが、ここでは発行されたことが考古資料からも裏付けられる慶長通寳と比較してみたい。そうすると、古寛永は慶長通寳よりも一周り以上大きいことが明らかとなる。すなわち、古寛永は慶長通寳の法量規格を受け継ぐものではないのである。

 そうであるとすると、古寛永は何を規格の基準として製作されたものかが問題となるが、当然想定されるのが、それ以前に多量に流通していた銭貨、すなわち中国などからの輸入銭ということになる。輸入銭のすべてを取り上げることはできないので、ここでは当時の代表的な銭貨として、永楽通寳と皇宋通寳を比較対象とすることにした。

 永楽通寳は明銭の代表例で、日本中世に流通した明銭として最も多いものである。古寛永と永楽通寳とを比較すると、慶長通寳の場合とは異なり、輪外径は古寛永と比較的近似する。しかしながら、もう少し細かくみてみると、差異も小さくない。例えば輪内径では永楽通寳が明らかに古寛永よりも一周り大きく、輪外径でみても、古寛永はばらつきがあるものの、二五ミリメートルを越える母銭かとみられるものを除けば、二四・五ミリメートル前後に分布するのに対し、永楽通寳は二五ミリメートル近い値となる。

 そこで、もう一つ取り上げた皇宋通寳との比較をしてみたい。皇宋通寳は多量に発行された北宋銭で、日本の中世遺跡から出土する銭貨では最も量の多い銭種(注27)である。今回計測を行った皇宋通寳は、千葉県市原市の菊間出土銭で、中世末の十六世紀中頃以降に埋められた一括出土銭である。長年の使用による磨耗などもあろうが、逆に近世初期段階の宋銭の実態を示すもので参考になろう。さて、その輪外径の計測値であるが、かなりばらつきが大きいものの、二三・二ミリメートルほどの模鋳銭とみられる例を除くと、二四~二五ミリメートルの間に分布していることがわかる。その値の平均を採ると二四・五ミリメートルとなり、古寛永ともほぼ一致することになる。また、輪の内径にしても永楽通寳ほど大きいものではなく、比較的近似する値を示している。もちろん、北宋銭の中にも法量差が存在するため皇宋通寳だけでは北宋銭を代表させるわけにいかないが、日本では最も出土量の多い銭種であることから、その意味するところを考えるうえでは見逃すことができない存在であろう。

 寛永通寳の法量規格の基準としては、宋銭よりも永楽通寳銭を重視する指摘が川根正教氏によりなされているが(注28)、上記の検討結果からすると、必ずしも適切とはいえないであろう。川根氏は発掘資料により計測などを試みた結果、平均値として古寛永の輪外径が二四・五ミリメートル、重量が三・三五グラム、宋銭の輪外径が二四・二ミリメートル、重量が二・九六グラム、永楽通寳の輪外径が二四・九ミリメートル、重量が三・一八グラムという数値を得ている。この統計数値からみても、輪外径だけを比較すれば、古寛永が「永楽通寳銭により近い」とは判断できない。おそらく川根氏は重量をより重視して判断を下したのであろうが、宋銭の平均重量を三グラム以下とするのはあまりにも軽すぎるであろう。筆者の算出でも宋銭は三・四~三・五グラム程度の平均値を採っている。中世末から近世にかけて出土する宋銭には、長年の使用による磨耗や鋳写しなどによる薄小銭が多く含まれるため、そのような数値になったのではなかろうか。だとすれば、重量の差異をもって永楽銭に近いとは必ずしもいえなくなるであろう。また、上記の川根氏計測の北宋銭が筆者の想定するような摩耗あるいは鋳写しの銭貨を含むものであるとすれば、当然ながら輪外径も本来のものより縮小している可能性が強い。そうなると、輪外径においても宋銭の方が古寛永とより近似することになり、筆者の検討結果との齟齬も解消するであろう。


(二)新寛永(図5


 次に、新寛永の各種銭貨の輪部径比較(図5)を行うことにするが、個別の銭貨内で計測値にばらつきが大きいものがあるため、その点についてまず触れておきたい。

 称秋田銭のうち、輪外径が二四・七~二四・八ミリメートル前後のものは母銭である。一方、二三・〇ミリメートル前後の一例は銭文もやや不鮮明で、背面も輪部などの凹凸が不鮮明であり、おそらく鋳写による密鋳銭の類であろう。残された二三・八~二三・九ミリメートルのものが通用銭ということになる。同様に、仙台背仙銭において二五ミリメートルを越えるものは母銭で、二四・四ミリメートル前後のものが通用銭に相当し、佐渡銭についても二四ミリメートルを越えるものが母銭で、二三・四ミリメートル程のものが通用銭となるであろう。

 次に問題なのが仙台背千銭で、法量差がかなり大きく、二つのまとまりを見い出すことができる(仙台背千銭A・B)。先述の通り、仙台背千銭は通用銭が鉄銭であるため、本稿で対象とする銅銭はいずれも母銭ということになる。一次母銭と二次母銭ということも可能性としてはあるが、背文の文字の微差が存在することからすると、それは必ずしも妥当ではない。日銀分類ではこの銭径の大きいものを元文四年仙台とし、小さなものを明和五年仙台として判別しているが、実年代観はともかくもその差異には鋳造年代の差が存在した可能性を十分に考えておかねばなるまい。他に、足尾銭についてもばらつきが大きいが、二四ミリメートル前後かそれを越える大きいものと二二ミリメートル台の小さなものがある。このうち前者を母銭とみることは可能だが、内径では両者にさほどの差を持たないため、母銭とみるには問題を残しており、これも年代差を内包する可能性がある。ただ、仙台背仙銭や足尾銭の法量差が年代差に起因するかは十分な検証を行えないので、今後の課題としたい(注29)

 このようにみてくると、若干の例外はあるかもしれないが、銭種ごとには法量としてある程度まとまりがあることがわかる。

 次に新寛永全体の法量分布を取り上げると、輪内径・輪外径のいずれをとっても、かなり分散した分布であることがみて取れる。重量についても、二・〇~四・五グラム程度とばらついており、個体差が大きい。これは、古寛永とは大きく異なる状況であろう。ほぼ同じような輪部の径を有する銭貨同士でも、郭外幅・郭内幅を採ってみると、相互に識別できる場合が多い(図6)。つまり、銭種ごとに、輪・郭の各部の法量にかなりの相違が存在することになる。この点は裏を返すと、分類のうえでは銭文だけでなく、法量計測が有効であることを示すものである。

 ただ、新寛永でもさらに時期的にみると、文銭では輪外径で二四・七~二五・三ミリメートル程度となっており、今回は計測していないが、元禄一〇年(一六九七)~宝永四年(一七〇七)とみられる寛永銭は輪外径が二一・二~二三・七ミリメートルと著しく小型化する(注30)ものの、それぞれには法量的なまとまりが認められる。それ以降には、本稿で計測した文銭以外の新寛永が発行されていくが、概ね文銭と元禄~宝永期の寛永銭については法量の分布が限定されている。

 ここで、先にも触れた川根正教氏による計測的検討の結果との関連にも触れておきたい。川根氏は、古寛永に比して、新寛永が法量的にばらつきが少ないという結果を報告している。これは、一見すると本稿の先の指摘と全く逆の結論ではあるが、矛盾するものではない。川根氏の計測は文銭とそれに続く元禄一〇年(一六九七)~宝永四年(一七〇七)に鋳造された寛永銭を対象にしており、本稿の計測結果でも文銭段階は古寛永よりも集中度が高いことがわかる。したがって、本稿の法量分布のばらつきは、むしろ正徳期頃に地方鋳銭が始まって以降の新寛永の状況を示しているものなのである。川根氏は、古寛永から新寛永の初期段階までの法量を検討しているのに対し、本稿は資料数的には必ずしも多くはないが、寛永通寳一文銭のほぼ全期間にわたる概略的な見通し、特に地方での生産状況の比較に重点を置いた結果ということになるであろう。


(三)長崎貿易銭(図10


 まず、長崎貿易銭と同じ長崎で作られている新寛永の長崎銭と比較すると、明らかに長崎貿易銭の方が輪外径を初めとする法量が大きい。法量は同一産地といえども全く受け継がれていないことになる。一方、長崎貿易銭に近い時期に日本で発行された銭貨をみると、長崎貿易銭の前段階に発行されている古寛永、ここでは他よりは長崎に近い鋳銭地の銭貨として長門銭をグラフに図示したが、長崎貿易銭の方が一周り大きいことが確認される。とすると、長崎貿易銭は寛永通寳を法量としての模範にして成立するものではないことが理解される。また、長崎貿易銭よりも初鋳は少し遅れるが、併行した時期に発行された新寛永の文銭とも比較すると、かなり法量は近似している。しかし、長崎貿易銭には輪外径で明らかに二五・五ミリメートル程度のものが含まれるが、文銭にはそれほど大きな法量のものは含まれていない。長崎貿易銭は、文銭より発行が遡るため、文銭を規範としたことはもちろんありえないが、寛永通寳とは法量的に少し質を異にする存在であることがわかるであろう。

 そこで次に、長崎貿易銭と同じ銭文である元豊通寳の中国本銭と比べてみた。そうすると、かなりのばらつきが認められるが、輪外径ではほぼ一致することがわかった。銭文の字体からも明らかなところだが、径に縮小がみられないのだから長崎貿易銭は北宋銭の鋳写しではなく、新規に母銭を製作していることが明瞭である。また、新規母銭で輪外径が一致することからすると、銭文だけでなくその法量においても元豊通寳の中国本銭を規範に製作されていたことが判明する。おそらく、銭の鋳上がり寸法を考慮し母銭からの縮小までも計算して、意図的に生産されたものであったと推測すべきであろう。

 ただし、輪内径でみてみると両者は明らかに異なっている。それは輪外径の一致と対照的であり、輪外径は意図的に類似させようとしたが、内径までは必ずしも注意が払われていなかったことが明確化するであろう。それは銭文の字体が中国本銭と長崎貿易銭で必ずしも酷似しないこととも相通じる現象である。

 また重量を比較してみると、飛び離れて重いものや軽いものがあるためそれらを除外すると、概ね三・六グラム前後となり、中国本銭とほぼ一致している。長崎貿易銭に求められたのは、中国銭にみられる銭名の文字を鋳出すことと、中国銭とほぼ一致する大きさ(輪外径)や重さであることが大きかったのであろう。
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