『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』創刊号
奈良国立博物館研究紀要
平成11年3月31日発行


〔講演録〕

中国の金銅仏-三世紀から六世紀まで-

馬  承源
岡田 健訳



 はじめに


 ここに述べるのは、西暦三一七年に始まる五胡十六国期から、五八〇年に終結する南北朝期までの中国金銅仏の展開についてである。さらに、西暦五八一年から六一七年までの隋の時代は、南北朝芸術発展ののちに大きな実を結んだ時代である。ここではこの隋代の金銅仏についても述べることとする。

 この期間は、まさに中国の仏教芸術が発生し、発展した時期で、この間の発展なくしては、唐時代における仏教芸術の頂点も出現しえなかったといえる。

 金銅仏は仏教芸術の中で重要な位置を占める。だが、永い歳月の間に、大型のものの多くは失われ、現存する遺品は大部分が中型・小型のものとなってしまった。四十年ほどの間にも、山東省博興県や陜西省西安などで比較的集中した金銅仏の出土が見られている。これらの金銅仏はやはりいずれもが小型像であるが、紀年銘を有するものが少なからずあり、同じような小型像の年代判定や研究のうえで重要な意義を有している。このほか、内蒙古や河北省などにおいても僅かではあるが、重要で価値のある金銅仏が出土している。

 ここに取り上げる作品は、上海博物館の所蔵品が主である。併せてそれ以外の重要な出土資料も取り上げることとする。


 


 中国が、金銅仏芸術を発達させたのには、歴史的な背景があった。
 
 後漢末、三国、晋、五胡十六国から南北朝に至る四百年あまりに及ぶ期間は、中国社会が大混乱し、大変動した時期であった。とくに四世紀の末からは、鮮卑族、匈奴族などの少数民族が相次いで黄河の流域に割拠し、互いに戦ったので、人びとの生命財産は甚だしく蹂躙され、経済、文化は大きな破壊を受けた。この間、伝統的な儒教や道教の思想によっては、国家と民族の危機を救うことはできなかった。人民は、頂点に達した苦難の中で精神の慰めと解脱を求め、いっぽう帝王や貴族は、仏法の広まりによって社会矛盾の解決をはかろうとつとめ、同時に人民を惨殺した罪悪を贖うことにも利用したのであった。仏教は、その独特の救世哲学によって、いち早く多くの人びとの精神の解脱、来世の幸福の祈願のための万能の聖薬となった。徳を以て国を治め天下を平らかにする儒家の思想や、清浄無為、世に争いなしとする道教の思想は、かつて一貫して社会を支配してきたが、ここにその面目を失ったのであった。
 
 仏教は、西暦一世紀にインドから中国に伝えられたと言われている。すなわち、後漢の初め、明帝は使者を遣わし天竺にブッダの像を描き取りに向かわせた。西暦六七年、天竺の沙門迦叶摩騰と竺法蘭は招かれて洛陽に到り、翌年の明帝十一年には洛陽に白馬寺を建てて仏典翻訳と仏教伝播のための中心となした。仏教はこれ以後、中国の大地に根をおろしたのであった。
 
 はじめ、後漢の頃にはブッダは道教の神と同じ姿で人びとから崇拝されていた。江蘇省連雲港市孔望山で発見された漢時代末期の摩崖仏像は、少しもインド仏教芸術の影響を受けてはおらず、仏像の衣は後漢の画像石に描かれた人物のものと似ているのである。しかも孔望山では、仏像は道教の像の間に混在して表されている。




 


 金銅仏が作られるようになったのは、やや遅れてのことであろう。いま我々が見ることのできる金銅仏は、西晋と五胡十六国のあいだの頃のものである。北京の故宮博物院に所蔵される金銅菩薩立像は、髪を束ねて髻を結い、天衣を肩から垂らして長い裙をはき、右手は施無畏印を結んで左手に水瓶を持ち、腕には釧をつけている(図1)。ヒゲを蓄えたその面相は、中央アジアの人物を思わせる。この像は高度の写実性を示しており、かつて中国においては見ることのできなかったものである。この時期の中国の彫刻は、まだこれほどの写実的な水準に達しておらず、この菩薩立像は、インドから伝来した像の複製または倣製(注1)と思われる。京都の藤井有鄰館にも、この像と似た金銅菩薩立像があり、両者は同じ時期の作品であると考えられる。アメリカのハーバード大学付属サックラー美術館には、眉間に白毫があり両肩に炎をあらわした釈迦如来坐像がある。これも同じ時期のものである。

 ちょうどこの頃、中国でもようやく翻訳経典の数が増え、それと呼応して仏寺の建立も広く行われるようになった。この時期の仏教寺院の重要な遺例としては、西秦の炳霊寺(甘粛省永靖県)、北涼の金塔寺(甘粛省張掖県)などがある。これらの石窟の仏像はいずれも塑像であるが、その塑像といま述べた金銅仏とを比較すると、面相や着衣のモデリングに明らかな違いがある。中央アジア人の面影はすっかりなくなり、十六国期の仏像における顕著な中国化の傾向を示している。

 四世紀以降、中国における仏教発展の速度は次第に早まり、五世紀の初め、北魏の時代には、寺院の数は一万三千以上になった。六世紀、北魏の東西分裂後の寺院数は三万以上となり、僧尼の数は二百万人であったという。このような状況の中で、やがて仏教芸術も大きな発展を見せたのであった。




 


 河北省石家荘から、一体の金銅仏が出土している(図2)。頭頂に高く肉髻を顕わし、口は小さく目は大きく形づくられて、インドの仏像の顔つきとは完全に異なっている。衲衣を通肩にまとい、両手を重ねて禅定印を結び、扁平な方形台座の上に結跏趺坐する姿に表されている。台座前方の両側には獅子、中央には宝相華が表されている。また、身に着けた衲衣の胸の部分では、広いU字形の衣褶が作り出されている。一方頭光上には、小さな化仏と飛天とが配され、さらに左右に仏弟子の像が表されている。光背の後ろには傘が立てられている。傘の縁には、もとは垂飾が取り付けられていたが、今は脱落してしまっている。

 これに似た像が甘粛省の涇川から出土している。これもまた、肉髻を盛り上げて髪筋を表す形式のもので、口は小さく、目は大きく、通肩に衲衣を着て、両手は禅定印をつくり、結跏趺坐する姿に表されている。頭光は大きな蓮華を象り、光背は円形で後ろに傘を挿し、傘には蓮弁の文様が表されている。

 この二体の像はよく似ており、台座と傘にも共通点がある。ただし石家荘の像では左右に仏弟子が表されている。以後の金銅製の釈迦像は常に阿難・迦葉の二弟子を具え、この形式は固定したものとなる。

 涇川の像が後秦の時代のもの、石家荘の像は北魏の早い時期、十六国後期の作と言ってもよいものである。つまり、南北朝の初期にもまだこの種の像が作られていたという可能性があるのだ。それにしても、石家荘と涇川という二つの土地はたいへんに離れたところにある。それにもかかわらず両像の姿かたちがこのように似ているというのは、当時の金銅仏の制作に、すでにある程度の形の規範のようなものがあったことを窺わせるのである。

 上海博物館に所蔵される何体かのこの時期の像にも、同じ形が見られる。ただしこれらは、光背と傘が失われている。このタイプの像は、海外に流出した非常に多くの作例が知られており、五胡十六国の後期はかなり普遍的に金銅仏が制作されていたと考えることができる。



 


 五胡十六国のあと、中国の北部を統治したのは鮮卑族の拓拔氏が四三九年に建てた魏王朝(北魏)であった。四四六年、北魏の太武帝は道教の影響を受けて大規模に仏教を禁止し、経典・仏像・塔・寺を破壊し、僧侶を生き埋めにして殺した。現在五胡十六国期の仏像の遺品が少ないのは、この太武帝の廃仏に大きな原因がある。七年後、ブッダを崇拝することが再び許され、そして四六〇年から四九四年の間に、雲岡石窟が開鑿された。いっぽう金銅仏の繁栄期は皇興から太和年間(四六七年-四九九年)に出現した。この時期には、インド・ガンダーラの仏教芸術が伝えられ、中国の仏教芸術の中に取り入れられた。これがいわゆる北魏造像のガンダーラ様式で、この種の様式の影響が最も顕著なのが、大同の雲岡石窟である。雲岡石窟では、大きくいかつい体つき、深く刻んだ目に高い鼻、衲衣は身体に貼りつき、衣の襞は密集し、風貌華やかな夥しい数の仏像が作られた。これと同じ時期の金銅仏には、優れた作品が少なからず知られている。

  内蒙古のウランチャップ・托克托県で出土した太和八年(四八四)銘の金銅釈迦如来像(図3)は、頬に豊かな丸みがあり、体格はのびのびと大きく、右肩を肌脱ぎにして身に着けた袈裟は身体に貼りついている。衣の襞は細かく緊密で、細い藤の蔓のようでもあり、技術は精緻を極めている。像は四脚の台座の上に結跏趺坐し、台座前方の二脚の上方には護法の獅子が置かれ、その下の脚の部分には、忍冬文と供養者の像が刻まれている。これと同様の一体が、北京市延慶県宗家営村からも出土している。

 河北省満城県出土の延興五年(四七五)銘釈迦如来像は、偏袒右肩、衲衣の上半身には密集し整えられたU字形の襞が作られている。襞は隆起したところが鋭く尖っている。これは一種軽快な刻み方であるが、衣文の自然な感じがよく出ている。衲衣の下の方は、風に揺れながら膝のあたりに広がっている。そして裸足でがっしりと蓮台の上に立っている。光背には深い筋が刻まれ、火焔文には頗る力がある。

 上海博物館にも、これと同様の一体が所蔵されている(図4)。この像の彫刻は、さらに精巧さを増しており、衲衣の衣文もさらに賑やかに、かつ整えられており、太和時代にはあまり見られない貴重な作品と言える。
 また別の阿弥陀如来像は、結跏趺坐し、衣の襞は細密で、光背には九体の化仏が刻まれている。この像は太和期の典型的な像容を示している。

 太和期に流行した金銅仏の様式は、ほぼ景明(五〇〇-五〇三)から延昌(五一二-五一五)以後にまで引き継がれた。

 北魏は四九五年に都を大同から洛陽に移していた。新しい芸術様式はすでに出現してはいたものの、しかし、古い要素はなかなか簡単に消え去るものではなかった。上海博物館所蔵の景明二年(五〇一)の比丘保亮造立の観音菩薩像(図5)は、姿かたちのどこをとっても太和式のものである。面相、衲衣のかたち、体つき、衣の襞の処理の仕方など、いずれも古い形式で、太和期の古い原型を用いて作られた可能性が考えられる。もしもこれに銘文が刻まれていなければ、普通は太和期の作品と見なされてしまうものであろう。

 ここで、とくに取り上げるべき作品がある。それは、比丘保亮の像と同じ形をした日本所在の金銅観音像である(図6)。これには、景明元年(五〇〇)に比丘保明が作ったという銘文が刻まれている。この二体の金銅仏は、前後する年に作られており、それぞれに記された保明・保亮の二人の比丘が、保という文字で名前の連なる兄弟弟子であったことはまちがいないであろう。

 太和様式の金銅仏は、さらに六世紀の二、三〇年頃まで引き続いて作られている。北魏の延昌五年(五一六)銘の釈迦如来像も、まだ太和彫刻の面影をとどめている。さらに永安三年(五三〇)銘像も同様の遺風を留めている。ただし、彫刻はやや粗っぽく、形式化のあとが見られる。




 


 四九五年、北魏の孝文帝は洛陽に遷都した。北魏政権はさらに統治の力を強めるために鮮卑族の立ち後れた風俗を改革しなければならなかったので、全面的な漢化政策を実行した。拓跋という姓も元という姓に改めた。これ以後、漢民族の北魏仏教芸術に対する影響が、日増しに強くなり、結果として芸術に大変革をもたらすことになった。

 そのもっとも顕著な例は、仏像の着衣表現に南朝の士大夫の間で流行した「褒衣博帯」(注2)という新しい形式を採用したことであり、また像の顔つきは痩せたものに変わって、いわゆる「秀骨清像」(注3)という姿になった。

 石窟芸術の方面では、大同・雲岡石窟の時代から洛陽・龍門石窟の時代に移った。もちろん、当時の金銅仏の様式は龍門の石彫像の様式と一致したもので、同じ特色を具えているのである。




 


 観世音菩薩は、その人格化された属性と、衆生を済度する美しい呼び名から人々の崇拝を集めた。このため観音菩薩像は金銅仏の遺品としても最も量が多いが、それだけに形の変化もいちばん大きいものがある。

 北魏の洛陽遷都後、各種の新しい観音像が出現した。上海博物館の神亀元年(五一八)銘観世音菩薩像(図7)は、髪を束ねて冠を戴き、冠の横には珠をつけた冠★(ショウ)〈糸ヘン+曽〉を垂らし、漢民族式の服装を身に着けた像である。大袖の長い袍に裙を着けている。裙の裾は足を覆い、足には爪先が雲形となった漢民族式の沓をはいている。きちんと整ったさまはまさに南朝士大夫の姿かたちで、もしも菩薩が天衣をまとい足の下に蓮台を踏むという特色をもったものでなかったならば、これが観世音像であることも分からないであろうというほどのものである。この観世音像は、当時の漢民族の装いを仏像に表そうという要求を完全に満たしたもので、それはすなわち先述の、容姿における「秀骨清像」、服制における「褒衣博帯」を表したものである。例えば、南京・西善橋の南朝の墓から出土した“竹林七賢”の磚刻壁画に描かれた人物が身に着けているものと比べてみれば、当時の拓跋氏の北魏による漢化の程度がいかに進んだものであったかが分かるであろう。

 この漢化政策は、推し進められた期間が短かったため、模倣の過程において、観音像にしてもまだ造形上の統一したものが形成されておらず、像によっていろいろな形が見られる。

 同じく神亀元年(五一八)の張匡造観世音菩薩像は、頭に花形の飾りがついた宝冠を戴き、冠★(ショウ)は肩まで垂れ、小さな輪をくぐってまた肘のあたりまで垂れている(図8)。天衣を腹の前で結び、衲衣の両側を鋭角に翻らせながら、裸足で蓮台の上に立っている。下は方形の台座で、台座の前に獅子を配するが、いまは片方が失われている。この像の服飾表現には、豊かな表現力を見ることができる。延昌四年(五一五)銘観世音像は、これとはまた別の形をしている。

 さらには、太和式の観音像が発展して生まれた、漢化したものではない新しい形もある。延昌三年(五一四)銘の観世音像(図9)は上半身裸で、腰を細く絞り、薄く簡略な襞を刻んだ裙をまとっている。天衣は両肘に絡み舞い上がっている。この観音像の形態にはある種の動きがあるが、これはこれまでの菩薩像には見ることのできなかったものである。

 このように、同じ時期の四体の観音像は、いずれも異なる形態を見せており、新しい時代における仏教芸術の自由な創造性を示している。

 仏教造像における各種の形態の試みは、最後は龍門石窟の彫像に見る「褒衣博帯」式をもって基本の形とし、おおよその規範を形成した。その具体的な姿を述べると、まず頭部では螺髪と肉髻が表される。身には僧祇支を着け、裙をくるぶしにかかるまで着けている。その上に幅広の衲衣をまとうが、袖の角や裾は両側でわずかに外へ翻るように表されている。六世紀中葉までの仏教造像は、基本的にこのような形態で統一されており、同時期の南朝・梁の石彫像とかなり近いものである。




 


 南朝の仏教造像は、現存する遺品が非常に少ししかない。

 日本の永青文庫に所蔵される宋(四二〇-四七九)元嘉十四年(四三七)銘の金銅仏像は、十六国晩期から北魏の早期にかけて頃の作品と比較的似ている。

 梁(五〇二-五五七)の時代になると、造像芸術は大きな進歩を遂げた。四川省成都万仏寺址出土の梁の普通四年(五二二)銘と中大通五年(五三三)銘という二つの石彫像は、彫刻は精巧で注意深く、固さがなく、像の体形は均斉がとれていて、着衣はさっぱりと垢抜けしたおもむきがある。芸術的な完成度は北魏末期の仏教造像に劣るものではない。

 上海博物館所蔵の梁の中大同七年(五四一)銘像(図10)は、面相に秀でた丸みがあり、胸を開けて衲衣をまとい、結跏趺坐する像である(注4)。衣の裾が台座の縁に懸かるが、その襞は写実的な表現である。これに対して左右の両菩薩像の彫りは簡略なものとなっている。光背の火焔文は細く、頭光は蓮華を象ってある。頭光の上方にも火焔を配してある。像の容貌には、万仏寺の石彫像と似たところがある。




 


 五三四年、北魏は分裂し、東魏・西魏の二つの政権が成立した。

 この頃の仏教造像は、基本的には北魏末期の遺風を留めているが、金銅仏には一層の世俗的な特徴が加わったようである。興和二年(五四〇)銘の観世音像(図11)は、まったく世俗的な相貌をしていて、衣の裾には房が下げてある。このような表現は、かつて見られないものであった。

 五五〇年、北斉の政権が東魏に取って代った。文宜帝高洋は、道教の道士の髪を剃って仏教の僧侶にするなどして、強制的に仏教を広めた。北斉仏教の隆盛もまた、帝王の提唱によってもたらされたものであった。

 北斉の造像芸術は、石彫の分野で飛躍的な発展を見せた。上海博物館が所蔵する釈迦如来坐像、釈迦如来立像、天保四年(五五三)銘太子像などは、形態・相貌では内面の精神性の表現に重きが置かれ、衲衣・袈裟などは軽く柔らかな質感を生むことに注意が払われている。像の全体に和らぎ整った美しさがある。

 北斉・天保二年(五五一)銘の観音像(図12)は、三弁の宝冠を戴き、身は痩せこけている。脇侍菩薩は枝葉の生えた蕾の台の上に立っている。これは東魏から北斉の頃に出た新しい構成である。

 天保四年(五五三)銘像は、体は非常な細身で、衣の襞の処理は流れるようにのびやかである。全体に清らかで上品さがあり、北斉の風格をまざまざと見ることができる。菩薩立像は、やはり撫で肩、細腰の姿態を示し、天衣と裙の処理は簡潔かつ流暢で、北斉造像の中でも稀に見る佳作であると言える。仏説法像は、彫刻手法は清新、簡潔で、衲衣には軽やかで柔らかな感じがある。そして同時に、ある種の飾り気のない気分を持っている。左右の脇侍像は、像本体は小さく、立っている蕾の台は大きく表され、芽の先がすくすくとのびるかたちに表されている。脇侍像の天衣は翻って蕾の台の下に垂れ、豊かな想像力をもって表現されている。このようにロマンチックな菩薩像の表現こそは、まさに北斉の造像芸術の中に出現した、新しい要素なのであった。



 


 西暦五八一年、百六十年間に及ぶ南北朝の紛争は隋の政権によって統一された。隋王朝は僅か二十六年間続いただけで唐の高祖李淵によって政権を奪われてしまう。しかし、この王朝は、積極的に仏教を保護し、発展させた。人々は、なにびとによらず出家し、仏門に帰依することができるようになった。そして、家ごとの人数に合わせて金銭を徴収し、経典を刊行し、仏像を作った。出された仏教経典の数は、当時民間に使用されていた国定の教科書《六経》の数百倍にも及んだという。

 このような強制的な仏教政策の中にあって、金銅仏が大量に生産されたのであった。

 隋は確かに短命であった。ところが仏教造像では、かえって南北朝以来最も現存遺品が多い時代となっている。大量生産によって、普及的な形態の金銅仏が作られ、広められ、それが結果的に仏像造りにとっての厚みがある基盤を生み出し、やがて金銅仏芸術を高度な発展へと向かわせた。ここに南北朝以来の造像芸術は、飛躍的な発展を実現し、極めて優れた作品をも創り出したのであった。

 ところで、いま述べた隋の普及的形態の金銅仏であるが、その鋳造に際しては、前の時代に作られていた金銅仏の原型を繰り返し使った可能性がある。なぜなら、このタイプの像は、前の時代のものと様式的な特徴が完全に一致するか、或いは極めてよく似ているからである。たしかに多くの光背は細部の彫刻に若干の変化がみられるが、この種の文様はいずれも鋳造後に新たに彫刻を加えるものである。開皇四年(五八四)銘像(図13)、開皇七年(五八七)銘像、開皇一二年(五九二)銘像、開皇一七年(五九七)銘像、大業三年(六〇七)銘像など、これらはいま述べた普及的なタイプの中でも佳作といえるものである。

 隋代は造像活動に力を入れたため、極めて高い芸術水準を達成したのである。たとえば上海博物館が所蔵する金銅如来坐像を見てみよう。この像は、説法相をとり、物静かに思いを凝らす姿で、いかにも才知の優れた相を示し、胸にはがっちりとたくましい肌を見せている。この像の特徴はやや平たい感じのあるところで、唐時代の豊かで厚みのあるものとは異なっている。腕は細くて丸みがある。僧祇支を着け、その上に袈裟をまとっている。衣の襞は簡潔で自然な伸びやかさがある。結跏趺坐するその姿は、若き如来の、内面における解脱の静寂な感じを表現することに重きを置いている。形と精神性とを兼ね備えた成功作といえるであろう。

 また、三尊像の脇侍であったと思われる菩薩像では、顔立ちはややふくよかで、上半身は裸、腕は細くて丸みがある。瓔珞を付け、裙をまとっている。幅広の天衣は蓮台の下まで垂れている。頭光と蓮台の彫刻は美しく、精工なものである。

 台座の上に諸像を配置する形式の仏像「成鋪造像」の優れたものは、いまわずかに三組しか見ることができない。そのうちの一つ、アメリカ・ボストン美術館に所蔵されるものは、河北省の趙城出土と伝えられ、一仏二菩薩、須弥座がとても高く、本尊の後ろには菩提樹が置かれている。如来、脇侍菩薩、獅子、力士、香炉などが二層の台座上に分けて置かれている。

 二つ目は、西安市文物管理委員会が所蔵する像で、西安の南の郊外から出土したものである。これも一仏二脇侍菩薩像に、二力士像を配するもので、如来は高い須弥座上に結跏趺坐している。その前には香炉が置かれている。これらは欄干をめぐらした方形の台座の上に置かれており、さらにその方形台座の前に二頭の獅子が配されている。鋳造制作の精工さは、まさに見る人を驚かせるものがある。

 三つ目は、上海博物館に所蔵されるもの(図14)である。中央の阿弥陀如来像は、結跏趺坐、眉目秀麗な面相はやや丸みを帯びている。肉身は痩せていて堅く引き締まっている。その肉体に薄い衣が貼りついている。静寂で優雅な姿をした像である。須弥座は上に三層の仰蓮を置き、中に鬼神面をめぐらし、下には反花を配してあり、彫刻の精緻を極めている。中尊の両側の弟子像はすでに失われている。中尊の前に立つ二体は勢至菩薩像と観音菩薩像である(図15、16)。装身具は華麗で、体つきはすらりとしていて、清らかな姿をしている。仏菩薩はともに精緻な透し彫りの頭光を負っている。また前の方は、男女一人ずつ供養者像が置かれている。小さなものではあるが、敬虔な供養者の姿は、情趣に富んでいる。仏壇上のいちばん前には、護法の獅子が対峙し、生き生きとした形態を示している。仏像と獅子はいずれも同じ方形の台座の上に置かれているが、配置の空間はすっきりとしていて、ますます中尊像の姿を際立たせている。

 さて、この上海博物館像を見て、ここで取り上げたい作品が二つある。その一つは、東京国立博物館に所蔵される金銅菩薩像(図17)である。これは、上海博物館蔵の勢至菩薩像と完全に同じ形をしている。さらにもう一つは、静岡・MOA美術館に所蔵される金銅菩薩像(図18)である。これは、上海博物館のもう一つの観音菩薩像と同じ形をしたものである。これらはまさに、同一工房で同じ原型から型を起こして鋳造したものであろう。そうでなければ、これほどに似ているはずがない。そしてそうであるとするならば、東京国立博物館像とMOA美術館像の両者は、上海博物館像と同じように、台座の上に配置される「成鋪造像」の表現になっていたはずであるが、残念ながらいまは、台座等は失われている。



 むすび


 隋代の金銅仏にはこのように優秀な作品がある。これらは、魏晋南北朝以来三百年以上にわたって作り続けられた金銅仏芸術の成果の結晶である。そしてそれは同時に、唐時代の金銅仏がその頂点に到達するための、基礎を定める重要な役割を果たしたのであった。




【注】

  1. 「複製」は、形、サイズ、重量、さらには合金ならばその金属成分まであらゆる点について原物に忠実に再現して作ること、また作ったもの。「倣製」は、形の模倣に主眼があり、その他の要素についてはあまり厳密ではない。

  2. 「褒衣(ほうい)」は、大きくゆったりしたころも。「博帯(はくたい)」は、幅広の帯。

  3. しゅうこつせいぞう。秀でた骨組みと清らかな肉付き。

  4. 本像は、光背背面の陰刻銘に、張興蓮という人が梁の中大同七年(五四一)に観音像を作ったことを記している。しかし正面の三尊像を見ると中尊像は明らかに如来像であり、光背の銘文と一致しない。中尊像が本来付くべき観音像と入れ替わっていると思われるが、上海博物館の見解ではその入れ替わりが後世のことと判る痕跡は光背上にはないという。上海博物館では、現在の中尊像を含めてこれ全体を中大同七年の作と考えている。


〔掲載の図版について〕

 本稿に掲載した図版のうち、図6については和泉市久保惣記念美術館より提供を受けた。また図1・2・3・12については『中国美術全集 雕塑篇 魏晉南北朝雕塑』(人民美術出版社 一九八八年六月)より転載した。

(マ・チェンユエン 上海博物館館長)



[訳者あとがき]

 本稿の筆者である馬承源氏は、一九二七年生れ。上海大厦大学歴史社会系を卒業後、一九五一年上海博物館に入り、同館保管部副主任、陳列部副主任をへて現在同館館長の職にある。また、この間国家文物鑑定委員会委員、中国古文学学会理事等を歴任、現在は上海市文物管理委員会副主任の職にもある。上海博物館は、青銅器研究部・陶磁器研究部・工芸品研究部・書画研究部・保管部・考古部・複製修復部・宣伝教育部・文化交流弁公室・文物保護科学実験室の各部門を擁する中国を代表する博物館である。馬承源氏はこの上海博物館を統括する館長であり、また自身も四十年を越える考古発掘作業等の豊富なキャリアの持ち主である。氏は、すでに各種の出版物や欧米諸国における展覧会、さらには各国美術館関係者との交流において、その卓抜した見識と指導力とを示しておられる。

 奈良国立博物館では、文化庁による平成三年度外国人芸術家・文化人専門家招聘事業として、平成四年一月十三日から同月二十六日までの日程で馬承源氏をわが国にお招きし、この間奈良国立博物館をはじめとして国内の各研究機関、博物館・美術館等の研究者、また文化財修理事業者等との交流をはかって頂いた。この交流を通じて、われわれはとりわけ青銅器や金銅仏などの認識に関する貴重な助言を頂くことができ、また博物館行政や今後の日中間の文物交流についても意見を交換して、益するところ非常に大なるものがあった。また一月十八日には、特にお願いし、当館の新春公開講座において「中国の金銅仏-三世紀から六世紀まで-」と題する講演を行い、広く一般の方々にもその見識の一端を披露して頂いた。本稿は、当日の原稿を翻訳したものである。

 ここに紹介されている作品は、多くがすでに各種出版物に紹介されており、また上海博物館の展示場において親しく見ることのできるものばかりであるが、本稿ではそれらのたくさんの作例が極めて系統的に、分かり易く説明されており、専門家にとってもとにかく難解な概説の多い中国仏教彫刻史の一文として、ここに掲載する意義は大きいものと思われる。訳者も中国仏教彫刻史を研究する一人であり、部分的には訳者の認識と異なるところはあるものの、明快な論旨の展開に深く敬意を表しつつ、全文をそのままで訳出した。

 ただし、読者の便をはかって若干の注釈を付し、また出版の都合から図版の一部を訳者の判断によって割愛した。


(岡田 健 現職…東京国立文化財研究所主任研究官)


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