『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』創刊号
奈良国立博物館研究紀要
平成11年3月31日発行


折り曲げられた鉄刀を伴出する経塚遺物

井口 喜晴



 一 はじめに


 平成四年に奈良国立博物館に折り曲げられた鉄刀を伴出した経塚遺物が館蔵品に加わり、経巻、経容器、副納品などが比較的良好に残存していたので、それらの遺物を紹介した上で若干の問題点をあげてみたい。遺物の出土地については、近畿地方と伝えられる以外は不詳で、必ずしも同一の経塚出土品ではないかも知れないが、一括品として扱われており、内容からみて、ほぼ同一時期のもので、一定区域内の経塚群で出土した複合遺物とも考えられる。この経塚遺物の内容は銅製経筒一口、陶製外筒断片三個、紙本墨書無量義経五紙、紙本経巻残塊四個、菊花双鳥鏡一面、青白磁合子一合、鉄刀残欠一括、鉄刀身一口、蝙蝠扇残欠一括からなる。




 二 経塚遺物


 銅製経筒 一口(口絵5、図1、23、4) 総高二八・七、屋蓋の一辺一九・五、蓋径一四・二、身高二一・四、身口径一二・七、身底径一二・四センチメートル

 銅鋳製で、屋蓋部、蓋、筒身部からなる厚手の宝塔形経筒(図1)である。屋蓋部は露盤の上に宝珠をいただく宝形造の形式で、裏面の中央部には比較的太目の柱状の突出部を一鋳し(図2)、蓋部の中央に設けられた孔の中に挿入し、固定する。蓋(図3)は印籠蓋式の被せ蓋造で、中央に屋蓋部を受けるための円筒形の立ち上がり部を設けている。筒身部(図4)は円形で、口縁部には蓋受部を設け、底部も身部と共に一鋳し、やや甲盛りを持たせている。身の側面には刀剣類の断片の痕跡が付着し、内底にも十巻程度の経巻の痕跡がみられる。なお、屋蓋と身の一部には鋳造時の湯廻りが悪く、再度補鋳した痕跡がある。この経筒は筒身部に蓋を被せた上に、屋蓋部を載せる特異な宝塔形経筒である。宝塔形式の経筒は、経塚の造営された比較的初期の時期に多くみられ、本例はそれらに較べれば年代もやや下ると思われるが、よく宝塔形経筒の形式を伝えている。



 陶製外筒断片 三個(図5) (その一)縦一一・八、横一一・六、(その二)縦四・四、横七・四センチメートル、(その三)縦七・三、横一〇・三

 三個の外筒の断片で、底部近くのものや、突帯を有するものがあり、内外両面に縱方向の刷毛目の整形跡が認められる。整形法、焼成の具合、書体などからみて同一個体で、小片のために、その全貌を伺うまでには至っていないが、円筒形で三段程度の突帯を有する須恵器とみられる。なお断片には「生善後生/、…菩提父母/師長皆成、……法界」(その1)、「…利益…、…此妙法…」(その2)、「…書写、…経」(その3)、の線刻された銘文がみられる。



 紙本墨書無量義経 五紙(図6) 一紙長六〇・二(三紙)、六一・二(一紙)、六三・二(一紙)センチメートル

 銅製経筒の中に納められていたとみられる経巻の断簡の五紙で、斐紙を用い、薄墨で一行につき約十七字で経文を書写している。書写された経典は無量義経徳行品第一の巻首から、説法品第二の巻末の十行前後を除いた部分で、途中、徳行品第一の偈文の後半と、説法品第二の巻首にあたる一紙を欠失する。本経典は書写の様子や巻首の残存状況からみて、巻首から逆巻されたものと考えられる。なお、五紙ともに上半部を欠失している。


 紙本経巻残塊 四個(図7) 底径三・一、一・三、二・〇、三・四センチメートル

 四巻分の経巻の残塊で、三巻は上半部を欠失し、一巻は底部のみが残る。いずれも経筒の底部の方に納置された部分にあたり、四巻のうちの一巻の残塊は朱書経とみられる。これらの経巻名については不明であるが、無量義経とともに出土したものであれば、法華経または結経の観普賢経に該当するものと推定される。



 菊花双鳥鏡 一面(図8) 径八・一センチメートル

 青銅製の円鏡で、界圏をめぐらして内外二区に分ち、鏡背面全体にわたって菊花文を散らし、その間に双鳥を配している。


 青白磁合子 一合(図9) 径五・二、高三・三センチメートル

 小型の印籠蓋式の合子で、菊花形に型抜きし、蓋の表面に菊花文を表わす。蓋の口縁部には一箇所に小欠の部分があり、内部には蓋、身ともに有機物の付着がみられる。合子の内部に有機物が残ることは稀であり、今後の化学的分析に期待がもたれる。


 大刀残欠 一括(口絵6、図10) 長(折り曲げられた現状)約三五・〇センチメートル

 大きく刀身の中央がU字形に折り曲げられた鉄製の大刀で、把頭の先端を欠失するものの、目釘孔付近もL字形に折り曲げられ、さらに木製の鞘や鐺金具などが付随している。刀身はほとんど反りがなく、錆や折り曲げられたために処々欠失した部分があり、一部に木質の付着が認められ、鞘の一部と推定される。鍔は銅製で木瓜形を呈し、さらに銀製の四葉座形の切羽と潭金具を付し、把の部分には目釘孔がみられるが、先端部は欠失している。木製の鞘も処々に損傷がみられる。なお、この鉄製大刀は鉄刀身などとともに(財)元興寺文化財研究所で保存処理が施された。


 鉄刀身 一口(図11) 長二六・八センチメートル

 鉄製刀子の刀身で、全身が錆に覆われ、外荘具を欠失している。

 蝙蝠扇残欠 一括(図12) 長約二九・五センチメートル

 木製の蝙蝠扇の十二本の骨身の部分で、木身の上に漆や銀の痕跡がみられるが、扇の留金具を欠失している。蝠蝙扇の残欠は三重県の朝熊山経塚出土品などに、僅かな遺例が知られるのみで、極めて貴重な資料といえる。

 以上の遺物は近畿地方の出土と伝えられる以外は、出土状況は不明で惜しまれるが、埋納経、経容器、供養具などの主なものが、おおよそ備っている。全体で一括遺物とみても大きな矛盾はなく、平安時代後期の経塚の一形態をうかがわせる遺品ということができる。次にそれらの中から若干の遺物をとりあげ、その特色と問題点をあげてみたい。




三 銅製経筒


 宝塔形式の厚手の円筒経筒で、屋蓋部、印籠蓋、筒身の三部からなる経筒である。とくに円筒形の筒身部に、屋蓋部から伸びる柱状の突出部を受けるために、円筒形の立ち上がり部を設けた印籠蓋を被せた三段式の構造は特異である。屋蓋部を受けるために、筒身部に印籠蓋を被せた例としては、福岡県太宰府付近出土と伝えられる永久四年(一一一六)銘の、小金銅仏二躯を伴う銅製宝塔形経筒(注1)(重要文化財、奈良国立博物館蔵)(図13)や、福岡県四王寺山経塚出土の保安四年(一一二三)銘の宝塔形経筒(注2)(重要文化財、東京国立博物館蔵)(図14)などがある。永久四年銘の宝塔形経筒は、塔身部、屋蓋部、相輪部からなり、塔身部は鋳銅製で縦長の宝塔の軸部をかたどり、肩部は印籠蓋造とし、身の側面は扉を線刻で表わす。また基部には一段の高台を設け、円形の銅板を嵌めて底板とし、その内側に永久四年の銘文を針書きしている。相輪をいただいた屋蓋部との固定の方法は、屋蓋部の屋根裏に円孔部を穿ち、印籠蓋に設けられた凸柄を受けている。この経筒は明確に扉を線刻した塔身部からなり、紀年銘を有する宝塔形の経筒として貴重な遺例である。

 また近年、福岡県甘木市の三奈木大佛山経塚(注3)で、蓋のない筒身部の上に取付け座を設け、相輪部から下に伸びた柱部とピンで固定し、着脱可能にした厚手の覆筒式の銅製経筒(図15)が発掘されている。この経筒は、永久四年や保安四年銘の宝塔形経筒に較べれば厚手造りで、むしろ今回の奈良国立博物館蔵品に近い。この経筒の塔身の内面にはX線透過撮影の結果、「為」「供」「西逆」などの銘文の陽鋳されていることが確認されている。経筒の年代については、筒身内面に陽鋳銘のある経筒の例に、大治四年(一一二九)銘の千葉県谷津経塚出土品(注4)、長承二年(一一三三)銘の茨城県神崎寺経塚出土品(注5)があり、また覆筒式経筒とほぼ口径が等しい天治元年(一一二四)銘の茨城県東城寺経塚出土例(注6)から、これらの経筒と相前後する時期が考えられている。またこの経筒の底板は、四方に舌を設けて、身部に嵌め込んだ平底であり、久寿三年(一一五六)銘の愛知県普門寺経塚出土品(注7)の類例により、この年代を下限とし、また九州特有の相輪鈕有節経筒であることから、永久三年(一一一五)銘の大分県三宮神社経塚出土の類例(注8)を参考に、その年代を上限としている。今回紹介している経筒の底部は、嵌め込み式ではなく、筒身部とともに一鋳されたものではあるが、以上にあげた諸例からみて一二世紀の前半から中ごろに属するものとして大過ないと思われる。




 四 折り曲げられた鉄刀


 伴出した鉄刀は、鉄身がU字形に折り曲げられた大刀の特異な形態で、このような遺物を出土する経塚としては、兵庫県江ノ上経塚(注9)、岡山県小山経塚(注10)、広島県宮地川経塚(注11)、香川県香色山経塚(注12)などの瀬戸内海沿岸部を中心とした地域のわずかな遺跡が知られている。

 そのうちの江ノ上経塚は、兵庫県加西市谷口町の標高一五〇メートルの丘陵尾根上に、石組の経塚三基と瓦質土器を直接埋納した経塚一基とがあり、折り曲げられた鉄製大刀(加西市蔵、図16)は、石組の一号経塚から出土している。また一号経塚では大刀のほかに、紙本朱書と墨書の法華経および開結経あわせて十巻、阿弥陀経一巻、経容器の銅鋳製経筒、東播の神出窯で焼成された須恵器甕と片口鉢、副納品の銅製素文方鏡、青白磁合子、鉄製刀子二口、宋銭などの出土が報告されている。この鉄製大刀は全長八六・五、切先から鍔までが七四・五センチメートルで、外容器の須恵器の甕を囲むように刃を上にして折り曲げて納められていた。刀身は断面が二等辺三角形で、中央部付近がやや反り上がり、切先はやや外膨らみがある。鍔は長方形に近い楕円形で、文様はない。柄は柄木や目貫などが比較的よく残り、柄縁や目貫の座金具、懸緒孔の飾り、兜金、飾目貫などの金具も確認されている。鞘金具では足金物が一個のみ、刀身部とは遊離して検出されている。従って鞘は大刀を抜いた状態で埋納されたものと推測されている。

 小山経塚は岡山県和気郡吉永町吉永中に所在し、陶製の外筒や撫子花散双鳥鏡とともに、鉄製大刀(東京国立博物館蔵、図17)が出土している。大刀は現存長八〇センチメートルで、ほとんど全身をとどめている刀身部と鐔とからなる。刀身は中央部で「く」の字状に曲り、江ノ上経塚の例に類似している。鐔は銅製で倒卵形を呈し、花形の大切羽と小切羽とを二重に付している。また茎に目釘孔が残り、菊座が嵌められている。ただし、この大刀と外容器との埋納状況などについては明らかではない。

 宮地川経塚は広島県豊田郡本郷町宮地川の標高二〇七メートルの丘陵上に位置し、現状ではすでに経塚は掘り取られ、その下部に営まれていた古墳の竪穴式石室が現れている。経塚(図18)はこの山頂に築かれた前方後円墳の、後円部に設けられた竪穴式石室の天井石の上部に築造されたものと考えられ、銅経筒、陶製外容器、懸仏、鑑鏡、刀子、大刀、青白磁合子、青磁碗などが出土している。そのうちの大刀は刀身部が五七・五センチメートルで、茎部は折れ、目貫孔までは四センチメートルあり、刃部は著しく折り曲げられて南面して埋納されていた。出土状況は外容器で覆われた経筒を納めた石室を中心にして、その周辺に刀子や鑑鏡を円形にめぐらし、その間に青白磁の合子や小壺、大刀などが散在していたといわれる。折り曲げられた大刀については、石槨内の大きさは十分にあり、曲折しなくても納められる状態にあったと考えられている。この経塚の年代については、出土遺物から、鎌倉時代初頭に続く時期とみられている。

 香色山経塚は香川県善通寺市寺町にある標高一五七メートルの香色山山頂に位置し、折り曲げられた鉄刀(善通寺教育委員会蔵、図19)は、四基の経塚のうちの一号経塚の下部から出土した。この一号経塚は上下二段に埋納主体のある、二階建構造の特異な経塚で、平安時代の後半に大形の石槨を作って経筒と外容器を置き、一旦中段を石材で塞ぎ、数十年後に再び上部の空間部に経筒と外容器を納置している。なお下部の石槨部は、経筒とその外容器を納める主槨と、副納品を納める副槨とからなる極めて珍しい構造である。折り曲げられた大刀は、この副槨の上部から刃部を上に向けて出土しているが、状況からみて上部石槨に経筒や副納品を納める際に手が加えられた結果と考えられている。すでに折り曲げられた付近で折れているが、法量は全長八〇、刃渡り五五、刃幅二・三~二・八センチメートルで、茎部に三箇所の目釘穴が確認されている。この一号経塚の年代については、上部は伴出した和鏡や経筒などから一二世紀の後半に、下部は経筒からみて一二世紀前半の造営が考えられている。

 以上にあげた経塚の出土例はいずれも瀬戸内海沿岸を中心とする地域であるが、東海地方の静岡県周智郡森町の小国神社経塚(注13)からも出土している。この経塚は小国神社の社殿の背後に位置し、明治一八年(一八八五)に、社殿の改築に際して出土したもので、銅製経筒や仁安三年(一一六八)銘を線刻した土製経筒などとともに、鉄製大刀が二口以上出土し、その中に折り曲げられた鉄刀の断片(小国神社蔵、図20)が伝えられている。また、静岡県富士市の千鳥道経塚からは、仁安三年(一一六八)銘の銅鋳製経筒や、陶製甕、青白磁合子、和鏡などとともに銅製の大刀の鐔、切羽が伴出している(注14)。鉄製刀身の残片も若干出土しているが、その全貌は不詳である。ただし鐔や切羽からみて大刀が副納の際に、折り曲げて納置された可能性も考えられる。従来は、この種の折り曲げられた鉄刀は、西日本を中心に出土するとみられていたが、これらの類例から東日本も含めて全国的に発見される可能性があり、その埋納された意味を考える上にも重要な手掛りが期待される。



 おわりに


 以上で、折り曲げられた鉄刀を伴出する館蔵の経塚遺物を紹介してきたが、出土地は近畿地方といわれる以外に詳細は不明である。とくに折り曲げられた鉄刀は、瀬戸内海の東部沿岸地方を中心に分布しているので、一応、近畿地方の西部から中国地方の東部周辺と考えることも可能である。年代については、三段式の特異な構造をもつ宝塔形経筒で、関連する宝塔形遺物の例からみて一二世紀の前半から中ごろとみられる。なお、折り曲げられた鉄器は、弥生時代後期後半ごろから古墳時代前期の墳墓の副葬品にも散見され(注15)、先史、原史時代から歴史時代にかけての連続性についても、今後に検討すべき問題が残されている。

 今回紹介した遺物は、出土地についても、年代についても確定できる資料はないが、折り曲げられた鉄刀や三段式の宝塔形経筒など特異な遺物が含まれているので、とりあえず資料を報告し、今後の問題を提起しようと思う。





 【注】

  1. 奈良国立博物館『経塚遺宝』一九七七年など

    注(1)に同じ。

    甘木市教育委員会『三奈木大佛山遺跡Ⅲ』一九九六年

    蔵田蔵「経塚論三」(『ミュージアム 一五二号』)一九六三年

    茨城県立美術博物館『茨城の文化財』一九七二年

    注(1)に同じ。

    注(1)に同じ。

    小田富士雄「九州の経塚」(『佛教藝術 七六』)一九七〇年

    瀬戸内考古学研究所『播磨江ノ上経塚発掘調査報告書』一九八八年

    蔵田蔵「経塚論十」(『ミュージアム 一七八号』)一九六六年

    村上正名「安芸国本郷町経塚報告」(『考古学雑誌』四二-四)一九五七年

    善通寺市文化財保護協会『香色山山頂遺跡群調査報告書』一九九六年

    石田茂作「仏教遺物」(『静岡県史第三巻』)静岡県 一九三六年

    東京国立博物館『東京国立博物館図版目録 経塚遺物篇 図版36』一九六七年。千鳥道経塚出土の大刀関係については、三宅敏之氏の御教示による。

    佐々木隆彦「折り曲げた副葬鉄器」(『九州歴史資料館研究論集』二三)一九九八年



 〔付記〕

 本稿を草するにあたり、元東京国立博物館次長の三宅敏之氏と奈良国立文化財研究所飛鳥資料館の杉山洋氏に御教示と御協力をいただき、刀剣類については奈良県立美術館の宮崎隆旨氏の御教示をいただいた。

 また写真は、奈良国立博物館の資料の他に、東京国立博物館(図17)、加西市教育委員会(図16)、善通寺市教育委員会(図19)、三宅敏之氏(図20)から提供いただき、図15と18は各報告書から引用した。なお、資料の掲載に際しては、東京国立博物館の原田一敏氏、望月幹夫氏、兵庫県教育委員会の森内秀造氏、加西市教育委員会の立花聡氏、善通寺市教育委員会の笹川籠一氏、甘木市教育委員会、小国神社の御高配をたまわった。


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