『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』創刊号
奈良国立博物館研究紀要
平成11年3月31日発行


密観宝珠形舎利容器について

内藤 榮



 はじめに


 宝珠は摩尼宝珠あるいは如意宝珠ともいい、龍王や摩羯魚の脳、あるいは鳳凰の肝より採れると考えられた。あらゆる願いを叶える不可思議の功力をそなえた玉とされ、しばしば釈尊の遺骨である舎利と同一視された。その傾向はわが国では真言宗において特に顕著であったが、その根拠となったのは空海が撰述したと伝える『御遺告』(大正蔵巻七十七)であった。本書は宝珠を鳳凰の肝や龍の脳ではなく、「自然の道理にして如来の分身」(原漢文)であると述べている(注1)。そのような教義に則り、真言系寺院を中心に宝珠をかたどった容器に舎利を納めた宝珠形舎利容器が制作されるようになった。

 わが国で用いられた宝珠のひとつに密観宝珠(みっかんほうじゅ)とよばれる特殊な形式のものがある。これは、一般に立てた金剛杵(以下、金剛杵茎という)の上に蓮華座をのせ、その上に宝珠を奉安したもので、鎌倉時代後期から散見することができる。この形式を用いた舎利容器は密観宝珠形舎利容器と呼ばれる。密観宝珠という名は、この種の宝珠が密教の観想に用いられたと考えられたことによる近年の命名である(注2)。必ずしも的確な名称とはいいがたいが、通称となっているため本論もこの名称を用いることにする。

 従来、密観宝珠は『無量寿如来供養作法次第』(『弘法大師全集』第二輯所収)によって成立したと考えられてきた(注3)。同書の道場観には「その字輪変じて独鈷となり、首の上に微妙なる開敷せる紅蓮華あり。横の五鈷の上に立つ。すなわち変じてその華は無量寿如来の身となる。」(原漢文)とあり、その図像が掲げられている〔図1〕。すなわち、無量寿(阿弥陀)如来の道場観は横の五鈷杵上に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華を据えた形式であり、この蓮華が変じて無量寿如来になるという。仮に同書によっているとすれば、密観宝珠は無量寿如来を象徴していることになろう。確かに横たえた五鈷杵に独鈷杵を立て、その上に蓮華をいただいた無量寿如来の三昧耶形は密観宝珠の形状と近似している。しかし、密観宝珠では金剛杵茎上の蓮華座に宝珠が奉安されること、そして後述するように、密観宝珠の作例には『無量寿如来供養作法次第』の説と同じ形式の金剛杵茎はごく稀にしか見ることができないことを相違点として挙げることができる。したがって、密観宝珠が成立した背景には同書以外の要因を考える必要がある。

 では、密観宝珠はどのような意味をもち、なぜ金剛杵茎に宝珠を載せるという特異な形式で表わされたのであろうか。そして、いかなる法要で使用されたのであろうか。本論はこのような問題点を中心に密観宝珠について考察を試みることとしたい。



 一、密観宝珠の意味


  1、密観宝珠の構成

 密観宝珠の基本的な構成は金剛杵茎の上に蓮華座にのる宝珠を奉安したものであるが、各部の形式、例えば金剛杵茎の種類や宝珠の数などは、作例によってかなりの異同が認められる。まず、管見の範囲で知り得た密観宝珠の作例をあげ、それぞれの構成について見ることとしたい。(左右の表記は右手、左手など尊像の身体の部位をさす場合及び掛軸の左幅、右幅をさす場合等を除き、原則として向かって右、向かって左とする)



①重文 大神宮御正体(弘安十一年〔一二八八〕銘、奈良・室生寺蔵)〔図2〕

円形の鋳銅製懸仏で、片面に密観宝珠を浮彫する。その構成は下より、蓮華座・輪宝・独鈷杵茎・蓮華座・火焔付き三弁宝珠の順である。刻銘より伊勢大神宮、春日大社、太玉社の本地を表わしたものであり、弘安十一年に沙門重如が発願したことがわかる。

②重文 金銅火焔宝珠形舎利容器(鎌倉時代後期、東京国立博物館蔵)〔図3〕

下より方形基壇・反花座・輪宝・五鈷杵茎・円相・蓮華座・二方火焔付き宝珠の順。円相は蓮華座と宝珠を包んでいる。蓮華座は蓮肉が蓋となっている舎利容器である。金工技法は奈良・西大寺の金工品と近似する点が多く、もとは西大寺派の寺院に所蔵されていたものと推定される。

③重文 金銅火焔宝珠形舎利容器(建武二年〔一三三五〕銘、奈良・西大寺蔵)〔口絵3、図4〕

下より円形基壇・反花座・横たえた五鈷杵・五鈷杵茎・蓮華座・二方火焔付き水晶製宝珠の順。宝珠が舎利容器となっている。寺伝では亀山天皇勅封の舎利容器という。

④金銅火焔宝珠形舎利容器(鎌倉時代後期、広島・浄土寺蔵)〔図5〕

下より円形基壇・反花座・独鈷杵茎・輪宝・蓮華座・四方火焔付き水晶製宝珠の順である。宝珠に舎利を納入する。

⑤重文 密観宝珠嵌装舎利厨子(鎌倉時代後期、奈良・般若寺蔵)〔図6〕

正面のみ観音開き式の扉を有する木製黒漆塗の宮殿形厨子。軸部内壁に、下より蓮華座・三鈷杵茎・蓮華座・水晶窓をあけた火焔宝珠の順で重ねた密観宝珠を表わした打出金具を嵌装し、その両側に同じく打出金具による双龍を装着する。

⑥密観宝珠嵌装舎利厨子(南北朝時代、奈良・金剛山寺蔵)〔図7〕

正面のみ観音開き式扉を有する木製黒漆塗の宮殿形厨子。軸部内壁に打出金具で密観宝珠を表わす。その形式は下より蓮華座・独鈷杵茎・蓮華座・円相の順で重ね、円相内に蓮華座にのり水晶窓を有する火焔宝珠を納めるもの。円相内の蓮華座の各弁には一個づつ三弁宝珠を表す。右の扉の内側に不動明王坐像、左扉の内側には愛染明王坐像を彩絵する。

⑦密観宝珠嵌装舎利厨子(室町時代、奈良・興福寺蔵)〔図8〕

正・背両面に観音開き式扉を設ける木製黒漆塗の宮殿形厨子。正面の軸部内壁に打出金具による密観宝珠を嵌装する。その形式は下より蓮華座・独鈷杵茎・蓮華座・円相の順で重ね、円相内は蓮華座に輪宝をのせ、その上に水晶窓を有する火焔宝珠が置かれている。右の扉の内側に不動明王坐像、左の扉の内側に愛染明王坐像を彩絵する。背面は軸部内壁に南円堂不空羂索観音坐像と僧形および童子を、両扉の内側に四天王を彩絵する。

⑧密観宝珠嵌装舎利厨子(室町時代、奈良・個人蔵)〔図9〕

正・背両面に観音開き式扉を設ける木製黒漆塗の宮殿形厨子。正面の軸部内壁に打出金具で、蓮華座・五鈷杵茎・蓮華座・水晶窓のある火焔宝珠の順で積み重ねた密観宝珠を表わし、その右下に不動明王坐像、左下に愛染明王坐像を彩絵する。両扉の内側には二天像を彩絵する。背面は軸部内壁に八字文殊曼荼羅、両扉内側に如来形を十五躯づつ彩絵する。

⑨密観宝珠嵌装舎利厨子(室町時代、個人蔵、京都・東寺観智院旧蔵)〔図10〕

正・背両面に観音開き式扉をあける木製黒漆塗の宮殿形厨子。正面の軸部内壁に打出金具で、下から反花座・華盤・三鈷杵茎・蓮華座・水晶窓のある三弁火焔宝珠の順で重ねた密観宝珠を表わし、その両脇に双龍を打出金具で表わす。右扉の内側に不動明王坐像、左扉の内側に愛染明王坐像を彩絵する。背面には軸部に観音開きの内扉をつくり、外扉と内扉の間に慳貪板をはめる。その板の一面に胎蔵界大日と真言八祖、他面に円光内に日輪をいただく大日如来を彩絵する。

⑩紙本墨書淡彩宝珠形図像・如意輪観音種子図像(聖徳太子二歳像納入品、延慶二年〔一三〇九〕、奈良・円成寺蔵)〔図11、12〕

宝珠形図像は蓮華座上に立つ独鈷杵茎に紅蓮華座を重ね、その上に輪宝を立て、輪宝の中央に三弁火焔宝珠を表わしている。如意輪観音種子図像は同じく蓮華座・独鈷杵茎・紅蓮華座の順で重ね、その上に輪宝を立て、輪宝の中央に如意輪観音の種子である「キリク・タラク・タラク」を表わしている。

⑪紙本墨書彩色『東長大事』所載の宝珠曼陀羅(嘉暦二年〔一三二七〕、群馬・慈眼寺蔵)〔図13〕(注4)

紅蓮華の上に五鈷杵茎を立て、その上に紅蓮華座にのる火焔宝珠をのせる。宝珠には「ア、ラン、キャン、バン、カン」の梵字が記されている。五鈷杵茎の右に薄緑色の龍、左に赤色の龍が、それぞれ雲を伴なって宝珠に向かって登らんとする様を描いている。

⑫絹本著色阿字曼荼羅図(南北町時代、東京国立博物館蔵)〔図14〕

懸幅の画面に、下より青蓮華の反花座・五鈷杵茎・紅蓮華座・円相の順で重ね、円相の中に青蓮華座に阿字がのる密観宝珠を描いている。鎌倉時代以降において、阿字・舎利・宝珠の三者を等しいものと考える教義があるから(注5)、この作品も密観宝珠のひとつに数えることができよう。

⑬絹本著色五宝珠・不動明王二童子・愛染明王図(南北朝~室町時代、広島・浄土寺蔵)〔図15〕

中幅は下より紅蓮華・横たえた五鈷杵・独鈷杵茎・蓮華座・円相の順に重ね、円相内に輪宝を背景に現れた火焔を付した五個の宝珠を描いている。宝珠は金、銀、赤、緑、紺の五色に色分けされている。左幅は二童子を従えた不動明王坐像を描くが、円形の火焔光背を負い、左手は輪宝を持つ点が通形の不動明王と異なる。右幅は愛染明王坐像を描く。

⑭絹本著色龍王曼荼羅図(室町時代、奈良・西大寺蔵)

画面は上下二段に分けられる。上の図は菩薩形の龍王を中心に、上方に双龍と宝珠一顆と日月を表わす。下の図は上方に双龍をしたがえた密観宝珠を描き、下方は二僧と空海を中心に四方に菩薩形の龍王四躯を表わしている。密観宝珠は下より蓮華座・三鈷杵茎・蓮華座・火焔宝珠の順である。


 また、重文の金銅火焔宝珠形舎利容器(正応三年〔一二九〇〕、奈良・海龍王寺蔵)〔図16〕は、下より二重基壇・反花座・五鈷杵の鈷部を背にのせた獅子と宝棒・華盤・輪宝・敷茄子・蓮華座・三方火焔付きの水晶製宝珠を重ねるという複雑な構成をもつ品である。この作品では獅子の背に立つ五鈷杵の鈷部が輪宝を支え、さらにその上に蓮台宝珠がのる形となっていることから、本品も密観宝珠の範疇に入れるべきであるとの指摘がある(注6)

 以上十五点の作品を形式より分類すれば、①が懸仏、②~④が単独の舎利容器、⑤~⑨が舎利容器を嵌装した木製舎利厨子、⑩~⑭が絵画作品および図像である。制作時期は鎌倉後期から室町時代に及んでいるが、銘文等で確実に知ることのできる制作の上限は①の弘安十一年(一二八八)である。密観宝珠の遺品数は十余点ほどで豊富とは言いがたいが、西大寺およびその末寺など真言律宗の寺院に多く伝来する傾向を指摘できる(③、④、⑤、⑬、⑭)。

 金剛杵茎には独鈷杵茎(①、④、⑥、⑦、⑩、⑬)、三鈷杵茎(⑤、⑨、⑭)、五鈷杵茎(②、③、⑧、⑪、⑫)の三種があり、また③西大寺金銅火焔宝珠形舎利容器のように横たえた五鈷杵に五鈷杵茎を立てる例や、⑬浄土寺五宝珠図のように横たえた五鈷杵に独鈷杵茎を立てる例もあるなど、一定した儀軌は存在しなかったことが窺える。また、輪宝が用いられる例が多いが、その位置は金剛杵茎の下(①、②)、金剛杵茎の上(④)のほか、金剛杵茎にのる蓮華座の上(⑦、⑩、⑬)の三種があり、これも一定した決まりはなかったものと考えることができる。ただし、密教法具の中で特に輪宝が選ばれて金剛杵と併用されたことは、密観宝珠の性格を考える上で興味深い問題を提起していよう。なお、先に密観宝珠の所依経典を『無量寿如来供養作法次第』に求める説があることを述べたが、右の作例において同書に説くような横たえた五鈷杵に独鈷杵茎を立てるものは、唯一⑬浄土寺五宝珠図を挙げえるにすぎない。したがって、現存作例に見るかぎり密観宝珠の成立には『無量寿如来供養作法次第』以外の要素を考慮する必要がある。さらに言えば、一定した儀軌を持たないことは密観宝珠が特定の経典に依るのではなく、意楽(いぎょう)(儀軌にもとづかない自由な発想)に則していることを暗示している。

 さて、右にあげた作例のうち密観宝珠の意味を考える上で興味深いことは、⑥金剛山寺厨子、⑦興福寺厨子、⑧奈良・個人蔵厨子、⑨東寺観智院旧蔵厨子、⑬浄土寺五宝珠・不動明王二童子・愛染明王図の五作品において、密観宝珠の両脇に不動明王と愛染明王が表わされている点である。密観宝珠はこの二明王と三尊を構成するものであったと仮定できよう。したがって、この二明王を脇侍とする尊像を見いだすことができれば、密観宝珠のもつ意味はかなり明確となるであろう。その際注目すべきことは、鎌倉後期から室町時代にかけての密観宝珠以外の一般的な宝珠を納めた厨子においても、しばしば宝珠の両脇に不動・愛染が表わされていることである。そこで、一旦密観宝珠から離れ、不動・愛染を脇侍とする尊像について考察をすすめ、この二明王を脇侍とした場合の宝珠の意味について考えることとしたい。


  2、宝珠・不動・愛染の三尊形式について


 次頁に挙げた表は、不動明王と愛染明王が扉絵等に表わされた厨子の荘厳意匠を管見の範囲でまとめたものである。それによれば、本尊として宝珠形や宝塔形などの舎利容器を据え、正面左右の扉などに不動明王と愛染明王を一躯づつ彩絵する形式が多い。ただし、左右のいずれに不動・愛染を描くかは一定していない。制作時期は南北朝時代から室町時代に集中しており、ほぼ密観宝珠が制作された時期と重なっている。

 さて、表のうち不動・愛染を脇侍とした場合の舎利あるいは宝珠の性格を考える上で、注目すべき作品として次の四点をあげることにしたい。

 まず兵庫・福田寺所蔵の宝篋印塔嵌装舎利厨子である(注7)。これは正・背面に観音開き式の扉をあけた宮殿形厨子である。正面は軸部に金銅製宝篋印塔を嵌装し舎利を納め、右の扉の内側に獅子にのる文殊菩薩坐像、左扉の内側に騎象の普賢菩薩坐像を彩絵している。獅子と象はともに伏した姿で描かれている点からみて、この厨子の制作時期を南北町時代以降におくことができよう。背面は中央に慳貪板をはめ、六臂如意輪観音坐像を彩絵し、右扉の内側に愛染明王坐像を、左扉の内側に不動明王坐像を彩絵する〔図17〕。これによって如意輪・不動・愛染という三尊形式が存在したこと、そしてこれは舎利(釈迦如来)・文殊・普賢の三尊と表裏をなす関係にあったことが窺える。

 次に奈良・西大寺所蔵の五輪塔嵌装舎利厨子である。これは屋蓋と基壇を失っている宮殿形厨子で、正面にのみ観音開き式の扉をあける。軸部には慳貪板があり、舎利を納入した金銅製の五輪塔を嵌装している。五輪塔の屋根(火輪)に反りが顕著であることなどから、本厨子の制作は室町時代(十五世紀)と推定される。扉は向かって右の内側に愛染明王坐像、左の内側に不動明王坐像が彩絵されている。そして、慳貪板を取りはずすと絹本著色の六臂如意輪観音坐像が貼付された奥壁が現れ、扉絵とあわせて如意輪・不動・愛染という三尊形式が成立する〔図18〕。如意輪観音像の尊容は通常の六臂像であるが、台座は下方より反花座・輪宝・独鈷杵茎・蓮華座の順で積み上げた形式を見せている点が通形と異なる。この金剛杵茎と輪宝の組み合わせは先述のように密観宝珠の作例にしばしば見ることができるものであり、密観宝珠と如意輪観音との関連を示す作品として注目される。

 また、東京・根津美術館所蔵の厨子入大日金輪像(室町時代、奈良・法華寺伝来)も如意輪・不動・愛染の三尊形式を見せる作品である。この作品は厨子軸部の慳貪板の一面に絹本著色の大日金輪像を貼り、右扉の内側に不動明王、左扉の内側に愛染明王を彩絵している。そして、慳貪板のもう一方の面には絹本著色の六臂如意輪観音像を貼付している。当初、どちらが正面であったかは今後の精査が必要であろう。如意輪観音像と大日金輪像はともに補筆が多いものの厨子本体や扉絵の作風よりも古様を示しており、厨子を制作する時に既存の仏画を利用した可能性がある。金輪法と如意輪観音との密接な関連を示す例として興味深い品である。

 奈良・唐招提寺所蔵の黒漆塗厨子(重文)も如意輪・不動・愛染の三尊形式が存在した可能性が高い作品である。この厨子は正面と両側面に観音開き扉をあけ、正面の右扉の内側に愛染明王坐像を、左扉の内側に不動明王坐像を彩絵し、両側面の扉四枚の内側には一躯づつ四天王像を描く(現在側面扉は一枚欠失)。奥壁には蓮華座に月輪をのせ、その中に阿字が現れたさまを大きく彩絵している。厨子内には室町時代に制作されたと推定される千手観音立像を安置しているが、本厨子は屋蓋部裏面に墨書があり、それによって応永三十年(一四二三)に如意輪院の本尊のために造立された由緒がわかる(注8)。如意輪院についての詳細は不明であるが、寺名より推察して本尊は如意輪観音像であったと考えるのが穏当であろう。なお、奥壁に表わされた阿字については、如意輪観音の種子を阿字とする説もあるから、如意輪観音像が安置されたとしても矛盾しない(注9)

 さて、このような厨子以外にも実際に如意輪・不動・愛染の三尊構成を絵画や彫刻で表わした例を見ることができる。そのもっとも初期の例に広島・浄土寺本堂(国宝)の来迎壁裏面の板絵〔口絵4〕をあげることができる。本堂は西大寺叡尊の高弟定證によって嘉元四年(一三〇六)に建立されたが、正中二年(一三二五)に焼失した(注10)。現在の堂は焼失の二年後の嘉暦二年(一三二七)に再建されたもので、十一面観音立像(重文、平安時代)を本尊とする。来迎壁の裏面には中央上方に六臂如意輪観音坐像、左下に愛染明王坐像、右下に不動明王坐像が描かれている。この図において特に注目されるのは、横たえた五鈷杵(あるいは三鈷杵)に独鈷杵茎を立て、その上に三弁宝珠、蓮華座を重ねた形式の如意輪観音の台座である〔図19〕。残念ながら壁画は退色が著しく図像は不鮮明であるが、当寺には壁画の如意輪観音像ときわめて近い像容を見せる如意輪観音像の版木〔図20〕が伝わっている。版木像の台座は独鈷杵茎上の三弁宝珠が省略されているが、五鈷杵を横たえた上に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華座をすえる形式は来迎壁と同じである。版木と壁画は同一の図像に基づくものと考えることができる。版木は銘によって元応二年(一三二〇)に製作されたこと、浄土寺了胤(定證の弟子)が製作に関連したことが窺える。元応二年という年は定證再建の本堂が回禄する以前であり、この図像は既に定證再興期の浄土寺において用いられていたことがわかる。このような金剛杵茎に置かれた蓮華座に如意輪観音が奉安された姿は、ちょうど密観宝珠の宝珠が如意輪観音に置き換えられた形であると言うことができる。同様の例は先に挙げた五輪塔嵌装舎利厨子(西大寺蔵)があり、双方とも西大寺派の寺院に関連する作品であることは注意する必要があろう。

 また、大阪・観心寺金堂にも如意輪・不動・愛染の三尊形式を見ることができる。この堂の内陣には三基の厨子があり、中央の厨子に平安初期彫刻の傑作として名高い如意輪観音坐像(国宝)が安置されている。その右の厨子には南北朝時代の制作と推定できる木造不動明王坐像(重文)が奉安される(注11)。この像は、永和四年(一三七八)に撰述された『観心寺参詣諸堂巡礼記』(東京大学史料編纂所所蔵)に見える後醍醐天皇による再興像に該当すると考えられる。一方、左の厨子には木造愛染明王坐像(重文)が安置されているが、『巡礼記』は左厨子には法性塔が納置されていたと伝えるだけで、愛染明王像に関する記述はない(注12)。したがって、愛染明王像は永和四年以降の造立であることは明らかであり、作風より室町時代(十五世紀)の作と考えるのが妥当であろう。すなわち、観心寺金堂において如意輪・不動・愛染の三尊構成が成立したのは室町時代以降であると考えることができる。また、奈良・岡寺本堂、大阪・叡福寺本堂の内陣にも如意輪・不動・愛染の三尊形式を見ることができるが、いずれも近世以降に成立したものと考えられる。

 以上より不動、愛染の二明王が脇侍となる場合、中尊にはしばしば如意輪観音が立てられることを知ることができた。管見の限りでは、如意輪観音に関する経典にはこの三尊形式を見ることはできないが、真鍋俊照氏が紹介された『東長大事』(群馬・慈眼寺蔵)には、その成立について興味深い記事を見ることができる(注13)。すなわち、

一、三尊合行亦様

師主御口傳云。前所記三尊合行次第是御遺告最極甚深大事。嫡弟一人授之。更三尊各別法亦有一秘傳。即如意輪観音為本尊常不動愛染像左右安之。祖師勝賢僧正以此習北院御室奉授之。此号三佛如意輪法〈甚秘〃〃〉。

(中略)

大師以此一傳天長八年二月六日重貞観寺僧正奉授之。真雅僧正受大師御口以為嫡々相承之秘法也。祖師権僧正〈勝覚〉建立此三尊以授代々嫡弟。即中尊安五輪塔婆水輪納二果宝珠。右方愛染〈六臂像〉。左辺不動〈左持輪〉。此号三尊帳。中尊五輪此如意輪三形也。(後略)

と見え、続けて「三宝院祖師 建立三尊図」として醍醐寺三宝院の祖師、勝覚(一〇五七~一一二九)の建立した三尊像の図像を掲げている〔図21〕。これによって、醍醐山座主を務めた勝賢(一一三八~一一九八)が如意輪・不動・愛染の三尊をまつり、これを「三仏如意輪法」と称したこと、さらに勝覚が東寺の舎利をこめた二顆の宝珠を納めた五輪塔を本尊とし、左脇侍に三寸の白檀の不動明王像、右脇侍に同じく白檀の五指量の愛染明王像をまつったことが窺える。この五輪塔は如意輪観音の三昧耶形という。図によれば、勝覚の三尊は厨子に安置されており、五輪塔は室生山に安置されたと見立てられ、塔上には仏眼曼荼羅、後壁左方に阿弥陀如来、右方に弥勒如来が、正面扉は左に多聞天、右に善如龍王が描かれていた。また、不動明王の天井には胎蔵界曼荼羅、愛染明王の頭上には金剛界曼荼羅、左脇扉に弘法大師、右脇扉に尊師像が描かれていたという。この尊像構成をまつる法は空海が真雅に伝え、嫡弟に代々相承されて勝賢に至ったと見えるが、これは多分に起源説話のきらいがあり、勝覚や勝賢の活躍した平安時代後期の醍醐寺において成立したと考えるのが穏当であろう。なお、『東長大事』には両明王のはたらきについて、「台蔵行願大悲心不動明王」、「金界勝義深般若心愛染明王」と記され、また図21に不動の頭上に胎蔵界曼荼羅、愛染の頭上に金剛界曼荼羅が描かれていたと見えることから、両明王で金胎両部を表示していることが窺える。これは後に触れる宝珠の理智冥合という性格とも関わってくる。


 如意輪観音はその名の示すとおり、如意宝珠と輪宝の功力をそなえた観音とされ(注14)、『東長大事』に見るように宝珠や舎利をもって如意輪観音の象徴としたため、宝珠(舎利)・不動・愛染という三尊構成が現れたのであろう。先に述べたように、密観宝珠の作例にも不動・愛染を脇侍としたものが見えることから、密観宝珠も如意輪観音を象徴していると推定できる。このことは⑩如意輪観音種子図像(円成寺蔵)のように、宝珠の代わりに如意輪観音の種子を書いた作品が存在することからも察せられよう。では、なぜ如意輪観音を密観宝珠のような特殊な形態の宝珠によって象徴したのであろうか。この問題について、次に如意輪観音の象徴的表現である三昧耶形の検討を通して明らかにしてゆきたい。



 二、如意輪観音の三昧耶形と密観宝珠


 如意輪観音の三昧耶形は「金剛宝蓮」と称するが、その形状について定説はない。密観宝珠の成立との関連が想定される、主に平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した真言僧の著作類に限っても、少なくとも塔、宝珠、輪宝の三種が説かれている。その中で密観宝珠と直接関連があると考えられるものは、宝珠を用いた三昧耶形であろう。この宝珠を用いた三昧耶形にも諸説があり、管見の範囲でも次の六種をあげることができる(各説を提唱した主な僧侶と出典をあげる)。

A 蓮華上に宝珠を置く形

・範俊(一〇二八~一一一二) 『覚禅鈔』巻四十八
・興然(一一二〇~一二〇三) 『四巻』巻三
・守覚(一一五〇~一二〇二) 『秘鈔』巻八

B 三弁宝珠

・聖賢(一〇八三~一一四七) 『覚禅鈔』巻四十九

C 塔中に宝珠を置く形

・宗意(一〇七八~一一四八) 『覚禅鈔』巻四十八

D 千幅輪上に宝珠を置く形

・興然 『四巻』巻二、三

E 塔中に三弁宝珠を置く形

・成賢(一一六二~一二三一) 『遍口鈔』巻一

F 蓮華・宝幢・蓮華・輪宝・宝珠の順で積み上げた形

・守覚 『秘鈔』巻八
・頼瑜(一二二六~一三〇四) 『十八道口決』
・教舜(一二六四ころ) 『秘鈔口決』巻十五
・亮禅(一二五八~一三四一) 『白宝口抄』巻六十三

 このうち密観宝珠と比較的形状が近似するものに、Fの蓮華・宝幢・蓮華・輪宝・宝珠の順で積み上げた形の三昧耶形をあげることができる。金剛杵茎ではないが、宝幢(はたぼこ)の上に宝珠を高く掲げる点、そして輪宝が用いられている点が密観宝珠に共通する〔図22〕。この三昧耶形について説かれたもっとも初期の著述に、守覚が醍醐寺の秘決について撰じた『秘鈔』(大正蔵巻七十八)がある。同書巻八の「如意輪法」には次のように見える。

三摩耶形 金剛寳蓮

 口傳曰。青蓮花上寳幢。寳幢上赤蓮花。赤蓮花上八幅輪。
 輪上如意寳珠。
 以之為三形。
 秘密也。

  三昧耶形事

  金云。師主深秘云。紅蓮花上。置眞多摩尼軌〈云々〉。
  月上八葉蓮華上有如意寳珠。如紅頗梨色。赫赫光明。
  至無量世界。於光明中。想自身本尊像〈云々〉。

ここでは、如意輪観音の三昧耶形として紅蓮華上に宝珠を置く形のほかに、醍醐寺の秘密の口伝にあったという、青蓮華上に宝幢を立て、その上に紅蓮華・八幅輪(輪宝)・宝珠の順で重ねた形の三昧耶形が紹介されている。この三昧耶形は宝珠のはたらきを象徴的に表わしたもので、例えば鎌倉中期の醍醐寺の学匠教舜は『秘鈔口決』巻十五「如意輪法」(『真言宗全書』巻二十八)の中で次のように述べている。

 三形事

問。今青蓮華上寳幢〈乃至〉輪上三弁如意寳珠。以之為秘密三形。其意如何。答。(中略)凡蓮華理也。依理生寳。寳則過恒沙功徳法寳也。從寳生諸佛。生諸佛者依智轉法輪故也。蓮華上安輪。輪上安寳。以此法輪置幢上。是理智冥合萬寳出生表示也。(後略)

ここでは、蓮華が胎蔵界の理平等にあたり、蓮華から宝(宝珠)が生まれるとされ、さらに金剛界の智差別によって法輪が転じられることで、宝から諸仏が生ずるといい、宝幢上に蓮華・輪宝・宝珠をいただく三昧耶形は、理智冥合(金胎両部不二)して万宝を出生する表示であると説かれている。宝珠は、例えば『東長大事』に「今両部冥会シテ定恵和合ノ体ハ即宝珠ナリ」あるいは「是理智不二浄菩提心ノ宝珠也」と見えるように理智冥合の表示とされるが、右はその性格が三昧耶形によって象徴的に表現されていると説かれる点が注目される。同様の解釈は他書にも散見するが、鎌倉後期に活躍した東寺の亮禅の場合、如意輪観音の三昧耶形における宝幢は理智冥合によって金剛杵茎に変わり得ると説く点が注目される。亮禅の教えを撰述した『白宝口抄』巻六十四(大正図像巻六)「如意輪法」の「根本印事」には、次のように記されている。

(前略)又云。地水立合其形如幢者。從衆生本有★字本不生之心地出★字智水。和融染淨二法為不二寳幢。中指蓮華即表★★心。彼★★者衆生本有姿名八分肉團。形如合蓮花。今擧其一葉表彼八葉。此即如本佛彌陀根本印也。中指者火輪也。火輪即心也。故以火指表蓮形。於彼幢上有八葉紅蓮花。是理智幢故實金剛杵也。二風寳形表金剛寳義。風輪堅固故顯金剛寳義。彼寳形中二空並立。寳珠萬徳中表禪智二義。

これは如意輪観音の三昧耶形を印相で表わしたもので、小指と薬指で宝幢、中指で蓮華、人さし指で宝珠、親指で宝珠の徳を表現しているという。その中で宝幢は理智冥合の故に実体は金剛杵であると説かれている。すなわち、金剛杵茎が蓮華を支え、その上に宝珠をのせる密観宝珠の構成が現れることになる。

 では、なぜ宝幢の代わりに金剛杵を用いた如意輪観音の三昧耶形が理智冥合の表示となるのであろうか。その問題を考える際、同じく金剛杵茎を用いる阿弥陀如来の三昧耶形が理智冥合の表示と説かれていることが参考となろう。たとえば、『師口』巻一(大正蔵巻七十八)には、栄然が建久四年(一一九三)阿弥陀法の印相について述べた中で、「金剛杵は金剛界なり。中指が蓮華なるは胎蔵界なり。杵は智杵なり。蓮花は蓮華部なり。両部不二の印なり。」(原漢文)と説いたことが見える(注15)。また、『秘鈔問答』巻一(大正蔵巻七十九)には、頼瑜が阿弥陀如来の三昧耶形について「八葉紅蓮は我性心蓮という。すなわち胎蔵なり。横の五鈷は本有の五智にして、すなわち金界なり。茎の独古あるいは五古は阿弥陀の妙観察智なり。両部中に不二一心義を表す。」(原漢文)と述べたことが記されている(注16)。すなわち、阿弥陀如来の三昧耶形において金剛杵は金剛界、蓮華は胎蔵界を象徴しており、両者が組み合わさった三昧耶形は両部不二の表示と考えられていた。したがって、宝幢の上に蓮華座・輪宝・宝珠がのる如意輪観音の三昧耶形の場合も、宝幢が金剛杵茎に変わることによって、金剛杵と蓮華の組み合わせが生む理智冥合を表わさんとしたものと推定できる。

 実際に、醍醐寺の秘伝を撰述した書物には、宝幢を金剛杵茎で表わした如意輪観音の三昧耶形が説かれている例がある。まず、京都・智積院所蔵『秘鈔』巻八の「如意輪法」裏書には、「如意輪三形」として独鈷杵茎に蓮華をのせ、さらに火焔三弁宝珠をのせた三昧耶形の図が掲げられている〔図23〕。奥書によれば、智積院本は貞応元年(一二二二)に僧道教が醍醐寺遍智院で伝授し、翌年校合した本を底本としており、おそらく江戸時代に書写されたものであろう(注17)。また、小野流における如意輪法の秘伝について記した『如意輪最極秘密小野』(和歌山・円通律寺所蔵、高野山大学図書館寄託)には七種の如意輪法が説かれているが、そのうちの「五重」には宝幢上に宝珠をのせた形式の三昧耶形が説かれており、その挿図には蓮華座に三鈷杵茎を立て、さらに蓮華座・輪宝・三弁宝珠をのせた図が掲げられている(注18)〔図24〕。同書は奥書によれば寛政九年(一七九七)に書写されたが、底本の高雄の普賢院本は虫害の著しい古書であったことが記されるだけで成立時期は未詳である(注19)。智積院本『秘鈔』と『如意輪〈最極秘密小野〉』は、密観宝珠が如意輪観音の三昧耶形であることを積極的に示す資料として注目される。

 ここで密観宝珠の作例に戻り、如意輪観音の三昧耶形との関連について確認しておきたい。先述のように、密観宝珠の基本構成は下より蓮華座・金剛杵茎・蓮華座・宝珠の順であるが、これに加えて輪宝を用いる作例もしばしば見ることができる。一方、如意輪観音の三昧耶形は蓮華座・宝幢(金剛杵茎)・蓮華座・輪宝・宝珠の順で積み重ねるものである。両者の間では輪宝の位置に異同が認められるが、構成要素はまったく等しく、特に密教法具の中で金剛杵と輪宝が選ばれていることは両者の緊密な関係を示している。

 以上より、密観宝珠は蓮華座に宝幢を立て、その上に蓮華座・輪宝・宝珠を重ねるという、醍醐寺で行われた秘伝の如意輪観音の三昧耶形が変化して成立したものであることが窺えた。したがって、密観宝珠は如意輪観音の象徴としての意味を有することになる。一般に宝珠を本尊として行う法要を如意宝珠法あるいは単に宝珠法というが、これには如法愛染王法、如法尊勝法、如意輪宝珠法など特定の尊像を立てる場合もあった。密観宝珠は通常の宝珠法ではなく、如意輪観音を本尊として行われる如意輪宝珠法で用いられたものと推定できる。ただし、密観宝珠以外の宝珠や舎利でも、不動明王と愛染明王を脇侍としているものは同様に如意輪宝珠法に用いられたと考えるべきであろう。如意輪観音の三昧耶形には密観宝珠の原形であったと推定した宝幢上に蓮華座・輪宝・宝珠をのせる形式のほかに、単体の宝珠、三弁宝珠、塔内に納められた宝珠、塔、輪宝など数種があり、このような三昧耶形を用いた本尊を立て如意輪宝珠法を修する場合も当然あったであろう。すなわち、密観宝珠は必ずしも特殊な用途を持つものではなく、不動・愛染を脇侍とする一群の宝珠作品の中に含めて考える必要があろう。翻って言えば、如意輪・不動・愛染の三尊をまつる如意輪宝珠法があり、これに用いられた様々な宝珠の中に密観宝珠も含まれるものと仮定することができる。

 次章では、如意輪・不動・愛染を本尊とした如意輪宝珠法について検討し、その法要と密観宝珠との関連に及ぶこととしよう。




 三、西大寺の如意宝輪華法と密観宝珠


  1、如意宝輪華法について


 まず、宝珠(あるいは如意輪)・不動・愛染の三尊形式の作品、および密観宝珠の作例が集中して見られる時代と宗派についてまとめておきたい。先述のように、今日確認できる宝珠(如意輪)・不動・愛染の三尊形式は鎌倉時代末から室町時代にかけて散見され、また密観宝珠の作例も鎌倉時代後期の一二九〇年前後から室町時代にかけて見ることができる。また、宗派に関しては、双方とも西大寺派の真言律宗寺院に作例が多く残る傾向を指摘できる。すなわち、密観宝珠に限ってみれば、西大寺に③重文・金銅火焔宝珠形舎利容器と⑭龍王曼荼羅図が所蔵され、西大寺の末寺では般若寺に⑤重文・密観宝珠嵌装舎利厨子、浄土寺に④重文・金銅火焔宝珠形舎利容器、⑬五宝珠図が所蔵されている。また、金剛杵茎上に坐す如意輪観音の図像は、西大寺の五輪塔嵌装舎利厨子、浄土寺本堂の来迎壁の裏面画および版木を挙げることができるが、これは密観宝珠の宝珠を如意輪観音に置き換えたというべき作品である。密観宝珠は僅か十例あまりの現存作例を数えるに過ぎないが、そのうち半数近くが西大寺派の寺院に伝来したことは注目に値しよう。一方、如意輪・不動・愛染の三尊形式は、法華寺伝来と伝える厨子入大日金輪像(根津美術館蔵)のほか、浄土寺に本堂来迎壁裏面画と⑬五宝珠図・不動明王二童子図・愛染明王図、西大寺には五輪塔嵌装舎利厨子が所蔵される。

 以上より、宝珠(如意輪)・不動・愛染の三尊形式をみせる作品および密観宝珠の作品は、鎌倉時代後半から室町時代にかけての西大寺派寺院の活動との関連が注目される。鎌倉時代後期の西大寺派寺院の活動といえば興正菩薩叡尊によって鼓吹された舎利信仰が思い起されるが、この時期、西大寺において年始の重要な法会のひとつとして如意輪宝珠法が厳修されていたことはあまり注目されていない。『興正菩薩行実年譜』(以下『行実年譜』と略す)によれば、叡尊は正元元年(一二五九)に如意輪法に関する著述をしばしば行っている。すなわち、

正元元年己未改元三月廿六日
菩薩五十九歳。(中略)四月十日。為度加行人。如意輪念誦次第製作之。秋八月。依検校印空清公之請。転読大蔵経于清水八幡宮。冬十月。製如意輪不動愛染三顆宝輪華秘法一巻。十二月。年始後七日所修之如意輪法一帖重記之。 と見え、四月十日に『如意輪念誦次第』を、ついで十月には『如意輪不動愛染三顆宝輪華秘法』一巻を撰述している。さらに十二月に『如意輪法』一帖を著わしているが、本書は年始後七日に修する如意輪法のために撰述されたものであった。そして、翌文応元年(一二六〇)より正月の後七日にあたる一月八日からの一週間、西大寺において如意宝輪華法という法要が行われるようになった。『行実年譜』はその模様を次のように伝えている。 (前略)菩薩六十歳。從正月八日。点定七箇日。修如意宝輪華法。合山衆僧。七昼夜不断。念誦随心如意宝珠根本陀羅尼。以祝国家安全。兼祈寺門粛清。自此厥後。毎歳修之。俗曰之西大寺後七日長陀羅尼会。(後略)

これにより、如意宝輪華法が一山の僧侶をあげて行われ、七昼夜途切れることなく随心如意宝珠根本陀羅尼を念誦して国家安全と寺門の粛清を祈願したこと、そしてこれ以後毎年行われ、「西大寺後七日長陀羅尼会」とも呼ばれたことが窺える。この法要において随心如意宝珠根本陀羅尼を念誦したことは、これが宝珠法の一種であったことを示している。また、『行実年譜』正元元年十二月の項に記されるように如意宝輪華法は『如意輪法』一帖に基づくものであるから、法要の本尊は如意輪観音であったと考えるのが穏当であろう。したがって、如意宝輪華法は如意輪観音に対して宝珠法を修する、如意輪宝珠法の一種であったことが知られる。

 この法要について『行実年譜』には、正応三年(一二九〇)八月二十四日、臨終を前にした叡尊が弟子たちに西大寺の年始七壇修法(宝塔中壇駄都法・五大虚空蔵法・西壇金剛界法・東壇胎蔵界法・護国院増益護摩・西室院金輪仏頂法等)とともに、後七日宝輪華秘法を後々まで継承するように諭したことが記されている(注20)。また、叡尊の晩年の説教を弟子が記録した『興正菩薩御教誡聴聞集』(以下『聴聞集』と略称する)の「持斎祈雨事」には、弘安七年(一二八四)六月二〇日における叡尊の言葉として、叡尊が西大寺に移住してより三十ケ日最勝王経法や三時行法などとともに、正月後七日陀羅尼を国家泰平と利益衆生のために修してきたことが記されている(注21)。叡尊在世中において如意宝輪華法は西大寺の主要な法要のひとつとして行われたことが窺える。

 では、如意宝輪華法はどのような内容であったのであろうか。同法は正元元年十二月に著わされた『如意輪法』に依るものであったが、如意宝輪華法という名称より察して、その二ヶ月前に著わされた『如意輪不動愛染三顆宝輪華秘法』とも関連があるものと考えられる。『行実年譜』正元元年十二月の項には「如意輪法一帖を重記す」と見えるように、おそらく『如意輪法』は『如意輪不動愛染三顆宝輪華秘法』の改訂版というべき内容であったのであろう。『如意輪不動愛染三顆宝輪華秘法』は書名より推察して如意輪・不動・愛染の三尊を本尊に立て、三顆すなわち三弁の宝珠をまつる秘法を説いた内容であったと考えることができる。同書は現存していないが、弘安三年(一二八〇)に叡尊が記したと伝えられる西大寺流の諸尊法に『宝輪華秘決』(『細羅』所収、延慶三年〔一三一〇〕定泉書写本奥書、江戸時代書写、和歌山・金剛三昧院所蔵、高野山大学図書館寄託)という書物がある。書名より如意宝輪華法の秘訣であることが窺えるが、同書の道場観には次のように記されている。

 次道場観

結如来拳印当心上。観想壇上有★字成八葉白蓮花。其上有★字成大摩尼殿。其中有曼荼羅。壇上有★字成八葉蓮花。上有★★★★★五字。各放大光明変成五輪法界宝塔。〃〃即自然道理全身。此宝塔中有★字成青蓮花宝幢。花実上有★★★三字。★字変成紅蓮花。紅蓮花上有★字。変成八幅金輪。〃上有★字。変成三弁宝珠。即自然道理如来駄都真実如意宝珠。放無量光遍照法界。香風匂天密雲覆空。生長四州万物利益一切衆生。水府陸地誰不蒙利益。此宝珠転成如意輪六辟身。金色頂髻宝荘厳冠。坐自在王住説法相。身流出千光明。頂背円光。右台一手思惟。愍念有情相。第二持如意宝。満一切願第三持念珠。度傍生苦。左第一手按光明山。成就無傾動。第二手持蓮花。浄諸非法。第三持輪。転無上法。六辟広博体能遊六道。以大悲方便断諸有情苦。本尊左辺有★字変成蓮花台。〃上有★字変成日輪。〃上有★字成赤蓮花座。〃上有★字変成五古金剛杵在口。杵変成愛染金剛。身色如日暉住於熾盛輪。三目威怒視首髻師子冠。利毛忿怒形。又安五古釣在師子頂。色五花鬘垂天帯覆耳。左手持金鈴。右執五峯杵。儀形如薩★(タ)〈土ヘン+垂〉安立衆生界。次左金剛弓。右執金剛箭。如衆生光能成大染法。左下手持彼。右蓮如打勢。一切悪心衆速滅無有疑。以諸花鬘索絞結以厳身。作結跏趺坐。住於赤色蓮。〃下有宝瓶。両畔吐宝。欲・触・愛・慢等眷属囲遶。尊右変有★字。変瑟〃座。〃上有★★二字。変成智釼龍索倶利伽羅也。転成如意宝珠。即成不動尊。身色青黒。右手執利釼殺害煩悩魔怨。左手持龍索構縛魔怨引接菩提。住火生三昧。以菩提恵火焼尽外道邪智。二童子侍立左右。表順逆二道。八大観音等無量聖衆各入宝部三摩地。前後左右囲遶七処加持如常。


 

要約すれば次のようになろう。壇に白蓮華があり、その上に摩尼宝珠殿がある様を観想する。殿内に蓮華にのった五輪塔があり、その塔内に蓮華宝幢がある。花の上にはキリク・タラク・タラクの三字があり、この三字は変じて紅蓮華、輪宝、三弁宝珠となる。この宝珠が転じて六臂如意輪観音となる。その左辺には蓮華座にのった日輪があり、日輪上に赤蓮華にのる五鈷杵があるが、この五鈷杵が変じて愛染明王となる。また、右辺には瑟々座があり、その上の智剣龍索はいったん宝珠に転じてから不動明王になる。

 以上より、如意宝輪華法は如意輪観音を本尊とし、脇侍に不動明王と愛染明王をまつるものであったことが窺えた。したがって二八頁の表に挙げた作品をはじめ、本論でこれまで取り上げてきた宝珠(如意輪)・不動・愛染の三尊形式の作品には、西大寺の如意宝輪華法の影響を受けて制作されたものが数多く含まれているものと推測することができよう。ただし、遺品には如意宝輪華法のような寺院の主要な法会で用いられたとは考えがたい小品が多く、むしろこれらは如意宝輪華法が個人的なレベルにまで浸透したことを示す遺品と考えるべきであろう。



  2、如意宝輪華法と密観宝珠


 先述のように密観宝珠は不動・愛染を脇侍とする一連の宝珠作品の中に含まれることから、密観宝珠も如意宝輪華法と関連があるものと想定される。そこで、最後に密観宝珠が如意宝輪華法で用いられたことを示す資料を紹介し、同法と密観宝珠との関連性について検討することにしたい。

 叡尊は修行時代を醍醐寺で過ごしているが、その折学んだ如意輪法について『聴聞集』の「心大可発事」の中で次のように述べている。

 心大可発事

十八道如意輪次第行候ホドニ、猶私ナル様覚テ、密ナラバ大日、顕ナラバ釈迦ト存ジテ、如意輪処大日ト云押紙ヲシテ行イテ候シホドニ、後アマリノ事ナリケリ。醍醐流殊無量寿儀軌如意輪本尊以モテナシマイラセ、又聖徳太子御恩徳難報存、其後人此宗授候。

これは、醍醐寺において十八道(密教の入門的な加行)の本尊に如意輪観音を立てることについて語ったものであるが、その中で醍醐流において如意輪観音を本尊とする際には無量寿(阿弥陀)如来の儀軌を用いたと記されていることが注目される。叡尊は八歳で醍醐寺西大道小坂御子の家に養われ、十一歳で醍醐寺叡賢の住房に入って以来、十代と二十代を醍醐寺諸流の研鑚にあてている(『金剛仏子叡尊感身学正記』)。叡尊が西大寺に移住した後も修行時代に身につけた醍醐流の如意輪観音法を行った可能性は十分にあろう。西大寺の如意宝輪華法が如意輪・不動・愛染の三尊を本尊としたことも、醍醐寺の三仏如意輪法の影響と考えることができる。

 右には具体的に無量寿如来の儀軌のどのような点を如意輪観音に応用したかは明記されていないが、西大寺派の寺院に伝わる如意輪観音像には無量寿如来の図像を参考にしたとしか考え難い作品がある。すなわち、浄土寺本堂の来迎壁裏面の如意輪観音像〔口絵〕、同寺の版木如意輪観音像〔図20〕、西大寺の五輪塔嵌装舎利厨子〔図18〕の三点である。浄土寺の二作品では、如意輪観音像の本体は通常の六臂如意輪観音像であるが、横に置かれた五鈷杵に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華座を据えた形式の台座に坐る点が通形像と異なる。管見の及ぶところでは如意輪観音の台座に金剛杵茎を用いるように説いた儀軌は見ることができないが、本稿の冒頭で触れたように『無量寿如来供養作法次第』には、無量寿如来の台座は五鈷杵を横たえた上に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華座を据えるように説かれている。そのような儀軌に基づく紅玻璃阿弥陀如来像〔図25〕と浄土寺の二作品を比較すると、両者の類似は容易に窺えよう。したがって、これを無量寿如来の儀軌を如意輪観音に応用した例とみなすことができるであろう。なお、西大寺の五輪塔嵌装舎利厨子の奥壁に描かれた如意輪観音像は、下より反花座・輪宝・独鈷杵茎・蓮華座の順で重ねた形式の台座に坐している。本品の場合、横たえた五鈷杵に代わって輪宝が用いられており、無量寿如来の儀軌をそのまま転用するのではなく、如意輪観音にふさわしい形に変えていることが窺える。

 また、先に密観宝珠は醍醐寺の秘法で用いられた如意輪観音の三昧耶形において、宝幢が金剛杵茎に置き換わることによって成立し、その教義的な背景には金剛杵と蓮華の組み合わせを理智冥合の表示とする無量寿如来の儀軌があることを指摘した。すなわち、密観宝珠の成立には無量寿如来の三昧耶形の影響を考慮する必要があるが、密観宝珠の作例には無量寿如来の三昧耶形を明らかに意識して制作されたことを窺わせるものがある。そのもっとも顕著な例が③西大寺の重文・火焔宝珠形舎利容器〔図4〕と⑬浄土寺の五宝珠図〔図15〕である。西大寺舎利容器は基壇上に五鈷杵を横たえて置き、その上に五鈷杵茎を立て蓮華座にのる宝珠を据えた作品であり、横たえた五鈷杵に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華を据える形式の無量寿如来の三昧耶形〔図1〕ときわめて近い形式をもつ。五鈷杵茎と独鈷杵茎という差こそあれ、無量寿如来の三昧耶形を意識した造形であると言うことができる。浄土寺五宝珠図は横たえた五鈷杵に独鈷杵茎を立て、その上に蓮華座・輪宝・五宝珠の順で重ねたもので、まさに無量寿如来の三昧耶形の上に五顆の宝珠を据えた形式となっている。

 以上より、醍醐流において無量寿如来の儀軌を如意輪観音に応用することによって、金剛杵茎を用いた台座に坐す如意輪観音像や密観宝珠が成立し、それが西大寺派の寺院に継承されたことが窺える。すなわち、叡尊は西大寺に移住した後も、密観宝珠や三仏如意輪法などの醍醐流の如意輪法を行なっていたものと推測することができる。今日、西大寺派の寺院に密観宝珠や如意輪・不動・愛染の三尊形式の作品が多く伝わるのは、醍醐寺では秘法とされた如意輪法が西大寺において年中行事となり、広く知られるようになったからであろう。

 さて、今日の西大寺では如意宝輪華法を行っておらず、それに用いられた本尊に関する資料も管見の限りでは見ることができない。しかし、同法の影響を受けたと推定できる法要が江戸中期の浄土寺において営まれていたことを示す資料がある。すなわち、江戸中期に当寺の住持をつとめた玄妙が宝暦九年(一七六〇)に撰じた『転法輪山二諦叢』(浄土寺所蔵)である。同書の「年中行事」の項には次のように記されている。

 正月

一、御修法 本尊供廿一箇度(毎日三時臘付晦日開白七日日中結願

一、同   息災護摩七箇度(毎日一度初夜修之、但シ開結修之故第四日不修之

一、同   諸神供三箇度(初中後之護摩時修之。自余五箇日之護摩時施餓鬼法修之。

一、道場観 〈本尊厨子前掛五大宝珠〈中央〉不動〈東方〉愛染〈西方〉三幅。同机上祝餅備之。不動愛染前同供之。中壇仏舎利〈中央〉宝輪〈前方〉宝瓶〈後方〉安之。四方隅共六器羯磨四瓶三宝香水常花彩帛飾之。及飲食汁菓子餅灯明之前後供料備之。東脇日梵伊帝火焔魔無畏一行恵果弘法。西脇月地毘風水羅刹龍猛龍智金智不空如次掛之。各机上飲食汁餅菓子及瓶花燈明供之。厨子東脇天照宮絵掛之。同前机上各食汁餅菓子及香燈花供之〈三社三具〉。後門大黒天前供物準余尊。〉

右御修法是奉為 今上皇帝宝祚延長御願円満且為大樹殿下武運永固太守武運長久当寺檀越家運繁栄修之。

これによって、宝暦頃の浄土寺において十二月三十一日の初夜より一月七日の日中にかけて修正会が行われ、その内容は一日三度行われる本尊供、一日一度の息災護摩、法要の初日・中日・最終日の三度行われる諸神供とそれ以外の日に五度営まれる施餓鬼法であったことが窺える。さらに、法要の本尊は本堂本尊の厨子の前に奉懸された五大宝珠・不動・愛染の三幅であり、その前に様々な供物を供え、壇には舎利や密教法具が置かれたこと、両脇に十二天像と真言八祖像が飾られたことなどが知られる。このうち、右の五大宝珠・不動・愛染の三幅に該当すると推定できる作品が、⑬絹本著色五宝珠・不動明王二童子・愛染明王図〔図15〕であり、今日の修正会でもこの三幅が奉懸されている。この作品の制作は室町時代にさかのぼることから、同図を用いた修正会は少なくとも室町時代には行われていた可能性が高い。

 浄土寺の修正会は西大寺の如意宝輪華法と多少期間は異なるものの正月に計七日間にわたって行われる法要であり、如意輪(密観宝珠)・不動・愛染という尊像構成が如意宝輪華法と共通し、しかも浄土寺が叡尊の弟子定證が再建していることを考慮すれば、如意宝輪華法の伝統を受け継いでいるものと考えて大過なかろう(注22)。翻って言えば、浄土寺修正会の本尊が密観宝珠であることは、西大寺の如意宝輪華法も密観宝珠を本尊に立てたことを暗示していると考えることができる。




 おわりに


 以上、密観宝珠の意味と成立の経緯、およびそれを用いた法要を中心に考察を試みてきた。そして、密観宝珠が如意輪観音を象徴しており、醍醐流の秘伝で行われた宝幢上に蓮華・輪宝・宝珠を重ねた形式の如意輪観音の三昧耶形において宝幢を金剛杵茎に変えることによって成立したこと、さらに西大寺の如意宝輪華法など西大寺流の如意輪宝珠法において密観宝珠が用いられたことを論じた。したがって、密観宝珠が『無量寿如来供養作法次第』に依っているとする従来の指摘は、全くの的外れではないものの不十分と言わざるをえず、また、密教の観想に用いたと考えられたために付けられた「密観宝珠」という名称も正鵠を得ているとは言い難い。

 さて、今回の考察を通して、宝珠は単なる舎利容器の一種というだけでなく、それ自体が仏菩薩を象徴するなど、「意味」を有することが窺えた。このような視点で今日に伝わる舎利容器を見なおすと、如法愛染王法あるいは如法尊勝法に関連があると思われる作品なども散見することができる。わが国の舎利容器の形態は、宝塔形、五輪塔形、蓮台形、宝珠形など実に多種多様であるが、そのような形態の多様性は舎利をまつる法要の多様性の反映と解することもできようか。従来行われてきた形態による舎利容器の分類にあわせ、法要による分類を試みることも必要であろう。




 【注】

  1. 『御遺告』東寺座主大阿闍梨耶可護持如意宝珠一縁起第二十四

    夫以如意宝珠是従無始以来非有龍肝鳳脳等。自然道理如来分身者也。或偏鳳肝龍脳〈云云〉。是大虚言也。所以者何。自然道理如来分身。惟真実如意宝珠也。号自然道理如来分身者是任祖師大阿闍梨口決成生玉也。(後略)

  2. 密観宝珠という名称が用いられたもっとも早い例に石田茂作著『日本佛塔』(講談社刊、昭和四十四年)があり、おそらく石田氏によって密観宝珠という名称が創案されたものと推測される。

  3. 密観宝珠の所依経典を『無量寿如来供養作法次第』とする説は、すでに石田茂作著『日本佛塔』(講談社刊、昭和四十四年)の「密観宝珠舎利塔」(東京国立博物館所蔵)解説に見ることができる。以後この説は、岡崎譲治解説「大神宮御正体」(『大和古寺大観』室生寺、岩波書店、昭和五十一年)、河田貞『仏舎利の荘厳』概説(奈良国立博物館編集、同朋社、昭和五十八年)などに継承されている。

  4. 『東長大事』奥書

     東長大事当流最極也。如眼肝可有秘蔵。付法一人外不可有他散。
     般若寺衆首如空上人伝授畢。
    嘉暦二年〈乙卯〉十二月廿一日。〈密々御修法間。〉
    於禁裏仁寿第三対御局当流最極大事。嫡々相承秘奥。為付法一人記之。写瓶外不可開見々々々。若違此言両部諸尊大高祖知見証罰給。
    〈重々秘決別記之。〉
       内供奉十禅師菩薩★(bi)〈草カンムリ+必〉芻殊-
    法務前大僧正法印大和尚位弘真〈在判〉
    康永三年〈甲申〉十月三日書写畢
                 金剛資英心

     (三行ほど空き)

    応安五年二月四日校合之。然而東長大事之三行法務前大僧正之一行者如空上人重僧正伝授給之時書入給也。今之本意又写加之。
                 金剛資仙秀

  5. 『秘蔵金宝鈔』(実運撰、大正蔵巻七十八)に「愚推云。★〈阿〉字変成駄都。駄都成如意宝珠。是私推也。」と見えるほか、『覚禅鈔』巻四十八に引用された「秘蔵記」に「我心観月輪。〃上観阿字。変阿字成如意宝珠。」と見え、阿字、駄都(舎利)、宝珠の三者を等しいものと考える説があったことが窺える。

  6. 関根俊一「南都における中世舎利荘厳具の展開(二)」(『佛教藝術』二〇四号、平成四年、毎日新聞社発行)

  7. この厨子が福田寺の所蔵になったのは近年のことで、それ以前は東京や青森の個人の所有であった。残念ながら、伝来は未詳である。

  8. 「屋蓋部裏面墨書銘」(『奈良六大寺大観』唐招提寺一による)

    此如意輪院〈仁〉御座後〈仁〉□□〈之〉本尊〈タリ〉。
    (後世描起こし)
    「干時寛永廿一」〈申〉十二月当院江入仏(×××××)
    弥勒院本尊 (×      )
     願有之所(此)(時) (×    )
     (××××)
     天和四年〈甲子〉十 (二×      )西堂
           御厨子番匠衆〈大工宗重(次郎五郎宗次)〉
     応永卅〈癸卯〉二月廿七日 造立沙門大法師澄賢〈春秋四十七夏臈三十一〉
        御堂造立番匠 大工周防権守八重 宗重 権大工四郎次郎宗持 次郎太郎定持
                  八郎    権門三郎行定 御房五郎宗重
                  四郎五郎定宗 次郎五郎宗次    已上八人

  9. 如意輪観音の種子はキリーク・タラーク・タラークが一般的であるが、阿字とする例として、亮恵(一〇九八~一一三一以後)が行った如意輪宝珠法(『覚禅鈔』巻四十八)、寛喜元年(一二二九)に成賢が醍醐寺の遍智院で相承された如意輪法(『遍口鈔』巻一)などがある。

  10. 定證が嘉元四年(一三〇六)十月十八日に起請した『備後国尾道浦堂崎浄土寺大乗律院建立事』に、「(嘉元四年十月)六日新造金堂上梁、七日於金堂勤行曼荼羅供、大阿闍梨西大寺長老、八日三嶋舞童試楽、十日金堂供養大法会、導師西大寺長老、三嶋舞童九人供奉大行道、十一日五部大乗経供養、導師同前、依降雨無大行道、」とみえ、この年金堂が落慶されたことがわかる。また、現本堂は棟札銘より嘉暦二年(一三二七)四月十一日に落成したことが窺える。 

  11. 『観心寺参詣諸堂巡礼記』(東京大学史料編纂所蔵)

    (前略)東脇張中大師御作不動尊。此不動尊者甚深習在之輙不可披露〈朱(披露カ))。但御身計後酉酉天皇御代文親上人○(有)御沙汰被奉渡内裏。□□(朱(建武カ))擾乱之時御没落于山門。二条内裏焼失之時成灰燼也。其後後酉酉天皇行幸ノ吉野後被叡恩召被召留本様画葉、被造立之者也。御光御座等根本御作也。御身計新造也。白檀作也。不為綵色也。御光御座等者□□(朱(皆綵カ))色也。(下略)

  12. 『観心寺参詣諸堂巡礼記』

    (前略)次西戸帳内大師御作法性塔〈云〃〉。此法性塔事金剛王院最深秘習也。号之瑜祗塔。於此法性塔金剛王院流有大塔小塔図。大塔図者三(西門)宝院□有之。彼塔相承者実継以下相承也。小塔図源(源運)運□都(朱(僧都))等相伝奉存之。於大塔図者大師御筆之条無疑。於小塔図者聊不審之処、詣(朱(詣))当寺拝見彼塔有本拠之也之由。散不審畢。引導(朱(引導))寺僧申云、西戸帳内法性塔〈云〃〉。(中略)最下有亀。其上有蓮華台。其上有多宝塔。四方縄等無之。□(朱(経))年序之間破損故也。源運(源運)相承小塔図大都分無相違也。地盤四方高欄登階等有之。花葉等破損零落之間、□(朱(雖))不知本図。大都分符合□□(朱(彼小))塔図之間散(朱(散))疑畢。(下略)

  13. 真鍋俊照「虚空蔵求聞持法画像と儀軌の東国進出(下)」(『金沢文庫研究』二九五号、神奈川県立金沢文庫発行、平成七年)

  14. 『覚禅鈔』巻四十八

    抄云。今菩薩正観世音。為成衆生二世悉地。名詮自性。号観自在如意輪。如意者即宝也。雨世間七宝及宝相宝。一切珍宝在如意輪中。○輪者羯磨事業。即教令輪転法輪。仏菩薩皆具此万徳。能衆生滅重惑業障。無有欠減。故名如意輪。

  15. 『師口』巻一「阿弥陀法」

    三昧耶形 開敷蓮花〈以独古為茎〉

     (中略)

    三形 金剛蓮花〈金剛蓮花ト云ハ。横五古上ニ一古ヲ立テ其頂開敷蓮花ヲ置也。〉
    印 金剛蓮花印〈外五古印也。但中指蓮葉形ニ作也。〉
     口伝云。結前三昧耶会無量寿印。同誦羯磨会言。次件印中指アラタメスシテ二頭指開立二大指二小指竪合成五古印也。用十甘露真言〈阿弥陀大呪也〉此五古印両部大日習也。金剛杵金剛界也。中指蓮華胎蔵也。杵智杵也。蓮花蓮花部也。両部不二印也。〈最密最密〉

      已上阿弥陀法

     建久四年二月二十七日奉伝 栄然

  16. 『秘鈔問答』巻一

     阿弥陀

     (中略)

    問。蓮茎五古独古異如何。答。御口決云。独古為茎是表此尊妙観一智也。又五古為茎。各具五智故表此尊有一門五智也。訃謂法利因語如次大円平等妙観成事弥陀法界智也。凡於諸尊或以種子為秘事。或以三形為秘事。或尊形為秘事一之中。今尊以三形為秘事。是当流之習也。謂八葉紅蓮我性心蓮。即胎蔵也。横五古是本有五智。即金界也。茎独古〈或五古〉阿弥陀妙観察智也。在両部中表不二一心義。故此三形為甚深秘伝也。

  17. 智積院本『秘鈔』奥書(同院蔵書分類17―3)

     押帋云
      写本云
       貞応元年九月一日於遍智院奉伝受畢
       同二年六月七日以御本校合之
                   仏子道教〈生年廿四歳〉

  18. 『如意輪〈最極秘密小野〉』

     如意輪法

     (中略)

      第三重
     種★ 三 〈三古上宝珠〉
     印言 〈三種如常〉
      有口伝以一印可読三種真言也。其印金一印也。内縛二風宝形也。二大同也云〃。

     (中略)

      第五重
     ★    
      口伝云。一之★是如意珠。一之★是輪也。★者是仏界大慈大悲施无畏之徳也。即蓮花也。

     三 金剛宝蓮        〔挿図〕(図24参照)

      口―云。持宝金剛次第云。★字反成八葉蓮花。左右有★字。成宝流散千光明〈文云〃。〉宝珠者在幢上施利益。仁王経云。置高幢上〈文〉。宝篋経云。如幢上如意宝珠〈文〉。
           大慈悲之青蓮花          如来
        〈表金界〉 其上在赤蓮花 〈表台界〉

          (下略)

  19. 『如意輪〈最極秘密小野〉』奥書

    此書本紙大キ虫喰一向別兼〃〃暗惟旁有□等。匁(扨カ)〃□□□日頃善本に□之。唯一紙成共有毎度如此写置。本紙ハ高雄普賢院也。以上

                              禅〈五十八才〉

    寛政九〈巳〉九月五日

  20. 『行実年譜』正応三年八月二十四日の項

    廿四日。浄髪澡身。着浄衣。次早六念等法不異平時(日)。斎罷跏趺入観。時有紫雲。現于寺上。道俗見者慌忙奔至。聞菩薩将示寂。始駭然称異。合掌加額。唱南無思円仏。未刻召傲甞囑寺事之大弟子信空。源秀。幸尊。性瑜。阿一。總持等諸公。重慇囑累。更亦告曰。

    当寺年始七壇修法〈宝塔中壇駄都法。并五大虚空藏法。西壇金剛界。東壇胎藏界。護国院増益護摩。西室院金輪仏頂法等是也。〉 并後七日宝輪華秘法。及涅槃仏生最勝光明仏名祖忌等諸法会。仮使更於数世。預我法裔者不可カ敢忽。(下略)

  21. 『興正菩薩御教誡聴聞集』「持斎祈雨事」

      (前略)□(凡)某住当寺已来、三十ケ日最勝王経、正月後七日陀羅尼、三時行法等、偏皆為国土泰平利益衆生也。自本生浄土不楽、生都率不楽、只以衆生安楽為本意、都無私。諸僧亦爾。(下略)

  22. 今日、浄土寺で営まれる修正会は『転法輪山二諦叢』に見るような内容とは異なっている。まず日数は一月一日から三日の三日間となり、修法は参詣者の依頼に応じて行われる祈祷・護摩等に変貌している。ただし、本尊は厨子の前に懸けられた五宝珠・不動明王・愛染明王の三幅である点は伝統を踏襲しており注目される。なお、十二天像と真言八祖像の奉懸は行われていない。


 【付記】

 

本稿をなすにあたり、円成寺、海龍王寺、興福寺、高野山大学図書館、高野山霊宝館、金剛山寺、西大寺、慈眼寺、浄土寺、智積院、東京国立博物館、唐招提寺、根津美術館、般若寺、福田寺、真鍋俊照氏、室生寺をはじめ、多くの方々よりご高配をたまわった。なお、筆者は「密観宝珠について」の研究で、メトロポリタン東洋美術研究センターより研究助成を受けている。本稿はその成果である。

 

<<戻る

次ぎ>>

<<目次

▲ページトップへ