『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要

『鹿園雜集』創刊号
奈良国立博物館研究紀要
平成11年3月31日発行


奈良国立博物館蔵 十一面観音檀像について

井上 一稔



 はじめに


 当館では、平成九年度の特別展として『奈良国立博物館の名宝-一世紀の軌跡-』(平成九年四月二十六日~六月一日)を開催した。その際、檀像の十一面観音立像について、改めて考え直す機会を得ることができた。それは主として現存の檀像作例と経典の関係を調べながら、本像を位置づけていくというものであったが、そのような作業と前後しながら製作時期に関しても検討していくうちに、従来平安時代初期とされてきたのであるが、近年の研究成果(注1)も踏まえて考え直すと奈良時代に遡らせて良いのではないかと思うようになった。またこれらの考察を通じて、奈良時代彫刻を構成する中心テーマである唐彫刻との関係を窺うことに及ぶことにもなった。以下にこの像をめぐっていくつかの視点から、考察した結果を述べさせて頂きたい。

 最初に、本像の研究史を整理しておこう。

 伝来については、昭和十一年に横浜市中区本牧町、原壽枝の名のもとに旧国宝に指定されているが、それ以前の伝来を欠く。本像を世に広く紹介したのは、昭和四十六年に開かれた東京国立博物館の特別展『平安時代の彫刻』で、当館の館長も務められた故倉田文作氏はこの展覧会の関係記事(注2)において、本像を平安時代九世紀とするも、晩唐の作の可能性に言及している。後に氏は奈良国立博物館の『観音菩薩』展では、裳には貞観彫刻らしい翻波の衣文が刻まれているとし、本像は中国檀像の影響で作られ、さらに和風化されて法華寺、法性寺、道明寺の十一面を産むとし(注3)、晩唐の作にはそれ以上触れられていない。

 この倉田氏の考えが本像に関する代表的な見解で現在に至っていると言えるが(注4)、その後、田辺三郎助氏によって改めて本格的に論じられることになる(注5)。田辺氏の考えは次のようである。像高の四二・八cm、約四〇cmは唐大尺(一尺=二九・六cm)で約一尺三寸五分となり、本面を合わせて十一面を数え、左で宝瓶を持ち、右手は掌を前にして垂らす施無畏印とみなしうる姿で、これらは十一面経典に概ね一致する。そして松田誠一郎氏の指摘(注6)を引きながら、牙上出面が温顔になるのは、十一面経典の中でも初期の経典に準拠していることを示す。他の檀像と比較して、東京国立博物館十一面観音像や法隆寺九面観音像に見られる左右相称性はなく、胸飾や瓔珞の制も時代的な下降を物語り、神福寺十一面観音像やベルリン美術館十一面観音像に比べても時間的、空間的に隔たる(以下、上記諸像は東博像、法隆寺像、神福寺像、ベルリン美像と省略する)。そして本像の時代や制作地は、頭体のプロポーションも、柔軟な身のこなしや衣褶の扱いも、いわゆる天平彫刻の写実を経た感があるが、表情の明快な強い表現、後頭部の地髪下端にふくらみを持たせた表現などは、唐彫刻には比較的見ることの少ないものであり、それが宝菩提院の菩薩半跏像にみられ、わが国の九世紀の遺品に顕著であるとし、よって九世紀前半のわが国での作とされたのである(注7)

 以上田辺氏の説は要を尽くしており、制作期はともかく、特に他の檀像との比較は全く同感であるが、氏の論との重複をお許し頂きながら、改めてこの像の細部に渡って検討を加えてみよう(注8)




 一 経軌と表現のあいだ


 十一面観音像の姿は、この観音の経軌によって作られていることは申すまでもなく、

①耶舎崛多訳『十一面観世音神呪経』 五七〇年頃
②阿地瞿多訳『十一面観世音神呪経』(『陀羅尼集経』巻四所収) 六五四年頃
③玄奘訳  『十一面神呪心経』 六五六年頃
④不空訳  『十一面観自在菩薩心蜜言念誦儀軌経』 七四六-七七〇年

の四訳があることもよく知られている(注9)(以下番号で各々の経典を指す。また④は十一面、四臂像を説くからここでは適宜参照する)。


 頭上面のうち右面(挿図5

 本像と経典の関わりについては、既に述べたように田辺氏から右の牙上出面が温顔であることは初期経典によっていることが指摘されている。つまり①・②の経典には「右三面似菩薩面狗牙上出」とあり、③には「白牙上出相」とある違いに注目して、本像の右面は菩薩相で牙を出していることを指摘されたわけである。松田氏の研究によると、法隆寺、東京国立博物館、神福寺の各像は菩薩面で牙を出し、道明寺十一面観音像(挿図7)で忿怒相にして牙を出すようになるという(注10)

 -道明寺には二体の十一面観音像がある。上記の像は試みの作とされる像で、以下単に道明寺像と記す。またもう一体は本尊像で、こちらは道明寺本尊像と記し区別する。-

 また奈良時代の作例で檀像系統以外の像では、菩薩相で牙を出すものとして、葛井寺千手観音像、美江寺十一面観音像、多田寺十一面観音像などがあり、聖林寺十一面観音像や観音寺十一面観音像では表情に忿怒の兆しが見え始め、金剛山寺十一面観音像では道明寺像に近い表現をなしている。



 頭上面のうち後面(挿図6

 右面の他に経典との関わりで留意しておきたいことは、①・②には後ろの一面について「大笑面」とあるのに対して③には「暴悪大笑相」とあることである。実作例について見ると、法隆寺、神福寺像(挿図8)では目を細めた菩薩相で大笑いをしているのに対して(注11)、残念ながら道明寺像は欠失するが、法華寺(挿図9)や海住山寺像では怒りのある相に笑いを作っている。まさに「暴悪」なる語を表現したものとできるわけである。本像についてはやはり先のグループに入り、この点よりも①、②の経典に基づいた像であることが判明する。

 また奈良時代の作例では、先に挙げた葛井寺千手観音像、美江寺十一面観音像、多田寺十一面観音像が本像と同様な表現をとる。


 頂上面(挿図410

 以上は経文と表現が明らかに対応する箇所であったが、次ぎに頂上面に関して考察すると、先ほどのようには明確に経軌間の区別は付けられない。しかし、①②訳では「仏面」となり③訳で「仏面像」となっていて、何らか意識に違いがあったように思える。この違いを実例を踏まえて解釈すると、仏面は頭部のみの表現で、仏面像は頭部を含む上半身を表す表現と区別できるかも知れない。しかし、③系の道明寺像でも頭部のみの表現であるから、この考えを全ての像に適応するわけにはいかないのだが、例えば薬師寺十一面観音像、道明寺本尊十一面観音像(挿図12)、法華寺十一面観音像などの頂上仏面は上半身を表しており、「仏面像」を上記のように解釈することもあったのではないかと推測される(注12)

 ともあれ経文からは離れても、上記のような表現の異なりがあったことに注意して本像の頂上面を見ておこう。本像の頂上面は頭部のみを表していて、法隆寺、東博、神福寺像と同系である。しかし頭上面は髻とは別にその前の地髮部に置かれ、頂上面の首の周辺には楕円形に髪が表されず、あたかも衣の襟のようになっている(挿図10)。神福寺像(挿図11)は頂上面を髻上に置き(欠失)本像とは異なるが、髻の上はやはり髪を襟の様に分けて仏面を置いていたことが分かる。次ぎに道明寺本尊像をみると、髻の前に頂上面を置くことは本像と共通するものの、明瞭に仏身を表している。そして法華寺像では髻自体が納衣を表した仏身となり別に髻は表されないようである。

 本像を含む上記の四像の頂上面の表現の仕方を関連づけて解釈してみると、神福寺像に見るように古くより頂上面はその下にある身までも意識されていた様だが、この点で本像の頂上面は髻上でなく地髪の上に置く点でさらに身が意識されるようになっており、道明寺本尊像及び法華寺像ではこの意識がより明瞭となったといえよう。本像は頂上面の仏身の意識の程度から言えば、仏身が明瞭に表される過渡期にあり、道明寺本尊像および法華寺像以前にあるといえるのである(注13)



 面数

 ここで頭上面に関係してその数について述べておこう。経典では十一面を作ると規定するものの、四訳とも経文からは本面をいれて十一面とする解釈と本面を入れて十二面とする解釈が成り立つ(注14)。法隆寺像は九面と異例であるが、神福寺、東博像は後補や欠失があって当初の状態は必ずしも明かでないものの、ともに本面を入れて十一面タイプと思われ(注15)、聖林寺・道明寺・薬師寺・金剛山寺像は十二面タイプである。本像は先のタイプに入り、ここに頭上面の状態については、その数も右面相や後面相においても神福寺・東博像と共通し、面数を除けば法隆寺像とも共通することが判明する。十一面観音像の中では古様な姿に属するわけである。



 持物(挿図1

 次ぎに持物について見ておこう。①、②、③訳とも左手は蓮華付の澡瓶あるいは紅蓮華軍持とあり大差はない。本像をはじめとして実作例でも蓮華は欠失していても水瓶の痕跡が残っているものが多い(注16)

 しかし、右手については若干の問題がある。経典では①・②訳が「串瓔珞施無畏」とし③訳が「掛数珠及施無畏手」とするのである。この差に注意すると、法隆寺像(挿図14)は右手に数珠を持つことから③訳によっているが、頭上面は九面と特異ながら基本的には①②訳によっており、この点で多少の混乱を見せていることになる。東博像(挿図15)の右手については瓔珞を手首に掛けるように表し、かつ数珠を持つ。松田氏はこれを両系の訳を共に満たそうとする表現であると指摘し、また東博像の頭上面は①②系によることも考慮して、①②訳と③訳を折衷していると解釈し、造像年の上限が新訳の成立した顕慶元年(六五六)に求められると考えられた(注17)

 神福寺像(挿図16)の右手は、掌を正面に向けて垂下しており、施無畏印を東博像よりは意識しているのであるが、瓔珞を執っていた形跡は全くない。奈良博像も同形である。これが①、②系ならば、例えば法隆寺金堂の第十二号壁画の十一面観音像や石窟庵像浮彫り十一面観音像のように瓔珞を指に掛けている形であってもよいことを考慮すると、神福寺像および本像は何も持物を持たずに施無畏印を意識しただけのものか、あるいは指先に数珠を掛けていたかのどちらかである。仮に施無畏印のみを意識していた場合は、①、②系にも③系にも共に施無畏印のことを記載するが、頭上面の典拠を考えればより①、②系に近い像とすることも可能である。しかし数珠を持っていた場合には、法隆寺像と同様の混乱が生まれることになる。

 このように前者の解釈をとれば、神福寺像や本像は①②系の旧訳による像として東京国立博物館や法隆寺像より古い姿をしていることになるが、確実には決めがたい。よってこの問題には本論ではこれ以上立ち入らぬこととし、神福寺像との共通性を確認しておくことに留めたい(注18)


 以上、経典に基づいて本像の頭上面および左右の印相・持物について見てきたが、おおよそ①・②の訳経に基づくと考えられるものの、右手の表現においては③訳の適応も考慮され、また経軌との関わりは今一つ明確ではないが頂上面については仏身が意識され始めていることを指摘した。そして実作例ではまずは神福寺像、次いで東博・法隆寺像が近いことが分かった。また我が国の作例においては、殊に頭上面が③訳によることがはっきりしており、面数も計十二面となる道明寺像とは異なることが明らかになった。本像は道明寺像より古い姿を意識して作られていると見ることが出来るのである。

 ところで道明寺像は、松田氏が細部の表現や本寺が土師氏の氏寺であったということから宝亀頃に作られたと位置づけをされている(注19)。これによって先に記した奈良博と道明寺像の関係を考えると、奈良博像は宝亀以前に作られているとの考えも生まれてくる。図像的なことが直ちに製作時期を示すとは言えないものの、道明寺像以後の作例には頭上面が③の新訳のタイプの作例が多いこと、そして十二面形式の像も多いことを考慮すれば、この違いは重視してさらに考察を続けるべきこととなろう。




 二 檀像における位置


 先の経典間における訳語の違いにもう一度注目すると、荘厳に関する記述として①・②訳では「身刻出瓔珞」となっているのに対して、③訳では「身上具瓔珞等種々荘厳」となり、④訳では「身種々瓔珞荘厳」となっている(注20)。ここに瓔珞に関して「刻出」と「具」というニュアンスの違いを如何に捉えるのかと言うことになるのだが、前者の語感は共木から瓔珞等を全て彫りだすという法隆寺像をはじめとする檀像を思い浮かべさせるのに対して、後者は瓔珞等を身上に付けていればよく、刻出という制作技法に及ぶ行為までを喚起させるものではなかろう。つまり別材で作って貼り付けていても、荘厳が具わっていればよい分けである。

 以下の記述は、決して上記の経典のニュアンスの違いが関与したことを述べるものではないが、純粋に技法の上から考えても、装飾を共木で彫り出すものから、別材を足していくものへと展開することは自然だと思われる(この技術的な変化があって、訳語の方も変化したとも考えられよう)。また装飾を共木から彫り出すということは、結果としてその下にある肉身や着衣を多少は犠牲にするという事にもなり、装飾具優位の造形を生む。これに対して装飾が別材で作られるときには、用材に対する意識は肉身及び着衣により向かうことになろう。このような視点からいくつかの檀像を、瓔珞等の共木の状態、装飾具(胸飾・瓔珞等)と着衣(天衣・条帛・裳等)の関係という二つの点に着目して眺め、本像の檀像内での位置づけを考えてみたい。

 堺市博物館蔵聖観音立像(挿図13)…胸飾・瓔珞は共木で極めて細かい彫りがみられ、衣の上に表わされ、装飾が衣より優位にある。一連の檀像のなかでは大ぶりであるのに、彫りは最も細かい事は注目され、衣は極めて扁平に表される(注21)

 法隆寺九面観音立像(挿図14)…胸飾・瓔珞は共木で細かく、衣の上に表わされ、衣より優位にある。勿論衣や肉身がなおざりにされているという意味ではなく、逆に見事な把握がなされているのであるが、装飾の主体はやはり瓔珞等である。

 東京国立博物館十一面観音立像(挿図15)…法隆寺像の意識と同じであるが、本像でよりはっきりと条帛・天衣は瓔珞の下になって現されているのが分かる。

 神福寺十一面観音立像(挿図16)…胸飾・瓔珞は共木で細かい。しかし、先の二像と異なる点は、条帛も目立ち、天衣も瓔珞の上を横切るなどの表現がみられ、装飾具と条帛・天衣の像の表面を飾る関係が拮杭してくる。そしてこれに応ずることだが、衣の質感を表わそうとする意識も、先の二像より増している。

 奈良国立博物館十一面観音立像(挿図1)…装飾具は一部別材で(注22)、上記作品より荒い彫り。そして天衣の下に瓔珞が表わされることになる。神福寺像で見られた関係がさらに進んでいるといえる。

 道明寺十一面観音立像(挿図17)…共木で装飾する意識は、奈良博像より少なくなっている。胸飾・腕釧・臂釧などに止まる。勿論別材で装飾されていたのであるが、本体自体では衣部の表現が主流となっている。ここに装飾意識の変化が明確に表れていると言える。

 法華寺十一面観音立像(挿図18)…装飾は共木では全く彫り出さない。天冠台・腕釧・臂釧でさえ銅板切り透かしのものを用いる。衣の線の美しさを強調する。

 海住山寺十一面観音立像…法華寺像と同様。

 醍醐寺聖観音立像…法華寺像などの衣に対する意識をさらに展開させ、衣の複雑な変化によって装飾がなされている。胸飾や瓔珞は別材で付けられるのであるが、全く二次的なものとなっている。

 以上、道明寺像以後についてはもっと作例が増え、法華寺像と醍醐寺像では二方向に表現意識が分かれたかに見える点なども重要な問題として残るが、その他の作例はおおよそ法華寺や醍醐寺像と傾向を同じくするので割愛させていただく。ここで奈良博像は、檀像においてはだんだんと荘厳具が別材になり、そして像の本体には衣による装飾の意識が進んでいくという傾向にあって、まさに過渡期の作品と位置付けることが出来ると思われるのである(注23)


 ここで檀像の表現と技法という面に立ち入ったことに関連して、本像の他の技法面における特質に及んでおきたい。

 本像は白檀の一材から頂上面より蓮肉下の心棒部分まで彫りだし(挿図19)、木心は左後方に外している。右手前膊部に矧ぎ目の線が認められるが、右手は手先まで共木であるようだ。台座蓮肉下の心棒まで含んで一材より彫出するやり方は、神福寺、唐招提寺伝薬師如来像や伝衆宝王菩薩像などと同じであるが、蓮肉から心棒にかけての形が本像において独特である。これらの像がみなメリハリのある形なのに対して、本像のはやや丁寧さを欠くとも言える。装飾品の彫りの細かさの違いが、この辺にも現れていると言えようか。

 また台座に設けられた★(ホゾ)穴に、本体の蓮肉から突き出た心棒を差込む方法は神福寺像と同じである(注24)

 技法面で最後に注意しておきたいのは、頭髪部に薄く乾漆をおいて、その上から緑青をかけていることである。

 このやり方の意図するところは、毛筋彫りを行わない地髪部を柔らかくボリューム感を持たせて髪の質感を表そうとしたことにある。木彫の彫技のみで表現するのではなく、補助材も使用するという意識は、神福寺、法隆寺像などの檀像意識からは離れたものである。この点で、先の考察において共木からの装飾意識から展開しつつあるという位置づけを行ったのと同じことが言えよう。そして注意すべきは、木彫において乾漆を併用することは、我が国においては珍しいことではなかったという点である。これは唐招提寺において、純木彫の伝薬師如来像・伝衆宝王菩薩像に対して、十一面観音像や金堂梵釈・四天王像の部分的に乾漆を併用する木彫像の存在を参考にすべきであろう。また同じ意識の像としては、大安寺十一面観音像・楊柳観音像などが挙げられる。つまり奈良時代に行われていた通常の技法であったことを物語っているのである。



 三 経典に表れない表現


 これまでは主として経典の記載に関係ある部分の表現について考察してきたのに対し、ここでは経典には記述のない箇所について述べてゆきたい。以下のイ~ヌの項において、本像の特徴的な表現を指摘し、その類例をたどって理解を深めておこう。そして、前節で述べた以外からの位置づけを行う参考としてみたい。

 イ、頂上面の左右の地髮部に★(ホゾ)穴があけられ、左方分には★(ホゾ)が残っている。(挿図10

 この★(ホゾ)の意味は一体何か。参考となると思われるものに、法隆寺像の同位置にある馬耳形飾がある。ただし法隆寺像では前方にも同様のものが付けられているが、本像においてはその痕跡はない。地髪の装飾としては、韓国慶州・石窟庵十一面観音の浮彫り像において、正面化仏の後方に中央先端が少し火炎形となった飾が見える。この関連遺品には、法隆寺金堂壁画の菩薩に天冠台のアーチが二重になった形で、上方のものは化仏の後ろに廻って地髪部を装飾しているかに見えるものがある。同様な意匠は、東大寺大仏蓮弁線刻画中の菩薩や大安寺の伝千手観音立像などにも見られ興味深い。またあるいは南都仏画の伝統を引くと指摘される本館蔵の国宝十一面観音菩薩画像には、髻部に花飾の様なものが見えるのも留意すべきかも知れない(天冠台も基本的に近い構成をしている)。

 本像の頭部の★(ホゾ)穴は如何なる役目をしていたのか完全に想定することは出来ないが、地髪部に何らかの装飾を付ける場合があり、本像も同様に考えておくことは出来る。

 因みに髻と頂上面の間にも★(ホゾ)が残っているが、これは頂上仏面のための頭光があったものであろう。



 ロ、頭部正面につく化仏が立像であること。(挿図4

 法隆寺や東京国立博物館像は坐化仏であるが、石窟庵像が立像化仏であることは立・坐双方のやり方があったことを示している。神福寺像は欠失しているが、その痕跡の幅から判断すると立像の可能性が高い。



 ハ、水瓶の持ち方は手首を立てて掌を正面に向け、第一指と三指の間に水瓶の口を挟み、第二指を上げてその口縁に添える。(挿図20

 この持ち方は、五指で水瓶の首を握って手の甲を正面に見せる法隆寺や石窟庵像とは異なる。この点で、現在は水瓶を欠失するが神福寺像の手指の動きは極めて近い。神福寺像が本像と同様に水瓶を執っていたことは間違いなく、先述のように右手も同じ印である。


 ニ、水瓶の形は、首が長く、やや下膨れの卵形の胴を持つ王子形水瓶である。(挿図20

 仏像の持つ水瓶では、法隆寺像(挿図22)や石窟庵像が比較的近いが、これらは胴の肩部分に張りのある点が異なる。我が国では法隆寺百済観音像の水瓶はより胴の張りがあり、本像のようなスマートさはない。奈良時代の作と考えられる薬師寺十一面観音像の水瓶は胴部の下張りが極めて強い点はやはり本像とは隔たり、東大寺二月堂本尊光背の線刻の中に見える水瓶も肩張りがあり幅広である。また平安時代あるいは奈良時代作との意見もある、滋賀来迎寺聖観音像の水瓶とも異なる形で、三重観菩提寺十一面観音像の水瓶とも異なる。



 以上当初の水瓶を持つわずかな像と比較したが、違いばかりが目立つのみで、位置づけにはあまり役立つとは思えない(注25)。そこで水瓶の位置づけのために実作例に管見の及ぶ範囲で目を向けると、もっと近いものとして個人蔵の響銅王子形水瓶(注26)(挿図21)が見出せる。首部が殊に細く長いことは勿論、特に胴も細くてやや下方が張るという特徴を持つ点で他の同様な王子形水瓶より似ている。この作例は中国製であるが、六朝末期とも初唐とも言われ製作期の考えには幅がある。これに準じて似る作例は、六世紀後半の群馬県観音山古墳から出土した水瓶(文化庁蔵)や、白鳳から奈良時代とされる法隆寺献納宝物中のいくつかの水瓶(東京国立博物館蔵)(注27)が挙げられる。

 いずれにしても、我が国では奈良時代も早い頃に属し、中国では六朝時代以来の伝統のある古様な水瓶の形をしていると言えよう(注28)


 ホ、裳の下にさらに下裳を着けているので、裳裾が二段に表される。(挿図1

 あまり見られないやり方である。檀像系統ではベルリン美術館の十一面観音立像に見られ、中国では唐上元二年(六七五)完成の龍門石窟奉先寺洞・脇侍菩薩像に見られる。また我が国では、九世紀の作例と考えられる薬師寺十一面観音立像に認められる。よって我が国ではやはり奈良時代から平安時代にあり得た表現である。


 ヘ、首飾は玉繋帯と基本帯の二重構成からなり、基本帯には中央に大きな花形、その左右に斜面花を配し、各花形の間を幅帯でつなぐ。また中央の花形の周辺に対葉文風の唐草がおかれている(注29)。(挿図23

 この玉繋帯と基本帯の二重の構成は、松田氏によれば法隆寺金堂壁画や法隆寺塑造文殊菩薩像にみられ、東大寺法華堂不空羂索観音像(本像と同じく中央に三大珠をあらわす珠繋帯を持つ)を経て、わが国の伝統的な形式になるという。本像はこの伝統形式によるのだが、法華堂像の様な全体を緊密な構成でまとめる感覚とは異なりゆとりのあること、また基本帯が紐二条と列弁で構成される点で近いものとして、願興寺聖観音像(挿図24)や額安寺虚空蔵菩薩像など八世紀後半の保守的胸飾とされるものがあげられる。そして基本帯の飾に斜面花が見られること、唐草が対葉文風となることでは唐招提寺十一面観音像などやはり八世紀後半の新様胸飾の影響を無視する訳にはいかない。

 つまり本像の胸飾は、上記の保守的なものを基本として新様を折衷していると見ることができ、その点で折衷様として捉えられた大安寺聖観音像の胸飾(注30)(挿図25)と同傾向にあるものと言える。改めて大安寺像と比較すると、連珠文帯と列弁帯を合わせた基本帯は異なるが、全体の構成や唐草・幅帯の展開に近いものがある(注31)



 ト、瓔珞は現在胸飾から下と腹部の間を欠失するが、もとはここを繋ぐ装飾帯があった痕跡が残る。さらに背面では殆どの瓔珞は欠失するが、裳の左右たくし上げから両腰脇にいたる瓔珞の痕跡や、天衣の下縁を彫り込んだ面には大小五つの★(ホゾ)穴が残っており、天衣下にも何らかの装飾があったことを伺わせる。


 このように背面に渡るまで賑やかな装飾がなされている例は少なく、特に天衣下から腰までの間の装飾は法隆寺像、東博像、神福寺像においてさえ見られないものである。檀像の例としては、堺市博物館の聖観音像に背面天衣の上に瓔珞が表されている例がある。また大安寺の十一面観音像の天衣下にはたくし上げから続く組紐が見られることなどが参考となる。ただし、隋・唐の石像をはじめとする菩薩像をさがせば、例えばクリーブランド美術館の石造菩薩像などが容易に見つかる。

 また細かな点では、瓔珞等の房飾の先に、さらに小さな飾を付けている。このやり方は、神福寺像に先例がある。



 チ、臂釧は、基本帯に円形の菊座を付ける。(挿図2

 このシンプルな形は、法隆寺塔本塑像の文殊菩薩からみられ、興福寺八部衆、東大寺大仏蓮弁の供養菩薩まで続くが、唐招提寺木彫以降は木瓜型菊座が主流になることが指摘されている(注32)。本像はその意味で八世紀半ばまでの形であると言える。菊座の上下に蕾みを付けるのは、大仏蓮弁に近く、後に述べるボストン美術館釈迦霊鷲山説法図の菩薩にも近い表現がある。



 リ、文様については、刻線によるものと、金泥などによるものがある(切金は認められない)。

 前者は裳の折り返しの縁に表れる。金泥による文様は、裳の各所や台座に及ぶが、これらは当初のものかは断定できず、田辺氏によれば後の付加としても平安後期までのものであるとされている(注33)。本稿においても当初のものとの結論を出すことが出来なかった(注34)

 ただ、刻線によって、裳の折り返し部で縁を房状に表すのはあまり見られないものであるが、奈良時代では唐招提寺伝獅子吼王菩薩像や道明寺十一面観音像に見られる。


 ヌ、台座下框の左右に孔が開いている。(挿図26

 この孔はどの様な目的のためにあけられたものなのかを考える上で、東大寺法華堂不空羂索観音立像の台座は参考になる。水野敬三郎氏(注35)は、この台座の受座上面に、左右に方形★(ホゾ)孔が開けられていることを見逃さず、この穴の役割を『覚禅抄』(巻五十、不空羂索上)の裏書に「東大寺法花堂丈六不空羂索立像坐ヨリ蓮花ヲヒタリト云々」とあることから、この孔は蓮花を挿すための★(ホゾ)孔であったのではないかとされている。極めて卓見だと思われ、まさに本像の下框の孔にも適応できることではないかと判断される。



 以上の考察から改めて本像の位置づけに参考となる事項を取り上げておく。

 まず、水瓶の持ち方は神福寺像と同じであることを確認した。第一節で述べたことと合わせて、本像は神福寺像のような檀像に、基本的な姿-経典の記述から頭上面や持物等を解釈した形-を作る手本を求めたと考えてよいことになろう。次ぎに水瓶の形は六朝から初唐のもので、我が国でも古墳時代に既にありそして白鳳から天平初期のものに見られる古様なものであった。また瓔珞についても背面にまでにぎやかに装飾が及ぶ古様な形であった。つまり水瓶や瓔珞からは、少なくとも初唐までの仏像の姿が意識されていたと考えられるのである。以上のことは神福寺系統の像を手本として姿を決めたと言うことと矛盾するものではない。

 また胸飾の形から、おおよそ八世紀後半の作品に共通する意識で形成されていると考えられたことは、第一節で指摘した古様な姿が、我が国で明らかに変化する宝亀頃の道明寺像を遡るということと合わせて、本像の製作期を推定する興味深い要素となろう。そして臂釧においてもこの期の作例と共通性があり、裳の折り返しの刻線文様も同様であった。さらに極めて少ない例と考えられる台座下框の孔が東大寺法華堂本尊像の台座に共通するものがあった点も以上の時代性を保証する一要素となるであろう。



 四 製作期について


 前節までは細かな点に及んで考察してきたが、ここでは改めて全体の作風を中心として、またこれまで取り上げていない表現を補足しながら本像の製作年代を結論づけたい。まずは平安初期説を改めて検討する意味でも、八世紀末から九世紀初めのいくつかの平安初期木彫像とその主だった違いに注目して比較してみよう。



・新薬師寺薬師如来坐像 八世紀末

 はっきりした目鼻立ちに共通点を見出すことも出来るが、その顔の形、量感表現などはデフォルメされ、古典的表現の範疇にある奈良博像とは異なる意識下に作られている。また衣文線も、複雑に表わされ、その彫り口の本像との違いは明かである。



・宝菩提院菩薩半跏像    八世紀末~九世紀初

・道明寺本尊十一面観音像  同

 この二体は、同じ感覚を示すもので、あたらしい中国彫刻の影響によるとみてよい。顔立ちは丸々とした張りがありそして引き締まり、表情は真剣な面持ちとなる。ここには、奈良博像の様な、明るさ、おおらかさといったものは感じられない。また、衣のうねりや衣文線の複雑さなどで表面を装飾しようとする意識がみられ、奈良博像から一歩展開した装飾意識が窺える。先に述べた道明寺本尊像との頂上仏面の比較に置いても、奈良博像より一歩進んだ表現である結論を得た。



・神護寺日光・月光菩薩立像 九世紀初

 日光菩薩は、上半身の左半分と腰以下が当初のもので、月光は膝以下が当初とみられる。弘仁年間(八一〇-八二三)の作と考えられる。複雑な衣文と深い彫り、渦文の存在や裳裾のやや重たげな処理の仕方など、奈良博像とはやはり異なる表現である。



・東大寺弥勒如来坐像 九世紀初

・金剛心院如来立像  同

 例えば元興寺の薬師如来像などの八世紀末~九世紀初めの木彫が、次に展開して得た表現の一つは、衣文のスピード感であったと考えられる。この二体の如来は面相や量感表現のみならず、その点でも共通する像である。しかるに、奈良博像の衣文には全くスピード感はない。



・唐招提寺伝釈迦如来坐像(注36) 九世紀初

 新宝蔵に納められている木彫像で、丸まるとした面相や整った体つきは八世紀後半の頭塔の石仏などの作風を引くものと思われる。本像などは平安期に入っていまだ前代の作風を残して造像されていた仏像の一例とすることができるであろうが、奈良博像の卵形の面相や顔立ちとの違いは明かである。



・法華寺十一面観音立像 九世紀前半

 既に装飾意識について比較したが、その外にも顔立、表情、体の動き、肉付け、衣のスピード感など、どれをとっても奈良博像とは隔たりがある。



・奈良国立博物館薬師如来坐像 九世紀前半

 東寺講堂諸像との共通点を指摘される(注41)本像は、その衣文線の粘りのある表現や、面相では顎を小さくまとめて極端な伏し目とすること、鋭い上唇など、独特の感情が表現されている。奈良博十一面観音像の古典的済整感の強い作風とは一線を画するものがある。

 以上数例の平安初期彫刻と比較したが、はっきりとした顔立ちという点で近いと思われる新薬師寺本尊像以外は、顔立ちから体つきそして衣の表現にいたるまで隔たりを感じさせる違いを見出せた。また新薬師寺像との顔立ちの近さにしても、量感や衣文の彫り口の違いを考えれば、本像が先にあってその顔立ちを引きデフォルメを加えたところに新薬師寺像が成立したものであるとも考えられよう。新薬師寺像の成立には、天平末期の制作と考えられる神護寺薬師如来坐像との共通性に注目して論じなければならない問題があると考えるが、天平後半期の木心乾漆像の展開の中で生まれたと考えられる神護寺像に新薬師寺像が共通することは、本像などの顔立ちが先行して存在し、その系譜上にあらわれたという推測を補足してくれるものであろう。とりあえずここでは、八世紀末から九世紀前半の平安初期木彫像の中では、本像の表現は落ち着きにくい事を確認した。


 次に行いたいのは、これまで述べてきた天平彫刻との関わり以外で、特に作風を中心にしてもう一度天平時代の作例の中で考えると、如何なる関係が指摘できるのかを見ることである。

 まず体つきであるが、両肘を張って体部との間に広い空間を作り、像に大きさとゆとりを与える表現は、例えば聖林寺十一面観音像や観音寺十一面観音像などに見られる表現である。また松田氏が指摘された、天平後半期の仏像の側面観は、頭・体の軸が垂直に通り動きが少ないという特徴も本像に当てはまろう(注37)

 条帛は右脇腹を通る比較的高い位置にかけるのであるが、これは天平彫刻一般に多いかけ方であり、さらに垂下部を正背ともに作らないすっきりとした条帛は旧勧修寺繍帳の菩薩像や法隆寺橘夫人厨子板絵の化生菩薩、東大寺大仏蓮弁線刻画の菩薩像・同じく旧二月堂本尊光背の線刻画の菩薩像、ボストン美術館釈迦霊鷲山説法図の菩薩像他に見られる。

 また天衣の素直でやはりすっきりとした掛け方は、聖林寺像・観音寺像を初め、法隆寺伝法堂東の間三尊脇侍像等に近い感覚がある。

 最後に面相とその表情について見ておこう。先述のようにはっきりとした目鼻立ちは、新薬師寺の薬師如来坐像(挿図28)や神護寺の木心乾漆薬師如来坐像と共通する感覚もあるが、新薬師寺像ほどのデフォルメ意識はなく、顔立ちは全く異なり卵型となっている事が注意される。この卵型の顔は天平美術において見出されるものであって、彫刻では聖林寺像(挿図27)や観音寺像に近く、さらにボストン美術館釈迦霊鷲山説法図に描かれる菩薩(挿図29)などの絵画作品もあげうる。

 唐画か日本画かで議論のあった本図は、現在では日本画とみられているが、我が国の絵画と唐の絵画が極めて密接な関係にあったことを物語る作品と解されている。製作期は大仏蓮弁と天平宝字八年(七六四)頃の栄山寺八角堂装飾画の間とする説、天平勝宝末年から宝亀頃(七五五頃-七七五)説、天平盛期説などが提出され、おおよそ八世紀中頃から第Ⅲ四半世紀までに考えられている(注38)

 この図の菩薩は卵形の端正な面相がまず本像と近く、そして墨と緑青で描かれた明瞭な弧線の眉、伏し目がちではあるがはっきりと開かれた目も近い。またそこに現れた上品で明るい表情も本像と通じる。中尊の如来(挿図29)も同傾向の顔つきなのは勿論であるが、特に一種の甘い表情を持っているのは、やはり本像の頂上仏面に通じるものであるのも留意される。

 以上、本像と釈迦霊鷲山説法図中の諸尊との顔の輪郭や眉目の表現の共通性を指摘したが、このことは釈迦霊鷲山説法図との共通性が指摘されている栄山寺八角堂装飾画における奏楽・供養の菩薩との近しい関係を導く。この装飾画は天平宝字四年から同八年(七六〇-七六四)に描かれたものと考えられる(注39)製作年代のはっきりしている作例である。

 この様に、天平時代の絵画遺品において釈迦霊鷲山説法図や栄山寺八角堂装飾画に本像の顔が共通した感覚を示していることも、これまで述べてきた細部の特徴と同じく、本像の時代性を示すものであると言えよう。そしてこの両者の絵がおおよそ八世紀半ば過ぎに製作期が求められていることは、本像の制作時期として宝亀頃の作と推定される道明寺像より遡ると考えたことと適応するものと考えられる。



 結び


 以上第一節では、経典と表現の関係を探り、檀像のなかでは玄奘訳に説く姿の意識が明瞭な道明寺像よりは神福寺像のような古い姿を意識していること、また第二節では檀像の装飾意識の展開の中ではやはり道明寺像よりは共木で装飾を彫り出すという古様な檀像に通じる意識が強いことを確認した。

 第三節では、本像の特徴と思える表現を取り上げ、中国以来の様々な表現・意匠が息づいていることを見たわけであるが、その中から本像の位置づけに特に参考となったのは水瓶の持ち方や形からやはり神福寺像のような檀像が手本となっていることを改めて確認し、我が国での製作時期としては胸飾の形から八世紀後半ではないかという示唆を得た。

 そして第四節において、平安初期彫刻との比較、天平時代の彫刻との共通性を中心に、またボストン美術館の釈迦霊鷲山説法図や栄山寺八角堂柱絵の菩薩像の顔立ちに共通性のあることを指摘し、制作期としてはおおよそ八世紀半ば過ぎという時期を得たのであった。


 最後にこのように制作時期に八世紀の第Ⅲ四半期という見通しが着いたところで、改めて本像の持つ意味を考えておこう。

 これまで述べたように、本像の図像的側面としては唐代の檀像である神福寺十一面観音像のような像が影響していることが判明した。この点に関して興味深いことは、やはり同時期の十一面観音像で神福寺像の影響を濃厚に受けている唐招提寺(法花院)十一面観音像が存在することである。唐招提寺像は、朽損のために本像ほど神福寺像との図像的な比較はできない像であるが、切れ長で少し細めた目や、胴長の上半身でやや硬直した感のある体形などの作風面において極めて似ており、神福寺像を拡大して作ったとでも言える像なのである。勿論丸く張った面相などは唐招提寺の伝衆宝王菩薩をはじめとする木彫群に共通するところであり、神福寺とは作風を異にするところもあるのだが、神福寺像を下敷きにしていることは先に述べた点より明らかである。

 よって、唐招提寺像の存在より考えれば、本像における神福寺像の図像の強い影響は、八世紀後半における鑑真和上来朝に伴った唐招提寺での造像の動き(注40)に神福寺像のような像を尊重するという傾向のあった事が関係しているのではないかと考えることができる。

 ところが、本像は唐招提寺像とは違って、まるで異なる作風で神福寺像を消化している。全体の印象からいえば神福寺像がかっちりとまとまった縷刻の像であるのに対して、本像には明るさと自由さがあり、全く系列を異にする像に見えるのである。そしてこの作風が、体形や面相などにおいて、他の奈良時代の彫刻や絵画作品に共通する特徴であったことは、本像が唐招提寺とは別な環境において作られたことを物語るものであろう

 また本像の神福寺像からの自由な点は、図像面においても頂上仏面を髻の前に置くという異なる方法を採るなど、独自の解釈を示す点もある。要するに、本像を作るのに際して神福寺像は主要な参考像として用いられていることが窺えるが、唐招提寺像のような強い規制を受けているわけではないのである。

 このように鑑真の影響力の強い唐招提寺という環境を離れた造像界においては、比較的自由に唐彫刻の必用な部分だけを取り入れて造仏を行うという状況の存在したことが窺われてくる。そしてこの点は、唐彫刻を受容する際の、つまり日本化の一つの在り方を示す事例と考えられ、他作例による検証が待たれる。




 【注】

  1. 近年奈良時代から平安時代にかけての彫刻史の再検討が様々な視点を持って行われている。このような研究の導火線となったのが井上正氏の『古佛彫像のイコノロジー』(法蔵館 昭和六一年)をはじめとする一連の研究である。また『東大寺と平城京 日本美術全集4』(講談社 一九九〇年)は、これまで奈良時代の彫刻には入れられていなかった多くの像を積極的に採録している。
    本論では、ことに松田誠一郎氏の左の研究を参考とした。

      ①「大阪道明寺十一面観音像(伝試みの観音)について 上下」
       (MUSEUM 四四八、四四九 昭和六三年七月・八月)

      ②「東京国立博物館保管十一面観音像(多武峰伝来)について 上下」
       (『国華』一一一八、一一一九)

      ③「八世紀の胸飾における伝統の形成と新様の受容について
       -彫塑付属の胸飾を中心として-」
       (MUSEUM 四二二、四二三 昭和六一年五月)

      ④「菩薩像、神将像の意匠形式の展開」
       (『東大寺と平城京 日本美術全集4』所収 講談社 一九九〇年五月)

    東京国立博物館の『平安時代の彫刻』昭和四六年
    昭和四六年十一月十九日付日経新聞の記事

    奈良国立博物館『観音菩薩』昭和五二年、なお解説はその後昭和五六年に発行された『観音菩薩』を参照。

    奈良国立博物館『東アジアの仏たち』(平成八年)の解説において、松浦正昭氏は、垂れ先を見せない条帛の形、抑揚のきいた体躯の造形、足元にわずかにかかる短めの裳のさまなど、奈良時代後期の特徴がなお残されているところから、平安時代初頭を降らない時期の制作と判断され、用材は白檀でないとする。

    奈良国立博物館『大和の古代美術』(昭和六三年)の解説において、岡田健氏は、裳の下半に刻まれる翻波式の衣文と、腰を捻って立つポーズも、平安初期彫像の特徴と理解する。また、九面観音と比べ、精緻でありながら自由でのびやかな彫り口を見せており、同じ檀像でも両者には彫刻としてかなりの隔たりが感じられ、これより本像を請来像とする説もあるが、中国彫刻としての特質を明確にしたものではなく、いま日本彫刻史の流れの中でとらえるならば、九世紀初め頃と考えるのが妥当であろうとする。

    松田論文①他で九世紀前半とする。

    田辺三郎助「十一面観音檀像」(『国華』一一二七 平成元年十月十日)

    この点は松田説②を引用されている。

    また本像の金銀彩について、造像時の所為か結論をいそがないが、後の付加としてもそれほど後代のものではなく、平安後期までの繊細、高雅な気分を示すものであるとする。彩色に関しては、注(34)を参照されたい。

    本像がわが国でいつ作られたかに関しては、あまり議論が無く、平安初期の九世紀前半とされるのが普通となっているのはみた通りであるが、田辺氏をはじめそう考える根拠は①飜波式衣文、②腰を捻って立つポーズ、③表情の明快さ、④後頭部の地髪下端にふくらみを持たせることのおおよそ四点である。

    本文中では論述の都合上、一々この点に触れていないので、ここで上記諸点について疑問を呈しておきたい。①については、すでに法華堂本尊や唐招提寺伝獅子吼王菩薩にある。②については、法隆寺伝法堂など木心乾漆では珍しくない。③については、本文中で触れるがこの点こそ天平のもので、平安初期のデフォルメはない。④については、やはり乾漆像で秋篠寺梵天などに認めてもよいのではないか。

    また直接に製作年代を論じるものではないが、楠井隆志「法華寺十一面観音の分析的研究」(古美術一〇一)において、奈良博像を次の三点で九世紀前半に組み入れている。①垂髮を異質で作る。②裳の折り返しが股間で大きく垂れる。③上脚に衣文を彫出しない。

    まず①については、乾漆を置くことを言うのであろうが、この点は本文中でも触れたように奈良時代に既に一般的な技法である。②については、やはり奈良時代の聖林寺や観音寺の十一面観音像、さらに法隆寺伝法堂西の間阿弥陀三尊像の脇侍菩薩像においてその傾向が見られる。この表現で最も顕著なのは道明寺本尊像であるが、道明寺本尊像と奈良博像の関係はその頂上面について本文中で述べている。③は、この部分に瓔珞の表現があるという条件を考慮しなければならないが、楠井氏の記述の中では八世紀後半から九世紀前半の傾向ということになっているから、本論の趣旨とは矛盾しない。

    『仏書解説大辞典』参照。頭上面に関する箇所をあげておく

    ①大正蔵経二十巻 No.1070
    「身長一尺三寸作十一頭、當前三面菩薩面、左廂三面作瞋面、右廂三面似菩薩面狗牙上出、後有一面作大笑面、頂上一面作仏面、面悉向前後著光、其十一面各戴花冠、其冠中各有阿弥陀仏」

    ②大正蔵経十八巻 No.901
    「作十一面、當前三面作菩薩面、左廂三面當作瞋面、右廂三面似菩薩面、狗牙上出、後有一面當作笑面、其頂上面當作仏面、其十一面各戴華冠、其華冠中、各各安一阿弥陀仏」

    ③大正蔵経二十巻 No.1071
    「作十一面、當前三面作慈悲相、左辺三面作瞋怒相、右辺三面作白牙上出相、當後一面作暴悪大笑相、頂上一面作仏面像、諸頭冠中皆作仏身」

    ④大正蔵経二十巻 No.1069
    「作十一頭四臂、右辺第一手把念珠、第二手施無畏、左第一手持蓮華、第二手執君持、其十一面當前三面作寂靜相、左三面威怒相、右三面利牙出現相、後一面作笑怒容、最上一面作如来相、頭冠中各有化仏」

    松田前掲論文①
    氏はこの論文中で、菩薩相で牙を出す例に聖林寺、美江寺の十一面観音像及び葛井寺千手観音像をあげる。また忿怒相で牙を出す例に金剛山寺、法華寺十一面観音像をあげる。

    千手観音像ではあるが葛井寺像の後面も菩薩相で大笑いをしている。

    頂上仏面に関しては長岡龍作「山形宝積院十一面観音像をめぐって」(『美術史』一二一 昭和六二年)が詳細な考察を行っている。但し氏は、経文間の相違には身体を含むという意味を汲み取れないとしている。

    近年発見された与楽寺像は、道明寺像と同じ条件となる。

    本文中で取り上げなかった像について記しておく。

    薬師寺像は、髻の上に大きく仏身を置くのでやはり道明寺本尊以前の意識といえる。本像と同じ過渡期と考えてよいか。上記長岡論文でも、南都で頂上仏面に関する意識があったことを『覚禅抄』十一面の元興寺金堂十一面観音、観世音寺十一面観音の図像から指摘している。その意味で、この薬師寺像は注目されてよく、先の二図像ほど大きく上半身を見せないまでも上半身の存在か描かれる東大寺印仏像・大仏殿金銅等身二躯・百如法院仏・吉祥堂東像・戒壇院三体の一などの図像が興味深い。

    宝積院像は、最も仏身の意識が高まり、上半身のみならず両手先まで表している。長岡氏はこれを円仁請来で前唐院にあった白檀像の系統を引くとされ、頂上仏面に対する天台内のでの対応を跡づけた。長岡氏によれば、長円寺像は宝積院像の系譜となる。これらは道明寺本尊像以後の展開と言えるであろう。

    また平安初期以後はこの頂上仏に身体を表す像があまり見られなくなった事情として、長岡氏は長宴の『四十帖決』に頂上仏面に身体を作すのは非であるという記事を引き明快に説明している。

    慧沼の『十一面神呪心経義疏』(大正蔵経三十九巻)においては、「十一面者実是十二面也」との解釈をとっている。③の玄奘訳の義疏で、慧沼は開元二年(七一四)に没している。

    千手観音では唐招提寺金堂像も同じく合計が十一面タイプである。唐招提寺木彫像の影響を受けていると考えられる道明寺像が十二面タイプであるのとの比較は唐招提寺内での金堂の仏像と講堂の仏像の比較に興味深い。

    ①「観世音左手把瓶、瓶口出蓮華、展其右手以串瓔珞施無畏手」

    ②「其像左手把一、其口挿一蓮華、右臂垂下、展其右手、以串瓔珞施無畏手」

    ③「左手執紅蓮華軍持、展右臂以掛数珠、及作施無畏手」

    ④については前述

    また細かな用語に注意しておくと、経文中①②に水瓶のことを「澡」(=藻)瓶と記しており、「澡」の字に注意すると説文には「玉飾、如水藻之文」とある。本像の水瓶表面には金泥で文様が描かれるが、水草文を表していると考えられようか。

    松田前掲論文②

    ここで注意しておきたいのは、既に副島弘道氏が『日本の美術三一一 十一面観音像・千手観音像』(至文堂一九九二年)で指摘しておられるように、中国においては現存作例で判断する限り、かなり経典とは異なる表現も多く見られることである。その状況より判断すれば、本文中に挙げた作例などは、むしろ経典に忠実であると言える。しかし、中国の事情に照らせば、瓔珞を手に取らせるのは檀像にしても彫技的に難しく省略したとの推定も可能である。

    松田前掲論文①

    ①「其像身須刻出瓔珞荘厳」

    ②「其像身上、刻出瓔珞種種荘厳」

    ③「其観自在菩薩身上、具瓔珞等種種荘厳」

    ④「観自在菩薩身種種瓔珞荘厳」

    ここには中国的刻縷の典型と時代的古さを感じさせるものがあり、隋の作という考えに賛成したい。

    奈良国立博物館像の細部の貼付け部分
    胸飾から腹部中央の花形の間を繋ぐ部分、胸飾左右の斜面花から天衣上段に伸びる部分(推定)、左大腿部の花形、天衣上段中央したから下がる組紐の先、背面左右裳のたくし上げから続く部分、背面天衣より垂れ下がる部分など。この他、仰蓮弁の単弁部分にも別材を打ち付けている。

    ここで注意を要するのは、奈良博像より先にあげた像は中国作例ばかりであることである。中国作品と日本の作品を同一線で論じて過渡期というのは不都合だが、我が国作例は中国仏像の展開がある程度そのまま現れているのだという前提に立てば、あながち無理な判断ではなかろう。

    また、本像の瓔珞等は中国檀像に較べると彫りの荒さが目立つ。これは、工芸史の方で魚々子の打ち方の精粗を日中の違いと判断することがあるが、同様な事例と考えられる。

    この方法は、我が国においても法輪寺虚空蔵菩薩像で既に採用している。

    また本文中で述べていない台座の構造については、反花より上方は左右に二材を、下框(二段)は前後に二材を寄せ、この上下都合四部分を鉄釘四本で留める。また反花の複弁部の一部には別材を足している。下框上段の後方には光背用の★(ホゾ)穴があけられ、下段の左右には金具を留めていた痕跡と孔があいているが、これについては本文第三節参照。また表面には金泥文が描かれるのは本体と同じであるが、ここではその上に油引きがされているのが本体と異なる。

    龍門賓陽中洞北壁及び南壁の三尊の脇侍に近いものがある。この他中国・韓国の作例との比較をすべきなのであろうが、本像の位置づけにあまり効果的ではないとも思えるので、それは後日を期し、本稿ではより位置づけが明瞭になる実作例との比較を試みた。

    金銅仏にも多くの例があるが近いものはない。また形のくずれたものもおおい。

    聖林寺十一面観音の水瓶は、口部と台脚部を除いた部分を中心に当初のものであると判断されるが、本像に共通する形態であることは注目される。

    『珠玉の日本美術』(千葉市美術館 一九九六年)の阪田宗彦氏解説参照

    『大和の古代美術』(奈良国立博物館 昭和六三年)の河田貞氏解説参照

    中野徹氏「金工」(『隋唐の美術』大阪市立美術館 昭和五三年)の指摘によれば、首が長く、首・胴ともに細長くなるのは初唐のものという。

    これよりして本像の水瓶の形は、六朝末期から初唐と幅はあるものの古様な姿であることは認められる。

    首飾りの部分名称については、研究者によって異なる名称が用いられる場合がある。ここでは松田論文で用いている用語に大部分よったが、安藤佳香氏の用いられている用語も(「兵庫大龍寺菩薩立像(伝如意輪観音)について」〈『国華』二四五号〉)参考にさせていただき、「斜面花」を用いた。松田氏では「偏在形花形」という。

    また、偏在形花形を安藤氏は、(下向き)斜面花と表現する。安藤氏はまた全花形、三分の二花形の用語を用いる。今後は、胸飾の用語統一が必用であろう。

    松田論文③④

    ただし松田氏は論文③の注でわずかに本像の首飾りに触れ、本像を九世紀前半の作と考えて、唐草の配置形式に類似もののが高雄曼荼羅中に見出されるとする。確かに、高雄曼荼羅中には中央の花形の左右に展開する唐草に似たものがあるが、曼荼羅中のものは珠繋帯がないこと、中央花形の下には唐草が展開しないこと、斜面花が全く使われないことなど、敢えて高雄曼荼羅と同傾向と言えるものではないと考える。

    大安寺聖観音像は、田辺氏は九世紀かとするが(『大和古寺大観第三巻』解説)、松田氏は天平宝字年間(七五七-七六五)を大きく下らないとする。

    松田論文③④

    田辺前掲解説

    金泥の文様に関しては、切金を使わずに敢えて金泥を使用していることに次のような両様の考え方が出来る。切金を多用する時代以前の感覚の表れと見、奈良時代の金銀泥絵の範疇に入れて考えること。あるいは金泥で描かれた平安期の経典の見返絵の感覚の現れと見ること。本稿では結論を出すことが出来なかったのだが、奈良時代に遡る可能性の要素をいくつかあげておこう。

    一つは史料的に、『西大寺資材帳』の十一面堂の十一面と不空羂索観音の台座の記載に、金銀絵とあり、正倉院の宝物のみならず、仏像にも金銀泥絵が使われていたことが分かること。もう一つは、台座の金泥の雲文様が、ボストン美術館釈迦霊鷲山説法図中に描かれる雲や栄山寺八角堂の柱絵の雲などに近い感覚があり、そして、より近いと思われるものに、東大寺誕生仏の灌仏盤の口縁上部に表わされた雲があること。そして、類例が少ないのだが平安初期の雲と比べると、西大寺十二天画像の雲や、東寺灌頂堂の不動明王像の天蓋の雲などの形とは全く異なっていることにも注意できる。また金泥文様ではなく銀泥文とも黒または群青とも見える、下裳の四菱文様が、正倉院蘇芳地金銀絵箱(神護景雲年中 七六七-七七〇)や新薬師寺十二神将像のうち伐折羅大将像など数体の像の裳に見られることなども挙げられる。

    彩色について、広島厳島神社の諸尊仏龕や、和歌山普門院の諸尊仏龕と近いものがある。但し彩色も全て当初かの問題が残り、少なくとも本面や頭上面の唇の朱は後補であろう。

    『奈良六大寺大観 巻十 東大寺二』法華堂不空羂索観音像解説の項

    『奈良六大寺大観 巻十三 唐招提寺二』(岩波書店)の解説では、右顎に乾漆を盛り、右目の上瞼の線をを塑土で修正していることを指摘し、製作期は九世紀初頭前後とする。

    松田前掲論文②

    本図については、多くの論考が重ねられているが、関口正之「法華堂根本曼荼羅(釈迦霊鷲山説法図)」(『国華』一一二八号)がその経緯についても詳しい。ことに柳澤孝氏は天平盛期説を唱えられ(『在外日本の至宝1・佛教絵画』〈毎日新聞社 昭和五五年〉、秋山光和氏は初唐の敦煌壁画との共通性を指摘されつつ八世紀前半を下らない唐絵画の様式に対応するものであると指摘されている(「法華堂根本曼荼羅の構造と表現」〈『美術研究』三二三、昭和五八年〉)。また川村知行氏は、良弁の追善のために、示寂の宝亀四年(七七三)頃に作られたとする説を提示されている。(「法華堂根本曼荼羅と東大寺法華会」〈『論叢仏教美術史』吉川弘文館 昭和六一年〉)

    『栄山寺八角堂』(美術研究所編 昭和二五年)

    拙稿「旧講堂の木彫像群」(『日本の国宝6唐招提寺』朝日新聞社 一九九七年)

    奥健夫「東寺伝聖僧文殊像をめぐって」(『美術史』一三四 平成五年)

<<目次 次ぎ>>
▲ページトップへ